|
|
|
|
|
|
|
添乗レポート
日本の奇祭シリーズ
2019年02月02日(土)
奈良県・明日香村の奇祭『おんだ祭』と
謎の石造物探訪の旅 2日間
|
|
添乗レポート
明日香村の奇祭『おんだ祭』と
謎の石造物探訪の旅 2日間
1泊2日 日程
====================================
<00日目>02月01日(金)
■行程: 東京ディズニーランド→(車内泊)
ハイウェイ・バス王子駅行きで東京ディズニーランドのバス停を出発。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
<01日目>02月02日(土)
■行程: →王子・・・新王子→大和八木(お客様と合流)→橿原神宮前→飛鳥
【添乗レポート@: 2019年明日香村おんだ祭 / 2019.02.07更新】
夜行バスは、王子駅への道中、鮎沢パーキングエリア、土山サービスエリアにて休憩。
当初の予定では07時到着でしたが、一時間早く、到着しました。
お客様が大和八木駅に到着されるまで、時間があったので、視察に行きました。
■孝霊天皇片丘馬坂陵
孝霊天皇は古事記・日本書紀によると第七代天皇で、第八代天皇と言われる孝元天皇、
卑弥呼とも言われる倭迹迹日百襲姫命、桃太郎と目される吉備津彦命の父とされます。
第二代天皇の綏靖天皇から第九代天皇の開化天皇までは『欠史八代』と呼ばれます。
綏靖天皇は即位前の神沼河耳命の時代、皇位簒奪を謀った異母兄を誅殺しています。
即位されてからの事績は伝わっていません。孝霊天皇もまた事績が伝わっていません。
古事記・日本書紀が編纂されたとき、皇室の歴史の引き延ばしが行われてゆく中で、
大和各地の豪族の先祖が、皇統に加えられたとみる向きもあります。
実在しないと思われる天皇の陵墓があるというのは日本では普通の事だと言います。
片丘は住宅街ですが、その丘の一角に孝霊天皇陵はありました。
この場所が孝霊天皇陵に治定されたのは元禄年間です。
孝霊天皇陵の形は山形だといいます。
円墳、方墳、前方後円墳、前方後方墳、上円下方墳といった古墳には分類されません。
欠史八代の天皇の御陵はすべて、円丘や山形といった形状をしています。
御陵の周辺は、宮内庁によって美しく清められています。

王子には御影石のベンチがあちこちにありますが、ほとんどのベンチに動物の彫刻が・・・
左のベンチにはフクロウとカエルがなかよく座っていました。
なんと路上には日本では動物園でしか見られないアルマジロがいました。

王子駅に隣接して、新王寺駅があります。
近鉄・田原本線が発着する小さな駅です。
受験シーズンだからか、だるまが置かれていました。

西田原本駅(左)到着。大和八木に行くには、田原本駅に移動しなければなりません。
すぐ目の前にあるのは京都方面行きなので、踏切を渡って反対側に行きます(2)。
ちなみに孝霊天皇の皇居があったのは、田原本だと古事記・日本書紀にあります。

(次は飛鳥編。近日中に発信します)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【添乗レポートA: 2019年明日香村おんだ祭 / 2019.02.17更新】
★キトラ古墳
お客様のリクエストでキトラ古墳に行きました。
キトラ古墳の壁画の発見は、高松塚古墳の発見に次ぐ発見と考えられています。
天井には星宿、四面の壁には白虎・朱雀・青龍・玄武、十二支像が描かれています。
7世紀から8世紀にかけて築かれた古墳で、被葬者は阿部御主人(あべ・の・みうし)、
あるいは弓削皇子、はたまた高市皇子とも言われていますが、判明していません。
重要文化財に指定されている壁画はカビの発生等、劣化が心配されています。
そのため、壁画は石室から剥がされ、保存されています。
今回、『キトラ古墳壁画体験館 四神の館』で、玄武の壁画を見、貴重な体験をしました。

★於美阿志神社
延喜式神名帳にもその名が載る於美阿志神社は、檜前にあり、旧社格は村社です。
祭神は渡来人系豪族の東漢(やまとのあや)氏の祖である阿智使主夫妻です。
境内と地続きの一角には檜前寺跡があり、十三重石塔が残されています。
さらに第28代・宣化天皇の宮跡の石碑が建てられています。
このあたり一帯には渡来人系豪族の東漢一族が暮らしていました。

★高松塚古墳
昭和47年、偶然に発見された高松塚古墳の壁画館に行ってきました。
壁画は国宝で、半島文化が日本に頻繁に上陸していた飛鳥時代の傑作の一つです。
以前、朝鮮民主主義人民共和国の高句麗の古墳を訪れ、同じような壁画を見ました。
飛鳥時代は半島の文化の影響を強く受けていたことを改めて認識しました。
彩色ゆたかな人物画や四神が描かれた壁画は、国宝に指定されています。
出土品の多くはその技術の高さから需要文化財に指定されています。
被葬者は忍壁皇子、高市皇子のほか、百済の王族という説もあります。
高句麗古墳の壁画との類似点も考え、百済の王族という説になんとなくひかれます。

★中尾山古墳
中尾山古墳は墳丘が八角形をした、八角墳に分類される古墳です。
被葬者は確定していませんが、文武天皇陵とも言われています。
八角形の古墳というのは、古墳としては終末期に属する形状です。
仏教の影響を強く受けた形状といわれています。明日香村では天武天皇・持統天皇陵、
束明神古墳、岩屋山古墳、牽午子塚古墳等も八角墳の可能性があるとされます。

