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出張レポート
日本の奇祭シリーズ
2019年02月11日(月)
奈良県・桜井市の奇祭『お綱祭り』と
熊野&十津川の旅 4日間

ここがポイント!

店長の歴史探訪のはじまりは・・・たぶん飛鳥が出発点

 出張レポート へ

 今回、視察したのは、毎年2月の11日に行われる『お綱祭り』です。
 神事は桜井市の素戔嗚神社とその周辺で行われました。
 

 
◆お綱祭り◆

 〜 
市杵島神社 〜
 昔、洪水で男女の神様が流されてしまいました。男神は素戔嗚尊、女神は稲田姫です。 
 上流から流れてきたお二人を助けたのが江包の村人たちと大西の村人たちでした。
 江包の集落の村人がお助けしたのが素戔嗚尊、大西の集落の村人がお助けしたのが
 稲田姫で、その次のお正月にお二人は無事に結婚式を挙げられたという話です。
 お綱祭りは、この伝説を再現するもので、古くは旧暦の一月十日に行われていました。
 近年、毎年二月十一日に固定されましたが、お祭りは古式ゆかしく行われています。

 〜 春日神社 〜
 大西(おおにし)と江包(えっつみ)はお綱祭りで一つになる姉妹集落。江包の集落の
 春日神社では、毎年2月9日に、男綱(男神のお綱さん)づくりが行われます。男綱は、
 男性のシンボルをデフォルメした形状をしています。あからさまな形でないことで、
 ほっとしたりします。ちなみにお祭の日はここの集会場にあるひとつだけのトイレが
 唯一のトイレとなります。集会場はお祭の世話役や自治体の食事の場所にもなります。
 お綱はんの結婚式(入舟)が行われる素戔嗚神社も、同じ江包の集落に鎮座しています。

 〜 市杵島神社 〜
 大西と江包はお綱祭りでひとつになる姉妹集落。大西の市来島神社では毎年2月10日、
 女綱(女神のお綱さん)づくりが行われます。女綱は長い俵のような形状をいており、
 一見、こちらが男綱ではないか、と思ってしまいます。長い俵の形状ですが、結婚式が
 行われると、ちゃんと女性のシンボルを思わせる形になりますので、おたのしみに?
 結婚式を執り行う宮司さんは、大西の市杵島神社から花嫁である女綱に付き添って、
 江包の素戔嗚神社に向かいます。大西には大和棟の民家が並び、いい雰囲気です。

 〜 
泥相撲 〜
 2月11日の午前10時ごろ、江包の春日神社から男綱が、大西の市杵島神社から女綱が
 お祭りの参加者(全員男性)によって、まるでおみこしのように担がれて出発します。
 市杵島神社から出発する女綱には、お祭りを執り行う宮司さんが、付き添います。
 嫁入りの介添えのようです。途中、赤ちゃんが生まれたお家に寄って、お祓いをし、
 担ぎ手は、ほうぼうで振る舞い酒をごちそうになります。その後、田んぼに到着すると
 担ぎ手の先達の指示で、土俵がしつらえられ、土俵内に水が撒かれ、泥沼ができます。
 担ぎ手の先達は、両手で泥を掴むと、集落のえらいさんであろうと容赦なく、顔や頭に
 その泥を塗りたくります。スーツ姿の自治会の役員が泥だらけになるのも珍しくなく、
 一方、塗りたくられた方も、おおらかに笑っています。これが泥相撲のプロローグです。
 行司によって呼び出された担ぎ手たちが、つぎつぎと泥沼と化した田んぼで相撲を
 とります。当然、倒れたり、倒したりすると双方泥だらけになりますが、派手に暴れるほど
 田んぼが鍛えられ、その年は豊作になると言われているので皆、真剣だったりします。
 
 江包の春日神社の近くにも土俵がしつらえられ、泥相撲が行われています。江包には
 トイレのほか、模擬店が出ます。地元の女性たちが作ったハンドメイドの小物や飲み物、
 フランクフルト、おにぎり、豚汁、肉まんなどが売られています。買いたいと思ったら、
 躊躇せずに買い置くべし!あとで買おうとすると、観光客の団体がやってきて・・・
 とくに食べ物、飲物はあっという間に売り切れます。おにぎり片手に泥相撲見物も、
 なかなかおつなものです。お昼頃、それぞれの綱が再び素戔嗚神社を目指します。

 〜 
素戔嗚神社 〜
 大西と江包の間には大和川が流れています。大西から江包に行くには橋を渡ります。
 女綱は宮司さんや先達によって、大和川にかかる橋を渡って江包にやってきます。
 素戔嗚神社に到着すると、担ぎ手とは別の祭の参加者がまず、女綱のしっぽ?を木に
 巻きつけて固定し、閉じていた女綱を開く作業をします。その間、男綱はのんびりと、
 素戔嗚神社に近づいてきます。やがて女綱はそれらしい形となり、男綱を迎えます。
 村人の掛け声の中、男綱は女綱に挿入され(入舟)、一体化します。これぞ結婚式です。

 男綱・女綱の結合はとにかく、おおらかすぎて、卑猥な感じがしないのがいいですね。
 男綱、女綱は結合したまま、素戔嗚神社境内に吊られ、お綱祭りは終わりとなります。
 このお祭りも五穀豊穣と子孫繁栄をセットで願い、祈る、まじめな神事だったのです。
 田を耕し、豊作を祈って稲を育て、それを子孫が守ってゆく、願いが込められている、
 そんな風に感じます。来年もでけるとええなぁ、という声が聞こえてきましたが、私も
 また、このお祭りが来年もつつがなく、執り行われるように祈念してやみません。



■熊野から十津川を経由して飛鳥地方へ。



<テーマ1: 熊野〜新宮〜十津川〜飛鳥>
<テーマ2: お綱祭りに参加して・・・>



出張レポート

桜井市の奇祭『お綱祭り』と
 熊野・十津川縦走の旅 4日間

 
日程

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<00日目>02月08日(金)

■行程: 丸の内・鍛冶橋駐車場バスターミナル→(車内泊)
 名古屋行き夜行バスで、鍛冶橋駐車場バスターミナルを出発。

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<01日目>02月09日(土)
■行程: →笹島ライブ・・・名古屋→多気(乗り換え)→熊野市

【出張レポート@: 2019年桜井市お綱祭り / 2019.03.22更新】

 早朝、名古屋駅に近いささじま(笹島)ライブ・バスストップに到着、下車。ここから
 名古屋駅までは徒歩で移動します。
 午前07:43発のJR急行みえ51号で、名古屋駅を出発しました。
 09:08に三重県の多気駅に到着。ここでJR紀勢本線の各駅停車に乗り換えます。
 09:43発のJR紀勢本線の各駅停車で、多気駅を出発しました。
 12:43に三重県の熊野市駅に到着。尾鷲あたりで降り始めた雨が本降りになりました。
 駅前の食堂に入り、熊野地方の名物である『さんまずし』『めはりずし』を注文しました。
 『さんまずし』は、熊野市の産田神社に供される神饌のひとつが原型と言われています。
 軽く塩漬けにした秋刀魚を押し寿司にしたもので、熊野地方で広く親しまれています。
 『めはりずし』は酢飯ではなく、ふつうのおむすびを高菜の漬物でくるんだもので、熊野
 地方では、農作業の際の手弁当が原型と言われています。昔は非常に大きく作られ、
 目を見張って食べたからとも、目を見張るくらいおいしかったからという諸説があります。
 
 
★産田神社
 駅前で観光タクシーに乗り、名所巡りに出かけました。最初に訪れたのは熊野市有馬の
 集落にある産田神社です。日本書紀によると、伊弉冉尊(いざなみのみこと)が火の神の
 軻遇突智(かぐつち)を出産した際にやけどをして亡くなって、紀伊國の熊野の有馬村に
 埋葬されたと記されています。伊弉冉尊のお墓は後述の花窟神社と言われていますが、
 軻遇突智を産んだ場所が産田神社と言われています。神社の創建はいつだったのか、
 現在では不明ですが、伝説では第十代・崇神天皇の時代とのことです。戦国時代〜安土
 桃山時代の天正年間に、近所の安楽寺が兵火で焼失した際に、延焼によって全焼し、
 そのため、貴重な記録は消失してしまいました。熊野年代記によると、平安時代後期に
 崇徳天皇が産田神社に行幸されたとあります。現存する最も古いものは永正18年の
 棟札だそうです。また、1600年には豊臣秀頼が二王門を寄進、1732年には紀州藩より
 灯篭が寄付され、社殿の修復が行われました。こうした歴史を見ると、由緒ある神社だと
 いうことが判ります。また、この神社の本殿の両側に、古代の祭祀の場『神籬』があり、
 『産田神社祭祀遺跡』として熊野市指定文化財の史跡に指定されています。また、神社の
 社叢も『産田神社社叢』として熊野市指定文化財との天然記念物に指定されています。
 参拝の作法が変わっていて、白石が敷き詰められた神域には備付の草履/スリッパに
 履き替えてから入ります。毎年1月10日には大祭/弓引き神事、2月10日には春祭、
 11月23日には秋祭が行われます。とくに1月10日の大祭には、『奉飯の儀』が行われ
 ます。そもそも産田神社は安産祈願の神社ですが、産まれた子供が丈夫に育つように
 願掛けが行われます。その名残が『奉飯の儀』で、汁かけ飯、骨付きさんま寿司、赤和え
 (アカイとも呼ばれ、生魚の切り身を唐辛子で和えたもの)、御酒がふるまわれます。その
 起源は神話の時代に遡るとされ、伊弉冉尊が神子たちが丈夫に育つよう、さんま寿司を
 食べさせたという伝説にたどり着きます。故に産田神社はさんま寿司発祥地とされます。
 それを考えると、さんま寿司という郷土料理は奥が深いな〜と思うわけです。
 

★花窟神社
 伊弉諾尊と伊弉冉尊は兄妹神であり、また夫婦神で、国生みの神話で大活躍をします。
 伊弉冉尊は多くの神を産みました。最後に火の神の軻遇突智を産んだ際にやけどをし、
 亡くなってしまいます。夫の伊弉諾尊(いざなぎのみこと)は深く悲しみ、有馬村に妻の
 伊弉冉尊を葬ったとされます。その場所が現在の花窟神社であると言われています。
 日本最古の神社のひとつとも言われる花窟神社には社殿がなく、巨大な自然岩に空いた
 窟の部分が伊弉冉尊の御陵といわれ、花窟神社のご神体となっています。伊弉冉尊の
 死後、近隣住民が季節のお花を窟にお供えしたといい、それが『花窟(はなのいわや』の
 名前の由来となっています。窟は高さ6m、幅2.5m、奥行き0.5mで、窟の前は白石を
 敷き詰めた玉垣が作られ、そこが拝所になっています。窟のある自然岩は高さが45mも
 あります。毎年2月2日、10月2日に例大祭である『御縄掛け神事』が行われ、こちらの
 自然岩の頂上から七里御浜に引き出し、花窟神社の境内に渡す儀式が行われます。
 今年も2月2日に『御縄掛け神事』が行われたばかりなので、まだ新しい大繩が、巌の
 頂上から続く中空に風にたなびいていました。平原由美香が2月2日にここで神事を
 見ていたんだなぁ・・・ そんなことを考えながら花窟の向かい側にある巌へ。この巌は
 軻遇突智の御陵と言われています。愛する妻・伊弉冉尊を産まれるときに焼き殺した
 火の神。伊弉諾尊は怒りにまかせ、軻遇突智を剣で斬り殺したと言われています。
 かなり以前、この軻遇突智の巌が『王子の窟』と呼ばれていると何かの本で読みました。
 かつては駐車場もなく、観光バスでは車窓からでしか見ることができなかった花窟神社。
 現在では、世界遺産に登録され、駐車場ができ、お土産屋さん、お休みどころもあり、
 一大観光地となっています。お土産屋さんでは、土地の名産品や熊野の木の細工物、
 さんま寿司なども売られていました。社務所では花窟神社と、産田神社の御朱印を
 頂けます。周囲にはファストフード店や、チェーン店展開する軽食のお店もできました。
 世界遺産に登録されたことで花窟神社とその周辺地域は劇的な変化を遂げました。
 
 伊弉冉尊の御陵とされる窟         軻遇突智の御陵とされる巌

★獅子岩
 日本のスフィンクスと呼ばれていた奇岩怪石が獅子岩です。熊野灘に向かって咆哮する
 獅子のような姿が人気ですが、近くの鬼ヶ城や、花窟神社と同じく、海食によってできた
 天然のモニュメントです。獅子岩の立つビーチは、七里御浜で、花窟神社の例大祭では
 子供たちの舞が奉納されたり、夏場は行楽地として利用されたり、観光客に人気のある
 スポットです。今回は時間があったので様々な角度から獅子岩を見ることができました。
 
 左: 獅子岩 / 右: 七里御浜

※この日は、熊野市駅にほど近いビジネスホテル河上に泊まりました。定宿にしている
 ホテルなみが満室だったこともあり、姉妹ホテルのホテル河上に泊ったわけですが、
 周囲にはノスタルジックな印象の食堂がいくつもあって、なかなかよい環境でした。
 この日は同行した娘のたっての希望で、焼肉屋さんへ。韓国は釜山のチャガルチ市場で
 食べたことのある『メウンタン』という辛いスープがメニューにあったので、注文しました。
 そういえば、日本でメウンタンをメニューに出している場所はここ以外には知りません。
 
 左: 娘は早速、焼肉奉行に / 右: メウンタンは熱々のごはんによく合います。

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<02日目>02月10日(日)
■行程: 熊野市⇒新宮→(十津川)→大和八木→西宮