※飛鳥駅から南に位置するこれらの遺跡は、最近、急ピッチで整備が進んでいます。
飛鳥地方に50回以上行っていながら、キトラ古墳を訪れたのは初めてです。
今回はこのような貴重な体験を何度もしています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【添乗レポートB: 2019年明日香村おんだ祭 / 2019.02.18更新】
★猿石
近鉄飛鳥駅にほど近い場所に位置する第29代欽明天皇陵と呼ばれる古墳(写真・左)。
その古墳の西側に、吉備姫王(きび・の・ひめみこ)のお墓と呼ばれる古墳があります。
どちらも被葬者が正しければ、おじいちゃんと孫娘のお墓が寄り添っている感覚です。
吉備姫王は皇極(斉明)天皇と孝徳天皇の母にあたり、天智天皇・天武天皇の祖母。
墓域に置かれた四体の石造物が有名です。石造物は四体。猿石と呼ばれています。
猿とはいうものの、厳密に言えば猿とはいいがたい形状をしています。一応のところ、
左から『女』・『山王権現』・『僧』・『男』という愛称が付けられていますが実際は不明。
一部の像は性器をあらわにし、『僧』以外の像には、背面にも顔が彫られています。
1702(元禄2)年に平田村の池田にある田んぼから掘り出されたと言われています。
現在の場所に据えられたのは明治初年とのことです。尚、明日香村の南に位置する
高取町にある高取城の二ノ門跡にも、『猿石』と呼ばれる石造物が残されています。
もともと吉備姫王の墓と呼ばれる古墳の前に置かれた猿石と同じ場所から出土したと
言われています。そう言えば高取町の光永寺に置かれた『人頭石』と呼ばれる石造物も
何かしらの関連を匂わせています。一説には渡来人の姿を現したものとも考えられます。

(左: 欽明天皇陵古墳 / 右: 吉備姫王墓古墳)

(四体の猿石 ・・・ 左: 奥から『女』、『山王権現』 / 右: 手前から『僧』、『男』)
★鬼の俎/鬼の雪隠
欽明天皇陵と呼ばれている古墳の近くにある二個の石造物。高台の平べったい石が
『鬼の俎』、丘の斜面にある石が『鬼の雪隠』と呼ばれています。昔、この石造物のある
地域は霧ヶ峰と呼ばれ、鬼が棲んでおり、道行く人を捕まえては俎で料理をして食べ、
雪隠で用を足した・・・ そういうお話がこの場所の都市伝説?として残っていました。
実際は古墳の石槨であり、欽明天皇陵の陪塚とされ、宮内庁の管理下にあります。
かつて古墳の形状をなしていたものが風雨にさらされむき出しになり、石槨の蓋の部分
すなわち『鬼の雪隠』が斜面をすべり落ちたと考えられています。なんとなくロマンの
ある都市伝説ではありませんか?欽明天皇陵古墳の倍塚には金塚古墳もあります。

(左: 鬼の俎 / 右: 鬼の雪隠)
★亀石
野口の集落にあるおむすび型の大きな石造物。目や前脚が刻まれているために
その外見から『亀石』と呼ばれています。昔、当麻のヘビと明日香の鯰がけんかをし、
結果は鯰の負け。負けた鯰は、明日香の水場を当麻のヘビに取られてしまいました。
その結果、水場にいた亀が死に絶えてしまいました。それを哀れんだ村人が亀たちの
供養のために彫ったと言われています。これも飛鳥のロマンチックな都市伝説です。
実際にはマラ石や弥勒石と同様、条里の境界線に置かれた『立石』のひとつとも。
確かに、亀石の腹部と目される箇所には碁盤の目のような格子柄が刻まれています。
あるいは仏教伝来以前の神の姿とも考えられているとか・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【添乗レポートC: 2019年明日香村おんだ祭 / 2019.02.19更新】
★和風レストラン『あすか野』の創作古代食
亀石を見学した後、一路、石舞台古墳エリアに向け、自転車を漕ぎました。
予定外のキトラ古墳見学で充実の時間をとったため、少し急がねばなりません。
大和棟の民家が建ち並ぶ抜け道を走ります。レストランの予約は13時。
なんとか間に合いました。座るとすぐに、創作古代食『飛鳥の宴』が運ばれてきました。
古代のチーズと呼ばれる『飛鳥の蘇(そ)』や赤米、にゅうめん(あたたかい素麺)、
川魚の塩焼き、猪の燻製など、珍しい料理がきれいに盛り付けられていました。
食前酒の果実酒や、白酒も添えられていました。その日のメニューを見ながら、飛鳥の
味を堪能し、おみやげに『飛鳥の蘇』を購入。満足してあすか野を出発しました。

★石舞台古墳
明日香村島之庄に位置する石舞台古墳は飛鳥を代表する観光地で、特別史跡です。
伝説によると、蘇我氏の繁栄を築いた蘇我馬子の墓であるとか。むき出しの巨石が
威圧感と絶妙なバランス感で視覚にうったえてきます。石舞台という愛称は、その昔、
狐が石組の上で舞を舞ったからと言われています。これも飛鳥の古の都市伝説?
封土がはがれたのは、蘇我氏の悪行に起因しているとも言われていますが、実は
新たな古墳を作るため、廃墟?に近い石舞台から土や石を剥ぎ取って行ったからとも
言われています。石舞台古墳より東側の谷(細川)には小さな古墳がたくさんあります。
それらの古墳を造るため、石舞台の土や石が再利用されたというのも面白い伝説です。

★上居の立石
猿石や亀石、二面石、弥勒石、酒船石、マラ石等、飛鳥の石造物の総選挙を行ったら
上位に入ってきそうな面々に隠れ、地味な印象を受ける石造物もいくつかあります。
立石と呼ばれるこれらの石は、岡寺、豊浦にもあります。岡寺の立石は、岡寺の背後の
山の上にありますが、そこに行く道は近年、閉ざされてしまいました。岡寺のセキュリティ
強化のためか、滑落者を出さないための配慮か不明ですが・・・ 豊浦の立石は、豊浦の
甘樫坐神社の境内に置かれています(後述)。上居の立石もそうした立石の一つです。
上居の集落の入り口にひっそりと建っており、簡単な説明版が添えられています。
立石は古代の条里の境界線に立てられていた境界の目印とも考えられています。

★マラ石
石舞台古墳から南下すると、祝戸の集落のはずれに、一風変わった石造物があります。
男性のシンボルの形をしたその石は、『マラ石』と呼ばれ、親しまれています。この石も
亀石や立石等と同様、条里の境界線を示す境界石であったとも考えられていますが、
決定的な立証があるわけではなく、謎の石造物の一つとして位置づけられています。
おんだ祭や飛鳥坐神社の陰陽石(男女のシンボルの形をした石)群、飛鳥川上流の
稲渕の男綱・栢森の女綱に代表される飛鳥地方の性にまつわる史跡や民間信仰の
数々との関連性を感じずにはいられません。現在は大地から生えた男性のシンボルと
いう感じの外観ですが、かつては他の立石のようにそそり立っていたのかもしれません。