※ビジネスホテル河上の豪かな朝食を頂き、荷物をまとめてチェックアウト、徒歩で駅へ。
 JR紀勢本線に乗って08:23に熊野市駅を出発。08:54に和歌山県新宮市に到着。
 熊野市と新宮市は紀州徳川家の領地でしたが、熊野市は明治以降、三重県に帰属。
 但し、江戸時代に於いては現在の熊野市の一帯は紀州徳川家の直轄地であり、一方の
 新宮は紀州和歌山藩の家老・水野家の領地であり、独立した藩ではありませんでした。
 熊野市、新宮市ともに熊野信仰における海と陸の基点として栄えた、似たような歴史が
 あります。そのため、三重県に帰属した現・熊野市が、1954年に熊野市を名乗るように
 なると、新宮市から反発があったと言われています。ちなみに熊野市と新宮市との間に
 御浜町と紀宝町があり、紀宝町は熊野市とともに新宮市と隣接しています。新宮市から
 熊野本宮大社や奈良県十津川を通って大和八木まで行く長距離路線バスに乗ります。
 観光シーズンではないため、乗車待ちの人はひとりもいませんでしたので、思い切って
 熊野地方を代表する神社のひとつである熊野速玉大社にお詣りに行くことにしました。

※熊野市には天然の奇岩の巌をもってご神体となす花窟神社がありますが、新宮にも
 神倉神社があります。神武東征の神話に出てくる高倉下(たかくらじ)ゆかりの天巌楯
 (あめのいわたて)と目される神倉山の山頂のゴトビキ岩をご神体としています。ここでは
 毎年2月6日には御燈祭が行われることで知られています。神倉山の山頂の神倉神社
 境内から、松明を手に、男性が麓まで駆け降りるという勇壮な火祭りで、参道全体が、
 光の川のように見えます。四日前には平原由美香がその祭を麓で見学していました。
 
 <神倉神社(2015年11月)>
(新宮駅前から日本一長い路線バスとして知られる奈良交通の八木新宮線に乗ります。)

★熊野速玉大社
 熊野本宮大社、熊野那智大社と並ぶ熊野三山の一つで、ユネスコの世界遺産『紀伊
 山地の霊場と参詣道』を構成する大峯奧駆道に含まれます。非常に古い神社ですが、
 創建年代は不明です。熊野速玉大神を祭神としますが、当社では伊邪那岐(伊弉諾)
 神とされています。しかし、熊野本宮大社では熊野速玉大神は速玉之男であるとされ、
 創建年代が不明であることと合わせ、謎の多い神社です。もう一柱、祭神がおられます。
 熊野夫須美大神です。この神様は伊邪那美(伊弉冉)神とされ、もともとは神倉神社の
 磐座(いわくら)に祀られていたそうです。神倉山の磐座を元宮と呼び、勧請された麓の
 速玉大社のことを新宮と呼ぶことが定着、新宮という地名になったとも言われています。
 平安時代から朝廷から庶民まで、幅広い信仰を集めたこの神社ですが、幾度か火災に
 見舞われるという不幸を体験しています。とくに明治16年の花火による失火では社宝の
 一部も焼失しました。現社殿は昭和42年に再建されたもので、朱の美しい神殿です。
 
 <左: 熊野速玉大社(新宮) /右: 神倉神社と磐座のゴトビキ岩(元宮)
 タクシーで新宮駅に戻るときに、車窓から神倉神社と磐座のゴトビキ岩を撮影しました。
 写真や映像を見て「ここに行きたい!」と強く思ったことは多々ありますが、花窟神社と
 神倉神社、そして那智滝は私にとってそういった思い入れの深い場所の一つ一つです。
 
◎奈良交通の八木新宮線は新宮駅の5番のバス停から出発します。バスが入線してきた
 のは09:54。すぐに後部ドアが開いて、乗り込みます。右と左、どちらに座ったら景色が
 よいのだろうか?などと考えながら、前の席に座りました。定刻09:59、新宮駅を出発。
 日本一長い距離を走る路線バスの旅が始まりました。しばらくは新宮の市街地を走り、
 やがて熊野川に沿って上流方面へと進んでゆきます。新宮と本宮の間には、平清盛の
 弟で薩摩守の官名で知られる平忠度の生誕地があります。また、奇観で名高い瀞峡を
 舟で探勝する観光拠点もあります。そこからしばらく行くと、周辺や遠隔地の町村を併合し
 巨大化した田辺市の市域に入ります。十津川第二発電所を対岸に見てさらに進むと・・・
 川湯温泉、湯の峰温泉などの温泉地に入ります。歌舞伎やスーパー歌舞伎のヒーロー
 小栗判官と照手姫の伝説が今も語られています。小栗判官は妻の照手姫の一族に殺され
 ますが、閻魔大王のはからいで蘇生し、艱難辛苦の末、一族に復讐を果たすという伝説が。
 細いつづら折りの山道を進むと開けた場所に出ます。中州の鳥居は大斎原の鳥居です。
 
 
 左: 奈良交通の八木新宮線に乗車 / 右: 熊野川に沿って走ります。
 
 左: 熊野川沿いの風景 / 右: 瀞峡めぐりの観光基地
 
 左: 湯の峰温泉のつぼ湯が一瞬見えた! / 右: 日本一の高さの大鳥居と大斎原

★熊野本宮大社
 熊野那智大社、熊野速玉大社と並ぶ熊野三山の一つで、熊野信仰の中心地の役割を
 果たしてきました。祭神は家都美御子大神、熊野坐大神、熊野加武呂乃命の三柱です。
 家都美御子大神は伊邪那美(伊弉冉)神、熊野坐大神は須佐之男(素戔嗚)尊であると
 言われていますが、その素性は謎のまま、また創建年代も不明です。太陽神の神使い
 八咫烏も祀ることから、太陽神を祀ったのが起源とも、川の中州にあったことから水神が
 起源とも言われています。かつては熊野川の中州にありましたが、明治22年8月の、
 いわゆる十津川大水害の際に、社殿が流されてしまいました。その後、川の中州には
 再建されず、現在の場所に再建されました。川の中州には元社地『大斎原』が残ります。
 古くは平安時代の花山天皇をはじめ、朝廷とも繋がりが深く、熊野信仰の中枢として栄え
 ました。サッカー日本代表のシンボルである八咫烏もまた、熊野信仰により広まりました。
 熊野信仰は神道・仏教/密教・修験道などが混交する信仰で、日本独自の宗教観です。
 

 今回、八木新宮線は一部、災害による道路封鎖により停留場をスキップしていました。
 温泉街なども、迂回路を通ってアクセスしていました。十津川大水害を教訓に、西熊野
 街道は道路整備が慎重に行われています。かなりスリルを感じる行程を楽しめます。
 七色という集落から奈良県に入ります。奈良県吉野郡十津川村の最南端が七色です。
 平安時代から幕末まで、十津川郷士と自称する集団が自治を行い、いうなれば日本に
 あってどこの、誰の領地にもなったことのない、共和国のような社会が存在していました。
 
 12:05に十津川温泉のバス停に到着し、10分間の休憩が運転手さんより告げられます。
 十津川温泉には奈良交通のオフィスがあります。待合室、トイレや足湯まであります。
 ただ、10分の休憩なので、トイレと撮影タイムだけとなります。熊野川から奈良県に入り
 十津川と名を変えた川の風景を楽しみます。十津川温泉には旅館や民宿がありますが、
 古くからあったわけではなく、近代に入ってから整備されたとのことです。夏場に来れば、
 十津川で川遊びができるようです。あっという間に10分が経過し、十津川温泉を出発です。

 十津川温泉を出発してからも、十津川に沿ってバスは進みます。ややあって、右下方向に
 学校が見えてきます。司馬遼太郎さんの『街道をゆく〜十津川街道』にも書かれている、
 奈良県立十津川高等学校です。この学校の歴史は江戸時代末期(幕末)まで遡ります。
 幕末の風雲の時代、京都の御所の御門を守っていたのは、長州藩、薩摩藩、会津藩という
 大藩がほとんどでした。そこに、小さな勢力ではありましたが、十津川郷士と呼ばれる集団が
 ありました。建前では徳川幕府直轄領であった十津川は、五条代官所が行政を管轄しており、
 十津川の人々は「京都に赴いて御所の御門を守りたい」と代官に告げたところ、時節がらか
 代官もそれを許し、十津川郷士たちは京都の街中に屋敷を借りて合宿し、御門を守りました。
 朝廷の御門を守る以上、教養が必要と考えた十津川郷士の代表は、各藩や公家に働きかけ、
 学校を建ててもらえることになりました。文久年間に建てられたその学校は『文武館』という
 名前を与えられ、多くの十津川郷士たちに文武を教えることになりました。その文武館が、
 紆余曲折の末、現在の県立十津川高等学校になります。ここもまた、維新史跡の一つです。
 

 十津川の山民は古くから天下分け目の戦いが起こると、大山塊から降りてきて参戦しました。
 伝説では壬申の乱に出兵、記録に残る史実をみても保元の乱、南北朝の戦い、大坂の陣と
 枚挙にいとまがありません。また、戦いに敗れた人々が身を隠す場所としても歴史に名を残し
 ています。源義経も、大塔宮護良親王も、そして幕末の志士たちも、この山深い十津川に身を
 隠し、捲土重来を期したのではないでしょうか。大阪府枚方市と和歌山県新宮市とを結ぶ国道
 168号線=西熊野街道は、もちろん、全線、舗装されています。しかし昭和34年8月までは、
 自動車の通行を許さない旧街道さながらの道であったことで知られています。西熊野街道から
 十津川の山塊の峡に小径が枝のように延び、山奥の小さな集落へと続いています。身を隠す
 にはこれほど格好な場所はなかったことでしょう。源義経については伝説の域をでないものの、
 大塔宮護良親王に関しては郷士・竹原八郎や、その甥の戸野兵衛が彼を庇護したということが
 村史に刻まれています。幕末に新撰組に狙われていた土佐郷士の田中光顕や那須盛馬は、
 十津川の大山塊に隠遁して追捕をかわし、遂に明治を迎えることができたと言われています。

 やがて十津川の幅がやや広くなる場所に湯泉地温泉があります。ここには十津川村役場が
 あり、村立十津川中学校や、小学校、五条警察署・十津川警察庁舎、歴史民俗資料館等が
 並んでおり、日本一面積が広い村である奈良県吉野郡十津川村の行政の中心となっています。
 風屋の集落には、1956年着工〜1960年竣工の重力式コンクリート・ダムである風屋ダムが
 あります。発電のためのダムで有効貯水容量は89,000,000立方メートル、発電は十津川
 第一発電所(75,000kw)にて行われています。湛水面積が446ヘクタールのダムです。
 
 左: 国道から峡を回る十津川村営バス / 右: 滝の集落の木の停留所
 
 左: 小原の集落で見た道標と擁壁 / 右: 国道沿いの民宿案内
 
 左: 十津川流域は急峻な山が多い / 右: 青い水をたたえた十津川

 野尻という集落を通過しました。この野尻は、幕末の十津川郷士・中井庄五郎の生誕地です。
 中井庄五郎は、十津川郷士たちが御所の御門を守ることになった際、同志たちと京都に上り、
 志士活動を開始したと考えられています。純朴な十津川郷士の中でも、中井庄五郎はとくに
 倒幕活動をしていた諸国の志士から、かわいがられたようです。とくに、坂本龍馬は庄五郎に
 銘刀を贈っています。また、同じ土佐藩の那須盛馬(片岡利和)が新撰組と喧嘩になった際、
 助太刀をしたという逸話もあります。そんな庄五郎の運命が変わったのは慶応三年の冬でした。
 京都河原町の近江屋において、坂本龍馬と中岡慎太郎が殺害された後、坂本龍馬が主宰した
 海援隊の隊士と、中岡慎太郎が主宰した陸援隊の隊士は、復讐を誓いあいました。海援隊が
 伊予大洲藩からリースして運行していた「いろは丸」が、紀州藩の「明光丸」との衝突で沈められ、
 坂本龍馬は海難審判をおこして紀州藩に最終的に七万両の賠償金を払わせるという事件があり、
 当時紀州藩の公用人であった三浦安太郎がその報復で坂本を襲撃させたという噂がありました。
 海援隊の指揮官・陸奥宗光は、三浦を黒幕と断定し、京都・天満屋に三浦を襲撃しました。その際、
 刺客の一人に、中井庄五郎がいました。庄五郎は抜き打ちで三浦の顔に軽傷を負わせますが、
 三浦の護衛をしていた新撰組隊士に斬られ、落命しました。慶応三年十二月七日のことでした。
 庄五郎は享年20歳、維新後に正五位を贈られました。野尻には彼の碑が建てられています。
 
 左: 八木新宮線の南行きと出会う / 右: 中井庄五郎誕生地(野尻)