★二面石(橘寺)
厳密に測ったわけではありませんが・・・明日香村の中央部に位置する寺、橘寺。
聖徳太子(厩戸皇子)の生誕地と言われる寺で、境内には蓮華塚、阿字ヶ池、三光石と
いった、聖徳太子ゆかりの史跡や、塔の心礎として知られる美しい彫刻のある礎石・・・
その中で、異色の存在がこの寺の名を有名にしているといっても過言ではありません。
その名は・・・二面石。一つの石の両側に顔とおぼしき彫刻があります。穏やかな表情は
善で、いびつな表情は悪といい、善悪二面を表現しているとも言われています。しかし、
実際には誰が何のために彫ったのか、判明していません。噴水施設でもなく、猿石の
仲間でもなく、高取・光永寺の人頭石とも異なる不思議な造形が謎を深めています。

(右の顔が善、左の顔が悪と言われていますが・・・)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【添乗レポートD: 2019年明日香村おんだ祭 / 2019.02.21-22更新】
★川原寺跡(飛鳥の四大寺のひとつ)
小高い丘の上に建つ橘寺から北の方角を見ると川原寺跡の全景がきれいに見えます。
仏教伝来間もない敏達天皇時代の創建と言われていますが、実際には天智天皇が
母である斉明天皇の宮跡に建立したと考えられています。斉明天皇は飛鳥時代に
国際社会への参入を推し進めた天皇のひとりと考えられており、後述する酒船石や
亀型石造物とは無縁ではありません。斉明天皇は飛鳥の都に苑池を作り、外国からの
使節をもてなしたとあります。もしかしたら、飛鳥に点在する石造物は、そうしたおもてなし
外交の一端を担った庭園のモニュメントだったのかもしれません。ちなみに川原寺跡の
東、飛鳥川のほとりから自然石を立てた立石が見つかりましたが埋め戻されています。

<川原寺跡>
★酒船石遺跡
☆酒船石
飛鳥地方最大の謎を秘めた石造物とも言われる酒船石。船のような形の石の表面に、
不思議な溝が彫られています。酒をブレンドしたとか、薬を混ぜ合わせたとか、あるいは
宗教儀礼にしようした油を搾ったとか、様々な説がありますが、近年、隣接する土地から
亀型石造物等が発見され、庭園施設ではなかったか?という新説も唱えられました。
江戸時代草創期に高取城が築城された際、酒船石の一部が割られ、運び去られたと
考えられています。岡の集落の北のはずれの丘の上に置かれていますが、果たして
酒船石がどのような用途で使われていたのか、依然、謎のままです。飛鳥川のほとり
出水でも酒船石と呼ばれる石造物が発見され、現在は京都の碧雲荘にあります。

<酒船石>
☆亀型石造物
平成4年、明日香村では新・石造物の発見に沸いていました。酒船石のある丘のふもと、
位置的には酒船石の真北にあたる場所から亀型の石造物と、小判型の石造物が出土。
周囲から石垣や樋が出土したことで涌水施設であることがほぼわかったとされています。
丘の上の酒船石とあわせて酒船石遺跡と総称されていますが、酒船石との関連はまだ
解明されていません。樋から水を流すと、最初に小判型石造物に水が溜まり、あふれた
水が亀型石造物に流れ込むというもので、視覚的に水の流れを楽しむ施設であったのか
実用的なものであったのか、今後の研究の経過・結果が待たれる遺跡です。ふたつの
石造物の発見は、飛鳥にはまだ、埋蔵文化財があるのではという期待を膨らませます。

<亀型石造物と小判型の石造物>
★飛鳥資料館
飛鳥資料館は、飛鳥地方から出土した石造物や石造物のレプリカ、お寺の瓦、廃寺と
なってしまった古刹の展示エリアなど、貴重な史料を見ることができます。ここでは遠く
離れた場所にある『高取城の猿石』、高取町の光永寺の『人頭石』、京都の野村別邸で
重要文化財・碧雲荘に運ばれた『出水の石造物』のレプリカを見ることができます。
猿石の背面を見ることができるのはここだけ!『車石』という岡寺の付近で見つかった
線刻のある石は繋げれば石樋になります。特筆すべきは館内に展示されている二体の
石造物〜須弥山石と石人像は噴水施設で、その造形の美しさと史料としての貴重さで
重要文化財になっています。飛鳥資料館とはいうものの、所在地は桜井市なのです。

<左: 山田寺出土品コーナー / 右: 山田寺仏塔・・・現在、興福寺に収蔵>

<左: 重要文化財・石人像=噴水 / 右: 重要文化財・須弥山石=噴水>

<左: 高取城二ノ門跡の猿石のレプリカ / 右: 高取町光永寺の人頭石のレプリカ>

<左: 岡寺付近の民家から出た石樋=車石 / 右: 出水の酒船石のレプリカ>
★飛鳥坐神社
『おんだ祭』を翌日に控えた飛鳥坐神社を訪れました。本当に翌日、天下の奇祭が
行われるの?と疑問に思うほど、静かな境内を見学しました。陰陽石と呼称される
男性のシンボルの形をした自然石、女性のシンボルの形をした自然石が鎮座しており、
子孫繁栄の願いをこめて奉納されたのかなと、昔日に思いをはせながら歩きました。
境内には小さなお社がたくさんあります。中でも『飛鳥山口坐神社』は延喜式神名帳に
も掲載された由緒ある神社です。飛鳥坐神社の参道には、昔は道をまたいで大鳥居が
建っていたそうですが、いつしかその大鳥居も姿を消し、観光客の姿もまばらでした。
折口信夫ゆかりの神社です。社殿は丹生川上神社上社から移築されたものです。

<左: 飛鳥坐神社の入り口 / 右: 飛鳥坐神社の境内の陰陽石>

<左: この彫刻は何? / 右: 飛鳥山口坐神社>
★飛鳥寺跡
飛鳥寺は飛鳥大仏で有名な飛鳥地方の名刹のひとつです。本尊は釈迦如来像で、
飛鳥大仏と呼ばれているのはこのご本尊です。高さ275.2センチメートル、あちこちに
修復の痕跡がありますが、まぎれもなく日本で最古の部類に入る大仏です。現在は
飛鳥寺跡に建てられた安居院が寺領を守っています。飛鳥大仏以外のみどころとして
二弦の琴があります。かつて住職をつとめた山本雨宝師はこの二弦の琴の名手でした。
西の出口から寺を出て少し進むと、『入鹿の首塚』と呼ばれる五輪塔が建っています。
大化改新で抹殺された蘇我入鹿の首を埋めたという伝説が残っています。また、様々な
瓦が展示されています。ちなみに飛鳥寺は元興寺の元寺とされています。