 やがてバスは、上野地という集落に到着しました。この上野地にて、二回目の休憩を取ります。
 上野地の小さなバスターミナルに到着したのは13:23。出発は13:44と告げられました。
 ここでは殆ど全ての乗客が、ある場所を訪れます。その場所を知らない人も、人の流れに
 つられてやってきます。それは十津川にかかる大きな吊橋です。『谷瀬の吊り橋』と呼ばれる
 この大吊橋は、西熊野街道上の上野地とと、十津川を挟んで対岸に位置する、谷瀬という
 集落とを結んでいます。吊橋と言っても簡素なもので、人や自転車、せいぜいバイクぐらい
 しか通すことのできない代物です。長さは297m、高さ54m。ワイヤーがむき出しのスリル
 満点の吊り橋は、昭和29年(1954)年に竣工しました。おそらく、十津川の峡に位置する
 谷瀬の人々は、西熊野街道が国道168号線として舗装が進む中、取り残されてしまうことを
 おそれたのでしょう。教員の初任給が7800円だった時代に、一戸あたり20万円〜30万円を
 出し合ってこの吊り橋を掛けました。十津川の近代化は戦後だと言われていますが、どんどん
 進む道路工事を間近に見て、時代からも、流通ルートからも取り残される恐怖があったのかも
 しれません。十津川郷は古来、米が獲れなかったため、平安時代から明治初年まで免租地で
 あったことは知られています。免租のため、中央から取り残されることを厭ったのか、中央で何か
 あると大山塊を降りてその存在を示してきました。租税が獲れないことで、中央政権は十津川の
 行政を十津川郷民たちによる自治に委ねてきました。自分たちの生活環境は自ら整えなければ
 という意識が古い時代からあったと思われます。保元の乱でも、南北朝動乱でも、大坂の陣でも、
 そして幕末の天誅組の変でも、彼らは自分たちの立場を守るため、よく働いたと言われています。
 十津川郷士という呼称がいつからあったのかは不明ですが、十津川の人々の生活は林業であり、
 狩猟であり、いうなれば庶民でした。しかしながら彼等は時代の節目に将兵として戦いに赴いた
 歴史を誇りに思っており、一郷すべてが武士であるという意識を持っていたのは事実のようです。
 十津川郷には御由緒というものがあり、壬申の乱で天武天皇に従って近江朝打倒に貢献したため
 褒美として租税免除になったというのが彼らの免租の伝説の始まりで、それ以降、租税免除という
 特権を守るために努力を払ってきたとも考えられています。しかしながら明治12年を境に、こういう
 特権は奪われ、『独立国』としての十津川郷の歴史は幕を閉じるのです。しかし、自分たちの生活の
 便宜は自分たちで計るという意識はそのまま残り、谷瀬の吊橋を生み出したと考えることもできます。
 私と娘も、このスリル満点の吊橋を渡り、対岸まで行ってきましたよ!これはただ単に都鄙を結ぶ
 お飾りの橋ではなく、実用性よりも近代化の流れ(国道168号線)と繋がっていたいという切望の
 橋なのだと思いながら歩くほうが、より、印象が深くなります・・・とはいえ、風で揺れるとコワイコワイ。
 十津川の支流の小集落には、ワイヤーに籠をくくりつけた『野猿(やえん)』という乗り物もあります。
 
 左: 谷瀬の吊り橋を渡って谷瀬へ / 右: 吊り橋から見た十津川
 
 左: 橋番の詰所 / 右: 谷瀬側から十津川を挟んで上野地方面を望む
 
 左: 再び橋を渡って上野地へ / 右: 谷瀬の吊り橋の大看板
 
 谷瀬の集落には、黒木御所跡という史跡があります。八木新宮線の短い休憩時間の中では、吊り橋を
 渡って戻ってくるのが精いっぱいで、黒木御所跡まで行くことはちょっと難しいかと思います。黒木御所は
 後醍醐天皇の第三皇子である大塔宮護良親王が鎌倉幕府に追われて十津川に潜伏した際の仮御所で、
 土地の豪族・竹原八郎や、甥の戸野兵衛が護良親王のお世話をした場所と言われています。伝説では
 護良親王は竹原八郎の娘を側室とし、暫く十津川で暮らしたとされています。元弘の乱は、北条一族に
 よる鎌倉幕府の専横政治に反発した朝廷、地侍(悪党とよばれ、鎌倉の御家人になれなかった土豪)等が
 倒幕のために起こした反乱で、最初、反乱軍は幕府軍に抑えられ、首謀者の後醍醐天皇は配流されます。
 しかし巻き返しを図った後醍醐天皇は公家や地侍を従えて配流先から脱出、再び反乱を起こします。
 源氏の嫡流であった足利尊氏は当初、幕府軍として鎮圧に乗り出していたものの、突如、反乱軍に投じて
 六波羅探題を滅亡させ、また足利氏と同族の新田氏が鎌倉を襲撃し、幕府を滅亡させます。護良親王は
 元弘の乱が起こった当初、天台座主でしたが還俗して反乱軍の一翼を組織していたため、幕府に危険視
 され、追われて十津川に逃げ込み、捲土重来を期しました。竹原八郎等が用意した御所はあくまでも仮の
 御座所であり、正統な御殿(白木御所)ではない、粗末な仮御所という意味を持つ黒木御所と呼ばれました。
 足利尊氏は武家の棟梁として鎌倉幕府の討幕に尽くし、後醍醐天皇に拝謁しますが、後醍醐天皇の最終
 目的は、武家から政権を奪取することにあり、勝利の恩賞は武家に薄く、公家に厚いという不公平なもの
 でした。全国の『御家人』から源氏/武家の棟梁として崇められる足利尊氏を政権争奪戦における最大の
 ライバルとみなした後醍醐天皇等は、征夷大将軍を尊氏に与えず、護良親王に与えました。護良親王は、
 恐らく自分が日本全国の軍事権を握れると考えたに違いありません。しかし、事実上の皇后であった阿野
 廉子(あの・れんし)は自分の産んだ後醍醐天皇の皇子を皇太子にすべく、護良親王を排除することにし、
 やがてその奸計により、護良親王は皇位簒奪の容疑で征夷大将軍を解官され、鎌倉に配流されました。
 後に北条高時の子・北条時行が中先代の乱という、復活戦を挑んだ際、鎌倉を守っていた足利尊氏の弟・
 足利直義の命を受けた淵辺伊賀守義博によって暗殺されました。流転の果てに朽ちた悲劇の生涯でした。
 十津川郷には黒木御所跡のほか、竹原八郎入道の墓、戸野兵衛等に関する伝説地が残されています。
 黒木御所跡にあった御殿の遺跡や、竹原八郎の塔等は、明治22年の台風により、流失してしまいました。
 
 左: 上野地で見つけた黒木御所跡の看板 / 右: 手前の小さな道しるべに黒木御所跡の文字

 上野地には食堂やお土産屋さん、谷瀬の吊り橋を眺められるカフェなどがあり、ちょっとした観光地。
 小さなバスターミナルにはお手洗いもあり、小休止にはちょうどよい環境が整っています。また、小さな
 バスターミナルの脇には天誅組上野地本陣跡の碑が建っていました。長州藩は久坂玄瑞らを中心に
 朝廷の長州系公家を味方につけて幕府に不利な勅命を乱発し、幕府を圧迫し、一気に政権奪取を
 画策し、孝明天皇の大和行幸をもって事態を革命に持ち込もうとしていました。しかし薩摩と会津が
 大和行幸を白紙にし、長州系公家七名と長州藩を京都から追い落としました。文久三年八月十八日の
 政変です。革命がほぼ成功すると思われていた時期、公家の中山忠光を担いだ各地脱藩浪士たちが
 天誅組を組織し、大和にある天領を制圧して来るべき新政権の財源にしようと考えました。革命の企画者
 である久坂玄瑞や、久留米の真木和泉守、筑前の平野國臣もこの暴発には反対していましたが、土佐の
 吉村虎太郎たちは予定通り、大坂から大和へと進軍し、五条代官所を襲撃し、代官等を殺害しました。
 八月十八日の政変によって長州が追い落とされると、当然、天誅組も暴徒とされ、幕府の追捕を受ける
 ことになりました。天誅組は十津川郷士に参戦を求め、多くの郷士が天辻の本陣へと馳せ参じました。
 十津川郷士は高取城攻略という無理な戦いにも駆り出されました。やがて朝廷より十津川に、天誅組を
 離脱するように命令が来て、彼らは十津川へと戻ってゆきました。その後の天誅組は壊滅の途を辿り、
 土佐郷士・石田英吉や大和浪士・北畠治房等わずかを残してほぼ全員が命を散らしてしまいました。
 十津川には天誅組関連の史跡が多く、暴君・中山忠光に諫言をして手討ちにされた玉堀為之進や、
 天誅組追討軍の藤堂藩に逮捕され処刑された深瀬繁理、天誅組と十津川郷士のパイプ役・野崎主計等、
 幕末の十津川郷の偉人たちの史跡や歌碑や墓標、天辻峠や上野地の天誅組本陣跡などがあります。
 