<左: 飛鳥大仏 / 右: 飛鳥寺跡=安居院の境内>
★弥勒石
飛鳥寺跡(安居院)の西の出口を出て、入鹿の首塚の前を通り、飛鳥川のほとりに出て
左方向に進みます。やがて川のほとりに小さなお堂が見えてきます。小さな階段を降り、
お堂に詣でると・・・のっぺらぼうの仏像のような石造物が置かれているのがわかります。
石造物は『弥勒石』と呼ばれ、飛鳥川の中から引き上げられ、お堂に祀られたと言われて
います。一応、石仏らしき佇まいはありますが、目も鼻もなく、わずかに口のような線が
みられるだけです。猿石、亀石、二面石、酒船石、亀型石造物、マラ石などと比べると
少し地味な印象があります。実際は立石と同様、条里の境界線に建てられたものとか。
参拝すると足が丈夫になるという伝説があり、私は長女が生まれる前、お詣りしました。

<弥勒石>
★豊浦寺跡
日本書紀によれば欽明天皇13年に百済から仏像が献上された際、蘇我稲目が祀った
「向原のいゑ」が、現在の豊浦あたりにあったと言われています。その直後、疫病が
はやったため、仏教反対派の物部尾輿と中臣鎌子(中臣鎌子を名乗った中臣鎌足とは
別人)が仏像を難波の堀江に棄てたと言われています。後に推古天皇によって宮殿が
建てられ(豊浦宮)、また、日本最古の尼寺・豊浦寺が建立されたと言われています。
そのため、周囲には遺跡・史跡が多く、今後の調査・研究の経過・結果が待たれます。
豊浦寺跡には現在、向原寺があり、境内には発見された豊浦宮の遺構があり、庭には
飛鳥資料館に展示されている須弥山石の破片とおぼしき模様のある石があります。

<須弥山石の破片ではないかと言われる豊浦寺跡の文様石>
★甘樫坐神社
豊浦の集落の奧に、延喜式神名帳にも記載された甘樫坐神社があります。允恭天皇の
治世、ここで裁判が行われたとされています。それは原告と被告がそれぞれ煮えたぎる
熱湯の中に手を入れ、手が爛れたほうが敗訴という、恐ろしい裁判であったといいます。
盟神探湯(くがたち)と呼ばれる神明裁判で、その後、記録によると継体天皇の治世に
近江臣が、室町時代に籤引き将軍といわれた第六代・足利義教が行ったとされます。
いずれも暴君と言われた人物で、為政者の圧政を表す代名詞のようにとられています。
毎年4月には、境内の立石の前に釜を置き、湯を熱して笹の葉を入れる、盟神探湯の
神事が古式ゆかしく行われています。もちろん手を入れることはありませんよ!

<甘樫坐神社>
★立石
甘樫坐神社の境内には、社殿と並んでふしぎな巨石が建っています。甘樫坐神社の
立石です。飛鳥地方でよくみられる立石の一つと考えられ、条里の境界線に置かれた
境界石という説が有力となっています。現在、登山道が閉鎖されたために訪れることが
できなくなった岡寺の立石、石舞台の近くに位置する上居の集落への分岐に建つ上居の
立石、川原寺の東の飛鳥川畔に建てられていたという自然石の立石と同類と言われる
石造物です。毎年4月に行われる盟神探湯(くがたち)の神事は、この立石の前で釜に
火を入れお湯を煮えたぎらせ、古式ゆかしい衣装をつけた村人が、手にみたてた笹の
葉を熱湯に入れて盟神探湯を再現します。いずれ、ツアーを造成したいと思います!

<左: 甘樫坐神社の立石 / 右: 盟神探湯の説明版>
■大野丘北塔跡(和田廃寺跡)
今回のプランのお宿は、民宿・北村さん。民宿・北村さんにお客様をお送りし、自転車を
預かって頂き、徒歩で橿原神宮前駅に向かいました。私は今回は西宮の実家に宿泊。
翌朝8時半に民宿・北村さんにお客様をお出迎えし、おんだ祭の会場へ向かう予定です。
民宿・北村さんの周辺には推古天皇の小墾田宮跡ほか、いくつかの遺跡・史跡があり
ます。橿原神宮前への移動中、少し足を延ばして『大野丘北塔跡(和田廃寺跡)』に
行ってきました。民宿・北村さんを出るともう、そこは橿原市。目指す遺跡は橿原市の
田んぼの中にありました。草の生えた土壇のような遺跡で、1983年に初めて訪れてた
際に見た光景とまったく変わっていませんでした。明日は花園神社にも寄ってみよう。

<和田廃寺/大野丘北塔跡>
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
【添乗レポートE: 2019年明日香村おんだ祭 / 2019.02.23 更新】
<02日目>02月03日(日)
※西宮の実家を出発し、電車を乗り継いで8時前には橿原神宮前駅に到着しました。
明日香村の旅行プランの2日目の昼食は通常、柿の葉寿司です。
今回も、橿原神宮前駅周辺のお寿司屋さんで用意しようとしましたが、そこには・・・
ショーケースや販売ワゴンにずらりと並んでいたのは、『恵方巻』でした。
ようやく駅近で柿の葉寿司を入手し、豊浦の民宿・北村さんをめざして歩きだしました。
少し早めに出発できたので、橿原市石川に位置する花園神社に寄ってみました。
■花園神社
恐らく飛鳥(広義の飛鳥=桜井市、橿原市、高取町を含む)の神社仏閣名所旧跡の
中でも知名度の低さは十本の指に入るかと思われる小さな神社です。住宅街の中に
そこだけ時間が止まったかのような空間があります。土壇の上の小さなお社です。
ここの土壇は昔から神聖な場所と考えられており、牛を放牧しても、この土壇のある
一画には牛が侵入しないのは不思議だと言われていたといいます。一説には、初代
天皇・神武天皇の皇后の媛蹈鞴五十鈴媛命の御陵とか。実在するか、実在しないか、
は別にして建国神話の舞台である飛鳥に当然あって然るべき媛蹈鞴五十鈴媛命の
御陵がないというのはなんだか落ち着きませんよね。ここは神話のふるさとなのです。

<左: 花園神社の社殿(祠) / 右: 花園神社の土壇>
■孝元天皇剣池嶋上陵と剣池
花園神社を出て東に向かいます。右手(南側)に絵になる小山と池が見えてきます。
第八代孝元天皇陵と、お濠の役目を担う剣池です。孝元天皇は第七代・孝霊天皇の
皇子で、いわゆる欠史八代に属する天皇で、実在性の検証が行われている方ですが、
箸墓の被葬者と目される巫女・倭迹迹日百襲媛命、四道将軍の一人で桃太郎伝説の
人物・吉備津彦命とはきょうだいとされます。宮内庁が管理する陵墓は、円墳二基と
前方後円墳一基からなる古墳の集合体で、考古学的には『中山塚1−3号墳』という
名称で呼ばれています。お濠のように見える剣池は、万葉集に出てくる有名な池です。
かつて池のほとりにラブ・ストーンという喫茶店がありましたが、いまはありません。

<孝元天皇陵と剣池>
※民宿・北村さんに行き、お客様と合流しました。ミーティング場所は玄関脇の座敷。
お客様によると、鶏肉や野菜を牛乳と出汁で煮込む飛鳥地方の名物料理『飛鳥鍋』は
とても美味であったとか。北村さんの女将さんに再会を期して出発しました。
★小墾田宮推定地(古宮遺跡)
民宿・北村の裏の田んぼの中に、ヨノミの木が建つ土壇があります。そこが推古天皇の
小墾田宮跡と言われる遺跡です。この土壇のすぐ北に位置する古宮土壇と呼ばれる
遺構もあり、銀製の壺(現在は御物とされています)が出土しました。民宿・北村の女将
さんによると、ヨノミの木が建つ土壇はどの季節に訪れても絵になるそうです。雪景色、
春の陽光、夏の青草、秋の枯草、想像するとどの季節もそれぞれに風情がありそうです。
昨日訪れた和田廃寺のほか、馬立伊勢部田中神社、法満寺等の神社仏閣名所旧跡も
徒歩圏内です。飛鳥の有名な神社仏閣や古墳、石造物と比べると地味に見えるかも
しれませんが、古い時代から守られてきた祈りの場所や古宮跡がここにはありました。

<左&右: 小墾田宮跡>
★水落遺跡
飛鳥時代に漏刻の館があった場所は、『農産物直売所あすか夢の楽市』の隣です。
飛鳥川から引いた水をサイフォンの原理で木造の塔のてっぺんの水槽に溜めます。
いっぱいになると、階段式になった次の水槽に溜まり、そこもいっぱいになるとさらに
下の水槽に溜まり、やがて下段の大水槽に水が溜まってゆきます。下段の大水槽の
底から縁にかけて目盛があり、その目盛は24あり、1時間で一目盛水位が上がるという
システムです。24時間で下段の水槽が満たされ、放水されていたことが判っています。
飛鳥資料館では、漏刻のジオラマがあり、24時間でどのように変化するかを知ることが
できます。飛鳥時代にはかなり先進的なシステムが導入されていたのですね。

<左: 飛鳥水落遺跡 / 右: 飛鳥資料館にある漏刻(水時計)の模型>
※あすか夢の楽市にお手洗いと喫煙所があります。館内には明日香村内で収穫された
野菜や果物等の農作物が直売されています。明日香の畑で獲れた野菜や果物で作った
お菓子や、素朴なお弁当なども売られています。猪肉の販売もやっていました。
※毎年2月の第一日曜日に行われる飛鳥の奇祭が、飛鳥坐神社の『おんだ祭』です。
朝9時半に飛鳥坐神社に到着してみると、まだ、屋台の設営が始まったばかりでした。
時間つぶしも兼ねて、お客様を飛鳥坐神社の近辺のみどころにご案内しました。
★大伴夫人の墓
大伴夫人と言ってもピンとこないかもしれませんが、藤原(中臣)鎌足の母と言えば
ああ、なるほど・・・となるかもしれません。大化改新の中心的人物で、中大兄皇子
(天智天皇)に仕え、五摂家をはじめ多くの藤原一族の先祖となった人物の母の墓です。
飛鳥坐神社から東に位置する小原の集落の林の中の小さな円墳が大伴夫人墓です。
お墓は東西11mx南北12mという、微妙に楕円形をしています。大伴夫人の本名は
大伴智仙娘で、鎌足の父である中臣御食子の妻です。同じ小原の集落には藤原鎌足の
誕生地があります。平将門の乱を鎮めた藤原秀郷、瀬戸内で乱を起こした藤原純友、
井伊直虎/直政/直弼等も鎌足の子孫と言われ、つまり大伴夫人の子孫と言えます。

<大伴夫人(藤原鎌足の母)の墓>
★藤原鎌足誕生地/藤原鎌足産湯の井戸
大伴夫人のお墓のはす向かいに、藤原鎌足誕生地と藤原鎌足産湯井戸があります。
大原神社の入り口に『大職冠誕生舊跡』の碑が建っています。大職冠とは藤原鎌足の
ことです。藤原鎌足は生前には中臣鎌子そして後には中臣鎌足と名乗っており、臨終の
直前に藤原姓を賜りました。槻の木の下で行われた蹴鞠の会で、靴を飛ばしてしまった
中大兄皇子の靴を拾うことで出世の糸口を掴んだと言われています。渡来人の博士・
南渕請安のもとに通って学識を深め、やがて大化改新の中心人物となってゆきます。
神社の境内を抜け、背後の崖を降りると藤原鎌足の産湯井戸という遺構があります。
尚、藤原鎌足の墓所は、談山神社のある多武峰にあります。