 左: 上野地の集落 / 右: 天誅組上野地本陣跡
  
 左: 十津川郷はたくさんの山に囲まれています / 右: 道中で見た西熊野街道上の集落
 
 関西電力長殿発電所を過ぎると、やがて城門トンネルにさしかかります。城門トンネルは十津川村と、
 五條市大塔町の境目にあり、トンネルを抜けるともう、五条市です。ただ、五條市大塔町は、かつては
 吉野郡大塔村だったエリアです。平成17年、大塔村と西吉野村は、五條市に編入されました。現在、
 大字に大塔町、西吉野町という名称が残されています。大塔村は、明治22年4月1日に、町村制の
 施行によって発足した村で、辻堂村、殿野村、閉君村、宇井村、猿谷村、堂平村、飛養曽村、弓土村、
 清水村、中峰村、中井傍示村、惣谷村、篠原村、坂本村、簾村、小代村、中原村、唐笠村の18区から
 なる野長瀬組をもって発足しました。元弘の乱の後、敗れた大塔宮護良親王がこの地に逃れて、戸野
 兵衛とそのおじの竹原八郎に匿われたことに由来して命名されました。この地で暫く潜伏した跡、谷瀬の
 黒木御所に移動したと思われます。その後、大塔宮護良親王は、阿野廉子の奸計にはまり、悲劇的な
 最期をとげることになります。村が発足してからわずか4か月ほど後、十津川村と大塔村は、記録的な
 災害に見舞われます。明治22年8月18日に起こった吉野郡大水害は十津川村を泥沼に変え、多くの
 村民が北海道に移住(現・新十津川町)する結果となりました。大塔村でも87戸が倒壊・半倒壊しました。
 十津川の流れをコントロールし、また発電を行うため、大塔村と十津川村ではダムがいくつか建設され
 ました。大塔村では、猿谷ダムが作られ、坂本の集落の一部が湖の底に沈みました。大塔村のようすは
 司馬遼太郎さんの『街道をゆく―十津川街道―』に詳しく書かれています。坂本(現・阪本)から西に行くと
 高野山に到達します。明治22年の十津川・大塔の大水害の際、通信手段も断たれ、十津川村の村人の
 ひとりが高野山まで行き、大災害の様子を報告したと言われています。尚、山間部の篠原には篠原踊り、
 惣谷には惣谷狂言が保存されており、毎年1月25日に行われています。西熊野街道上の阪本にもまた、
 阪本踊りが保存されており、こちらは4月29日に行われます。奈良県南部には、古い時代の伝統芸能が
 数多く残されています。いずれ、こうした伝統芸能を見に行きたいと思います。気がつけば娘は爆睡して
 おり、いつの間にか(旧)大塔村を出て、(旧)西吉野村に入っていました。十津川ほどではないにせよ、
 (旧)大塔村もまた、山深い里という印象の集落がいくつもありました。源義経、大塔宮護良親王、天誅組、
 日本史の中で悲劇的な最期をとげた人々が、この両村を行き来したと思うと感慨深いものがあります。
 天誅組は五条代官所を襲撃、高取城を攻撃したあと劣勢に回り、東吉野方面でほぼ、壊滅しています。
 
 左: トンネルを抜けると五條市大塔町 / 右: 篠原や惣谷という集落を擁する山並み

 (旧)西吉野村は、現在では五條市西吉野町と呼ばれています。ここは観応の擾乱の舞台となりました。
 南朝の正平2年/北朝の貞和3年、南朝方は本拠地としていた吉野を引き払い、現在の西吉野町にある
 賀名生に拠点を移しました。後醍醐天皇の皇子・後村上天皇の皇居は総福寺であったと言われています。
 足利尊氏は、有力な武家を政権から排除する後醍醐天皇の政権に反発し、後醍醐天皇方に戦いを挑み
 ますが敗れて九州に逃れます。やがて北朝を擁立した足利尊氏は、北朝によって征夷大将軍に任官し、
 楠木正成や新田義貞に勝利して京都に室町幕府を開きます。室町幕府は軍事を足利尊氏が担当し、弟・
 足利直義が政務(訴訟)を担当するという二元政治が執られていました。鎌倉幕府を例にとると、将軍家の
 職務であった(主に土地に関する)訴訟は、足利直義の掌中にあったということもできます。尊氏の側には
 新興の御家人や進歩的な公家がつき、直義の側には守護・地頭に代表される大豪族がつくという具合に、
 初めから騒乱の予兆をはらんでいました。
 ・観応元年10月、足利直義が京都を脱出し、足利尊氏は高師直等を率いて尊氏の庶子にして直義の養子で
  ある足利直冬追討のため、九州へと下向。
 ・11月、足利直義が室町幕府の執事で、尊氏派の中心人物であった高師直・師冬の討伐を宣言。これに対し
  尊氏派は北朝の光厳上皇から足利直義追討の院宣を引き出します。
 ・12月、足利直義は起死回生の策として南朝に講和条件を示し、帰順。危機感を覚えた尊氏は京都に戻り、
  直義派の攻撃に備えます。
 ・観応2年1月、桃井直常が挙兵し、京都を襲撃し尊氏派を播磨国に駆逐します。高師冬が南朝方に敗れ、
  甲斐国で自害。
 ・2月、摂津で直義が尊氏を破り、高師直一族を政権から外すことを条件に尊氏と和睦しますが、高師直は
  一族もろとも上杉氏により殺害されました。
 ・3月、足利直冬が鎮西探題を拝命。
 ・10月、今度は尊氏が起死回生の策として、敵対する南朝に戦略的に降伏しました。そして南朝から直義
  追討令を引き出します。
 ・11月、北朝の崇光天皇を廃位し、観応から正平に改元(正平一統)
 ・観応3年(正平7年)閏2月、尊氏が征夷大将軍を解官されます。南朝方の知恵袋・北畠親房等が京都に
  進軍し、北朝方の光厳上皇、光明上皇、崇光上皇の三人と、崇光天皇の皇太子を拉致すると賀名生の
  皇居に立て籠もります。
 ・3月、尊氏は対抗策として正平一統を破談し、観応を復活させます。
 ・8月、崇光天皇の弟である後光厳天皇が即位します。
 ここで興味深いのが、三上皇の拉致です。その舞台はまさに、現在の西吉野町の賀名生にあるのです。
 今回は訪れる機会がありませんでしたが、いずれ、行ってみたいと思います。尚、賀名生皇居の扁額は、
 天誅組の総裁のひとり吉村虎太郎の筆によるものです。賀名生を過ぎると平坦な土地が多くなってきます。
 五條のバスターミナルで最後の休憩(15:15−15:31)。日が傾いてきました。イオンモールでトイレ休憩。