<左: 藤原鎌足誕生地 / 右: 藤原鎌足の産湯の井戸>
★弘計(おけ)皇子(顕宗天皇)神社
世界最大の古墳の被葬者と目される第十六代・仁徳天皇には3人の皇子がいました。
第十七代・履中天皇、第十八代・反正天皇、第十九代・允恭天皇です。允恭天皇には
二人の皇子がおり、二十代・安康天皇と二十一代・雄略天皇です。安康天皇が殺され、
弟である後の雄略天皇は自分の系統以外の皇族を排除します。履中天皇の子であった
市辺押磐皇子も殺されますが、彼の二人の息子である億計王と弘計王は難をのがれて
播磨国に隠棲。雄略天皇の皇子であった第二十二代・清寧天皇の後継者がいなかった
ことから呼び戻されますが、兄弟で皇位を譲り合い、姉の飯豊青皇女が政務を行い、
先に弟の弘計皇子が二十三代・顕宗天皇として即位、八釣に宮殿を築いて政務を行い
ました。ちなみに兄の億計王は第二十四代・仁賢天皇となります。八釣には顕宗天皇を
祀る弘計皇子神社があります。顕宗天皇は苦労の多かった半生からか善政を布いたと
伝えられています。弘計皇子神社は近飛鳥八釣宮跡と伝えられています。

<左&右: 弘計皇子神社>
★飛鳥寺瓦窯跡
まだ時間があったので、飛鳥寺まで足を延ばしました。飛鳥大仏で知られる飛鳥寺跡=
安居院の目の前に、遺跡を示す説明版があります。飛鳥寺瓦窯跡です。飛鳥寺跡の
目の前には竹が生えているスロープがありますが、そこから飛鳥寺の瓦を焼いた窯が
発見されました。昭和58年に飛鳥を訪れた際に、瓦窯を探してこのスロープを歩き回り、
ついには見つけられなかったことを思い出しました。このスロープの勾配が、登り窯の
建設に適していたことがうかがえます。昭和28年に発見された際には、火を焚く部分が
見つかっただけでしたが、百済の瓦窯の形状にとてもよく似ていたそうです。飛鳥には
このように遺跡のあった場所を示す看板が増えてきています。

<飛鳥寺瓦窯跡>
★飛鳥東垣内遺跡
飛鳥坐神社の石段の右手に、小さな公園があります。飛鳥坐神社周辺でお手洗いがある
唯一の場所です。その公園の脇にちいさな説明版があり『飛鳥東垣内遺跡』とあります。
平成11年に発見されたこの遺跡は大きな溝跡で7世紀中葉の建設と考えられています。
幅約10m、深さ約1.3mの大溝は、運河の跡とみられ、全長1kmにも及び、飛鳥宮ノ下
遺跡や奥山久米寺の西方でも同じ様な遺構が見つかっています。日本書紀の斉明天皇
二年の条に「石上山の石を運ぶために渠(みぞ)を掘って舟で運び、宮の東の山に石垣を
造り、石山の山丘と呼ばれた(酒船石遺跡)」という記述があります。ここは暴君とされた
斉明天皇の失政のひとつ「狂心渠(たぶれごころのみぞ)」と目されています。

<飛鳥東垣内遺跡>
※飛鳥坐神社のおんだ祭ではお手洗いに困る・・・と以前、平原由美香が言っていました。
私も昭和58年、飛鳥寺にお手洗いを借りに行った覚えがあります。現在は東垣内遺跡の
公園にお手洗いがあるので、それほど困ることはありません(石段の上にはありません)

<左側がトイレ、右側が東屋>
【おんだ祭】
小原〜八釣を見て、再び飛鳥坐神社に戻りました。屋台の設営は終わり、火が入って
いました。参拝者や観光客の姿はまだなく、駐輪場に一台の自転車も停まっておらず、
私たちが一番乗りということになります。石段を登り、社殿の方に行くと、お札やお守りを
並べた神札授与所が開いていました(普段は石段下の社務所にて授与されます)。
10時半ごろ、太鼓の音が鳴り響き、いよいよ天下の奇祭『おんだ祭』が始まりました。
飛鳥坐神社の鎮座まします鳥形山の麓では、ちょんまげ姿の天狗と翁が出現し、手に
ささらを持って参拝者や観光客のお尻や太腿をを叩きまくります。相手が女性だろうが、
子供だろうが、高齢者だろうが、容赦しません。よく見ると、参拝者や若いご夫婦などは
進んで天狗や翁に叩かれています。叩かれることで福が来ると言われているのです。
お客様も、私も、天狗にも、翁にも一回ずつ、叩かれました。これで福は間違いなし!

<左: 天狗に叩かれる参拝者 / 右: 翁もササラを持って大暴れ>
ちょっとだけ屋台巡りをしてみました。関西名物のたこ焼をはじめ、大判焼、かすていら、
ふりふりポテト、チーズハットグ、大分からあげの六軒の屋台が並んでいました。私が
住んでいる江戸川区では、お祭の屋台は自治体が運営します。自分も地区委員会に
参加しているので、屋台の売り手を経験したことがあります。そういうことで屋台巡りは
今回楽しみにしていました。子供のころ、おこづかいを握りしめ、屋台であれこれ買った
ことを思い出しました。あ、食べていても、天狗や翁に見つかれば叩かれますよ!
屋台で買い食いをするのは一種の「厄落とし」とも考えられ、そして天狗や翁に叩かれ
「福を授けられる」ということで、一年間、何かよいことがあるのでは、と思えてきます。
よく見ると、天狗や翁の「中の人」は交替しているのが判りました。背の高さちがうし・・・

<左: ふりふりポテトの前で2ショット / 右: 大分からあげ&チーズハットグ>
※お昼すぎに天狗と翁が引き揚げてから、午後2時の神事開始まで時間があります。
さきほどの東垣内遺跡のある公園に行き、お弁当を広げます。当日は節分にあたり、
恵方巻ばかりが売られていましたが、なんとか見つけた奈良名物・柿の葉寿司を賞味。
午後一時から飛鳥坐神社に奉納される「居合道」「創作舞」が舞台で行われました。
居合道の模範演武では、さまざまなシチュエーションで敵を斃す技を見ました。
創作舞では俳優の相ヶ瀬龍史氏による素戔嗚尊伝説をモチーフにした舞をみました。

<左: 奈良県の名物・柿の葉寿司 / 右: 居合道の演武>
午後二時、一番太鼓が鳴り響き、いよいよ飛鳥坐神社の舞台で神事が始まりました。
先ほどまで神社の周辺で参拝者や観光客を叩きまわっていた天狗と翁が、農耕で
使役する牛を連れてやってきます。この四つ足で歩く牛もまた、村人が演じています。
二人と一頭は、舞台奥に置かれた腰掛に座ります。牛も人間と同じように腰掛けます。
宮司さんが祝詞をあげて、五穀豊穣と子孫繁栄を祈り、神饌がお供えされます。
その後、宮司さんや来賓によって、玉ぐしが奉納され、儀式の部分は終了となります。
神饌の儀式が終わり、神饌が舞台奥に移されると、いよいよ農耕神事が始まります。
まず、翁が鋤で田んぼを作ります。天狗は牛に犂(からすき=英語でプラウ)をつけて
田んぼを耕し始めます。但し、牛はなかなかいうことをききません。最初の一周の際は
客席に飛び込もうとし、天狗に宥められます。次に翁が鍬で田をならします。その後、
天狗と牛は、再び犂で田んぼを耕します。牛のやつ、今度は舞台に寝転んで、眠って
しまいます。ひじ枕をついて、気持ちよさそうに寝入り、観客はやんやの喝采を送ります。
ついに温厚な(温厚か?)天狗も堪忍袋の緒が切れて、牛を叱り、なんとかかんとか
田んぼを仕上げます。翁、天狗、そして牛は、一連の流れをユーモラスに演じるので、
客席は笑い声が絶えません。こうしたコントが江戸時代から続けられているのです!

<左: 天狗・牛・翁が仲良く座る / 右: 宮司さんの祝詞で儀式の幕開け>

<左: 神饌をお供えして礼拝 / 右: 翁が田おこしを開始>

<左: 牛を使って田を耕すが・・・牛が言うことをきかず・・・ / 右: 鍬で耕す>

<左: しばらく牛は黙々と働くが・・・ /右: やがて疲れてさぼりだす(笑)>
田んぼが出来上がると、宮司さんが種籾を撒き始めます。種籾を撒き終わると、次に
田植えとなります。宮司さんが早苗を植えだすと、翁や天狗、はては牛までもが並んで
田植えをします(笑)。田植えが終わると、今度は早苗を客席に向かって投げます。うまく
受け取れれば、今年一年の豊作が約束されると考えられています。大和盆地の殆どが
江戸時代には幕府直轄領でした、収穫高が安定しており、生活にも余裕があったため
このようなユーモラスな神事/おまつりが行われるようになったのかもしれませんね。
農耕神事が終わると、翁、天狗、牛はひとまず舞台から退き、社務所へと退場します。
その時もササラを手に、観客や参拝者を威嚇し、時には叩くので油断がなりません。
芝居でいう幕間には、巫女さんが舞台に上がり、優雅な巫女舞を披露してくれます。

<左: 宮司さんによる種籾撒き / 右: 宮司さんによる田植え>

<左: 天狗と牛も田植え(笑) / 右: 牛も早苗を撒くお手伝い(笑)>

<左: 天狗と牛がいったん、退場します。 / 右: 巫女舞の奉納>
やがて二番太鼓が鳴り、翁と花婿の天狗が、花嫁のおたくふを連れて戻ってきました。
まず翁が舞台に上がり、ササラで舞台を掃き清めます(なぜ・・・ササラ・・・(笑))。
天狗がおたふくを気遣いながら、二人寄り添って舞台に上がります。恥じらうおたふく、
優しくおたふくを先導する天狗・・・それにしてもおたふくのでかいこと、でかいこと!
ひととおり観客を笑わせると、舞台奥で婚礼の儀式。左から天狗・おたふく・翁の順に
並んで腰かけます。天狗の手には男性のシンボルを連想させる竹筒が握られています。

<左: 結婚式を控え、翁はお掃除? / 右: 天狗とおたふくがやってきた!>

<左: イチャイチャムードの天狗とおたふく / 右: 見世物やないで!と翁?>

<左: 恥じらうおたふくが、また、ユーモラス / 右: 花嫁のおおきいこと!>
天狗とおたふくは、結婚式を世話してくれた宮司さんに山盛りのごはんを振舞います。
宮司さんの前に山盛りご飯を置くと、天狗は、手にした男性のシンボルを連想させる
竹筒を股間に当てて、ぐるぐる振り回します。『男性』はうまく機能しないようで、天狗は
舞台の下にまで降りてきて気を練り、気を高め、竹筒と一体化し、山盛りご飯に自らの
子種を振りかけます。その所作があまりにもおおらかでユーモラスなので、観客たちは
やんやの喝采を送ります。この儀式は『はなつき飯』とも呼ばれているそうです。

<左: 宮司さんたちに振舞うはなつき飯 / 右: 宮司さんをもてなします>

<左: 天狗は子種を

<左: 天狗は男性を機能させ・・・ / 右: 奮励努力の後、子種を絞り出します(笑)>
はなつき飯の儀式が終わると、翁は舞台に茣蓙を布き、天狗とおたふくの初夜の舞台を
整えます。天狗が先に茣蓙に座り、おたふくを手招きしますが、おたふくは恥ずかしがり、
なかなか『床入り』しません。天狗に説き伏せられてやっと仰向けに寝ますが、顔を手で
覆って恥ずかしがっています。天狗はそんなウブなおたふくに乗っかり、子孫繁栄の
祈りをこめて、夫婦和合の所作をします。翁も天狗に加勢して、天狗がより奥に入れる
ように、夫婦和合の所作を文字通り後押し(笑)します。とてもユーモラスなシーンです。
「ことが終わる」と天狗はおたふくの股間を紙ぬぐってあげます。その子種のついた紙を
翁は客席に向けて投げます。先ほどの松の枝が五穀豊穣のお守りならば、この紙は
子孫繁栄のお守りです。うまくキャッチした人は、子宝に恵まれると言われています。