 五條といえば、天誅組蜂起の場所です。大和盆地は豊かな穀倉地帯、当然ながら江戸幕府の直轄地として
 重要な場所でした。大和盆地の歳入地を差配していたのが五條代官所でした。代官所とは、幕府に代わって
 直轄地の租税を徴収する機関で、長官たる代官(下級の旗本から能吏と認められた人物が就任)と、部下の
 手附、そして近在の住民から抜擢された手代が行政を行っていました。たいへん忙しい部署であり、テレビの
 時代劇に出てくる〔悪代官〕などという人物は殆どいなかったと言われています。不正を働けばすぐに更迭され、
 次の代官が送られてくるというシステムになっており、また、幕府は諸藩の行政の模範たるべしという建前から
 代官になる人物はその適正を十分に吟味されていました。天誅組が蜂起した文久三(1863)年8月17日は、
 代官・鈴木源内が、善政を布いていました。十津川郷士が京都の御門の衛士を勤めたいと申し出た折には、
 それを認め、励ました、いわば開明的な官僚でした。その名君・鈴木源内を、天誅組は悪代官として断じて、
 残奸状を認めて、部下もろとも惨殺してしまうのです。天誅組は先に述べた大和行幸を契機にクーデターを
 起こそうとしていた長州藩と長州系の公家のために、財源を求めて幕府の直轄領を押さえようを考えました。
 長州藩の藩論を握っていた久坂玄瑞や、尊王攘夷派の頭目といわれる真木和泉も、後に生野銀山にて乱を
 起こす平野國臣も、この暴発には反対していたと思われます。しかし、天誅組は結成され、土佐脱藩浪士の
 吉村虎太郎、三河刈谷脱藩浪士の松本奎堂、岡山脱藩浪士の藤本鉄石を三総裁とし、首領に侍従であった
 中山忠光を奉じて大坂から河内の観心寺(後醍醐天皇の皇子・後村上天皇の御陵のある南朝方の寺院)に
 詣で、金剛山を超え、五條になだれ込み、代官・鈴木源内を討ち取るのです。その翌日が八月十八日の政変、
 長州藩は長州系の公家七人と共に京都を追われます。天誅組は暴徒として朝廷と幕府から追われることに
 なるのです。歴史の変遷というにはあまりにもめまぐるしい出来事です。幕末が混沌とした時代であったことを
 如実に物語る事件として知られています。天誅組は兵卒不足を補うため、十津川郷士に参戦を呼びかけます。
 十津川郷士は野崎主計、深瀬繁理等に引率され、天誅組に味方すべく、山をおりてきましたが、天誅組の
 幹部は、十津川郷士たちを休ませることなく行軍させ、急峻な山の上に築かれた幕府譜代の高取藩の城を
 攻めるよう、命じます。やがて朝廷から十津川郷士にあて、天誅組を見限り、帰郷せよとの命令が下ります。
 十津川郷士は天誅組に罵られながら離脱してゆきます。それ以降、田中光顕や片岡利和の逃亡、坂本龍馬と
 中岡慎太郎殺害の復讐事件といった事件に関わりますが、基本的に十津川郷士は歴史の狭間に埋もれます。
 
 五條を出発したバスは、その後、御所駅、大和高田駅を経由して、大和八木駅に16:40に到着しました。
 道中、大和高田市の石園座多久虫玉神社という、延喜式神名帳に登場する由緒ある神社の前を通りました。
 通称を竜王宮といい、竜神にまつわる伝説を持つ神社です。地域住民から篤く信仰されているこの神社は、
 横大路に沿って鎮座ましまし、横大路を龍にみたて、桜井市の大神神社を龍の頭、石園座多久虫玉神社を
 龍の胴体、そして葛城の長尾神社が龍の尾にあたるのだと聞いたことがあります。奈良にはこうした竜神に
 まつわる伝説を持つ神社や、水の神様を祀るが数多くあります。吉野地方に点在する丹生川上神社の上社、
 中社、下社や、室生の竜穴神社、飛鳥川上流の飛鳥川上坐宇須多伎比賣命神社などが挙げられます。
 石園座多久虫玉神社は、第三代・安寧天皇片塩浮孔宮跡に比定されており、境内に碑が建っています。
 待ち時間、休憩時間を含め7時間の長旅が終わりました。この日は娘を連れ、西宮の実家で泊まりました。
 三重県を出発して和歌山県、奈良県、大阪府、兵庫県と大移動した一日も、ようやく終わりとなりました。
 明日はいよいよ桜井市のお綱祭りです。かなり広範囲で行われるお祭なので、効率よく回らねばなりません。
 娘には場所取りや、撮影補助など、アルバイトをして貰う必要があるため、念入りに打ち合わせをしました。
 
 左: 石園座多久虫玉神社(安寧天皇宮跡の伝承地) / 右: 大和八木駅に到着!GOAL!

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<03日目>02月11日(月・祝)
■行程: 西宮→桜井→(大西・江包)→桜井→名古屋→東京

 02月11日、西宮は雪がちらついていました。本来ならば、桜井駅で自転車を借りて、大神神社や箸墓を見ながら
 大西・江包に行くつもりでしたが・・・ そのもくろみは桜井に近づくにつれ、春の淡雪のように消えてなくなりました。
 桜井駅に着いたのは08:35。西宮では雪でしたが、桜井の鈍色の空からは、雨粒が落ちてきていました。祭りは
 行われることは間違いないのですが、移動の必要な祭りなので、どうしようか、考えを巡らせました。結局、駅前で
 傘を購入し、タクシーで大西に向かうことにしました。タクシーで、大神神社の参道の見えるところまでさしかかると
 雨は止みました。これなら自転車でも良かったかな?と思いましたが、あとでまた降ってきては困ります。タクシーは
 大西の集落の南端に止まりました。すでに、お綱祭りの幟が立ち、人の往来が盛んでした。この祭りを見るのは、
 初めてではありません。1983年に見学しています。その時分は、2月11日ではなく、旧暦の1月20日に行われて
 いたと記憶しています。いつしかこの祭りは2月11日に固定されました。たぶん、主催者側の里帰りを見込まねば、
 催行が難しいからだと思います。その際は、たしか江包に入り、男綱の後を追っかけまわしていたように思います。
 今回は大西の市杵島神社、女綱のもとに行きました。9時ちょうどに市杵島に入ると、女綱はまだ、神殿?の中に
 鎮座していました。境内では焚火がたかれ、女綱の担ぎ手が酒を酌み交わし、出発の準備をしているところでした。
 