<左: いよいよ天狗とおたふくの床入り / 右: 待つ天狗と、恥じらうおたふく>

<左: やっとその気になったおたふく / 右: 祈願!子孫繁栄>

<左: ふくのかみでおたふくを拭います / 右: 翁がふくのかみを客席に撒きます>
次は二回戦!天狗はすでに「おとなの階段を登って」一回り以上成長したおたふくの
尻に敷かれ始めています。天狗は閨の主導権を握るべく、宮司さんから゛特注品”の
ササラを貰い、渾身の力でおたくふを。叩きます(笑)。たぶん、これは、かなり、痛い!
おたふくは報復の気持ちを込めてか、倍返しします。おたふくの図体が大きいのは、
このためだったかもしれません。結局、今度はおたふくにリードを奪われながら、二人は
子孫繁栄のための営みをします。さっきとは所作が違う!そして、またも股間を拭いた
紙が客席に投げ込まれます。先ほどの紙と、今度の紙、いずれも「ふくのかみ(拭く・の・
紙・・・という意味)」と呼ばれ、子宝祈願の人たちはなんとかして手に入れようと、手を
伸ばします。舞台と観客席が一体になる瞬間です。その後、宮司さんの挨拶があり、
最後に紅白のお餅が撒かれます。私は赤と白のお餅を手にすることができました。
これでおんだ祭は終了となり、観客はめいめい、家路につきます。このあとは無礼講で
天狗・おたふく・翁そして牛までもがササラを持って大暴れ。私も牛に叩かれました。

<左: 二回戦は子孫繁栄の願いを込めて、天狗が叩き / 右: おたふくが叩く!>

<左: 待つおたふく、呼吸を整える?天狗 / 右: これは大胆な・・・(笑)>

<左: ふくのかみを撒く直前のおたふく / 右: 祭のあと・・・も油断できません。>
祭の終わりとともに、雨がさーっと降ってきました。雨具を装着し、帰途につきます。
行き先は近鉄・飛鳥駅。さて、どの道を通ろうか・・・ 亀石〜鬼の俎・雪隠のルートは
最短だけれど一部悪路。定林寺〜天武持統天皇陵のルートは概ね道は良好ながら
アップダウンが多いということで迷いましたが、結局、後者の定林寺ルートをとることに。
定林寺にある姥石を見残していたので・・・ 定林寺もまた、飛鳥とは切っても切れない
聖徳太子ゆかりの寺だからです。雨も小降りになってきたので、寄ることにしました。
★定林寺
明日香村立部というと、古い大和棟や石垣の家が残る、古き良き飛鳥を連想させる、
癒される感じの集落です。その集落の春日神社の境内に、礎石が残されています。
春日神社の奥に、聖徳太子が建てた四十六ヶ寺のうち、特に重要とされる七ヶ寺の
ひとつと目される定林寺跡があります。この寺跡は、礎石と出土品以外にこの寺の
歴史を物語る史料がなく、全貌はわかっていません。謎めいた定林寺跡には、その
謎を更に深める謎の石造物があります。一見、頭部が欠損したお地蔵さんに見えます。
この石の存在を知ったのは昭和57年11月。万葉集について調べる目的で図書館で
借りた本にわずかに触れられていました。殆どの石造物について知り尽くしていたと
思っていた自分が知らない石造物があるということで、好奇心が疼き、その二か月後に
定林寺跡を目的に飛鳥を訪れたという、思い出の場所です。その本には、「乳母石」と
書かれていましたが、また別の資料では「聖徳太子の駒繋石」と書かれていました。
その旅の途中で購入した万葉集のふるさとを歩くための手引書の地図には「姥石」と
書かれていましたが、今も正式名は知りません。ここまで紹介したどの石よりも無名で、
それでいて聖徳太子にまつわる石だと思わせる名前を持ち、独特の存在感があります。
この姥石もまた、飛鳥地方にいくつもある条里の境界石の一つだと考えられています。
大々的に発掘を発表された亀型石造物や小判型石造物や苑池遺跡から出土した噴水
施設を除けば、最後に存在をしった石。それを最後に訪れたのも感慨深いものです。

<左: 正面から見た姥石=乳母石=聖徳太子の駒繋石 / 右: うしろ>
★天武天皇・持統天皇合葬陵
古代の天皇陵の中で、通称と被葬者が一致すると考えられている数少ない天皇陵が
天武天皇・持統天皇ご夫婦の合葬陵です。兄・天智天皇の死後、甥にあたる大友皇子
(弘文天皇)の近江朝と対立、出家して吉野に隠棲した大海人皇子は、隠棲先の吉野で
力をつけ、壬申の乱で近江朝を倒し、天武天皇として即位しました。そして、その皇后が
持統天皇です。橿原市を代表する「ゆるキャラ」のひとり、「さららちゃん」は持統天皇の
幼名「うののさらら」に由来します。天武天皇は土葬、持統天皇は火葬であったといい、
持統天皇のご遺骨は銀の骨壺におさめられていたとのことです。たいへん美しい陵で、
墳丘は八角墳だそうです。ここが最終スポット。雨もいつの間にか上がりました。

<左: 夫婦合葬の天武天皇・持統天皇陵 / 右: 王子駅前で天竺の料理を食す>
飛鳥駅で自転車(レンタサイクル)を返却し、橿原神宮前経由で大和八木へ。お客様を
お見送りし、近鉄を乗り継いで(田原本〜西田原本間は徒歩)、王子駅に戻ります。
私は王子に行きつけのお店があります。駅に直結するビルにあるインド料理のお店です。
飛鳥とヨーロッパとを結ぶシルクロードの途上には天竺(インド)があります。奈良時代、
大仏開眼の際、天竺から渡来した菩提僊那が導師を勤めました。そういった意味では
インド料理の食事は、この旅とは無縁ではないかもしれません。
−おわりー
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
====================================
============================================================================
※内容は予告なく変更になる場合もあります。
※この旅行は手配旅行となります。
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
============================================================================
|
|

2019年02月03日(日) ・・・ 終了しました。
|
●旅行代金には下記のものが含まれていました*
*JR+近畿日本鉄道: 発着地⇔京都⇔橿原神宮前 往復
*民宿1泊
*朝食1回/昼食2回/夕食1回
*ガイド/添乗員費用(東京からの往復切符、萩での前泊代・食費を含みます)
*入場・拝観料(橘寺)
●旅行代金に含まれないもの
・・明記されない食事
・・その他、個人的な支払い(電話、FAX、ネット通信費/明記されていないお食事/
お飲み物)とそれに関わる税金、サービス料

電話でのお問合せは ・・・ 080−5028−6007 まで
▲TOPへ
|
|
|
|
|
|
|
|