 左: お綱祭りの幟 / 右: 大西の市杵島神社の『女綱の神殿?』
 
 左: 市杵島神社の社殿 / 右: お綱祭りの観光客用説明板
 
 左: お祭目当ての観光客が集まってきた / 右: 出発まで焚火で暖をとります
 

 市杵島神社の女綱は『閉じた』状態で縄で結ばれていて、一見、ヘビのような形をしています。素戔嗚尊と(奇)稲田姫、
 そしてヘビと酒とくれば、ヤマタノオロチ退治の一節が思い出されます。これは考えすぎだったようで、稲田姫=女綱は
 結婚するまでは『閉じた状態』でお練りをするのだそうです。女綱の行列の先達が、出発の号令を掛けると、お揃いの
 法被をまとった女綱の担ぎ手たちは、女綱の神殿?に入って女綱を担ぎます。宮司さんが先頭で、次が行列の先達、
 そして法被の担ぎ手に担がれた女綱が市杵島神社の境内を回り、そして神社を出発しました。と思ったら、いきなり休憩。
 先達と担ぎ手に、村人がお酒を振舞います。極端に言えば、100mゆけば、そこで休憩というような感じで、行列は実に
 ゆっくり、ゆっくりと進みます。ちなみに宮司さんは下戸だそうで、振る舞い酒はたしなむ程度に召し上がっていました。
 宮司さんは、一年前のお綱祭りから、今年のお綱祭りまでの間にあかちゃんが生まれたおうちを訪れ、祝福をします。
 車両は通行止めとなり、お祭のことを知らずに作業に出張っていたトラックの運転手さんは、探し出されて移動させられ、
 そんな風景すら、のどかな雰囲気を醸し出していました。『よういとこうら、よういとこうら』この掛け声が聞こえていれば、
 行列が進んでいる証拠。静かになったら振る舞い酒、そんなことが何度、繰り返されたか・・・ 私と娘は次の舞台である
 泥田へと向かいました。泥田では泥掛け(泥パック)、泥相撲の神事が行われます。とにかく、場所取りをしなくては・・・
 
 左: 担ぎ手が神殿?に入って女綱を担ぎ出す / 右: 女綱登場!

 
 左: 市杵島神社を出発し、ゆっくりと江包に向かう / 右: 村の中をお練り
 
 左: 宮司さんを先頭に進む女綱の行列 / 右: 慶事のあったおうちを祝福

 車道に面した田んぼに土俵が作られている場所まで移動しました。
 ここでは豊作を祈念して、お祭の参加者(地元の方たち)が泥相撲の儀式を奉納します。
 寒風の中、待っているけれども、あちこちでご酒を振舞われているため、女綱はなかなかやってきません。
 地元の方たちが、私と娘にミカンを下さいました。それを食べながら、周囲の写真などを撮っていると・・・
 やがて、『よういとこうら、よういとこうら』この掛け声が近づいてきました。女綱の行列がやっと土俵に到着。
 女綱の担ぎ手や勢子たちにより、乾いた田んぼに水が撒かれます。バケツで何杯も、何杯も撒かれて・・・
 やがて土俵は泥の海と化します。 すぐさま【泥掛け】が始まります。村の総代であろうが、先達であろうが、
 顔や服に泥が塗りたくられます。塗ったほうも塗られたほうも、見物人も大笑い。さらに女綱の尾で土俵完成!
 東京でこれをやったら大問題になるだろうな・・・(笑) やがて力士が選ばれて土俵の周囲に並び、いよいよ
 泥相撲が始まります。押して、引いて、投げて、投げられて、力士も行司役も、みんな泥んこになります。
 これは、言い伝えによると、暴れれば暴れるほど、土がならされて次の年は豊作になるというものだそうです。
 今回は女綱に密着しましたが、江包の男綱の担ぎ手も、江包の田んぼで同じような泥相撲を奉納します。

 そういえば、このお祭りで困るのは、お手洗いが少ないこと。大西の市杵島神社の社務所でお借りするか、
 江包の春日神社の集会場でお借りするか、どちらかになります。神様の結婚式が行われる素戔嗚神社には
 お手洗いがありませんので、ご注意下さい。あと、大西にも江包にも、スーパーマーケットとコンビニが一軒も
 ありません(令和元年5月16日現在)。また、レストランや食堂、関西にありがちなたこ焼きのお店も一軒も
 ありません。その代わり、春日神社の近くで地元の人々が露店を展開します。そこではほくほくの豚まんや
 フランクフルト、おにぎり、温かい飲物が売られますが、とにかく早い者勝ち!早め早めに買っておきましょう。

 
 左: 総代だろうが容赦なしの泥掛け  右: 土俵は女綱の尾です。

 
 左: 泥相撲が始まりました。       右: 倒して倒されて・・・みんなどろんこ!
 
 
 左: 早めにゲットしないとなくなるよ。  右: 大西でも男綱の担ぎ手たちが泥相撲

 江包の春日神社集会場でお手洗いを借り、露店で食物を購入して少し気持ちに余裕が出たので、
 春日神社と素戔嗚神社を拝観しました。大西の市杵島神社もそうですが春日神社、素戔嗚神社とも
 ガイドブックに載るような、観光客(参拝客)の絶えないという、観光地然とした神社ではありません。
 年に一度、お綱祭りの際に会場となることで一部の人に知られているという感じの小さな神社です。
 地元の人々が長い歴史の中でずっと大切に守り続けてきた村の鎮守という印象の素朴な神社です。
 そういえば、先週、添乗で訪れた飛鳥坐神社も、おんだ祭の当日以外は、たまに観光客が境内を
 歩いているという感じです。奈良県にはこうした素朴な神社がたくさんあります。熊野の花窟神社や
 新宮の熊野速玉大社等、常に観光客が押しかけて写真を撮影し、おみくじを引き、朱印を頂いている
 という印象がないのが逆に新鮮な感じがします。飛鳥、桜井は徳川家の歳入地(天領)であったため、
 安定した行政が行われていたと思われます。いまの時代なかなか『鎮守の森』というイメージに合う
 場所を探すのがたいへんですが、大西・江包にはしっかりとその雰囲気と、地元の人々の信仰が
 残っていました。いつまでもお綱祭りが伝承され、三軒の神社が守られてゆくことを切に願いました。
 
 
 左: 鎮守の森というイメージの素戔嗚神社 右: ヤギがいました
 
 左: 女綱はこの橋を渡ってお嫁入します 右: 江包の春日神社の境内
 
 左: 江包の素戔嗚神社の境内      右: 素戔嗚神社の社殿と観光用説明版

 正午ごろ、『よういとこうら、よういとこうら』の声が聞こえてきました。大西・江包を隔てる大和川に
 かかる橋の、江包側のたもとで待っていると、女綱の行列が橋に向かって進んできます。さらに
 江包の男綱の行列も動き出しました。小雨がちらつく寒い空気の中に、にわかに熱気が伝わって
 来ました。私は江包の素戔嗚神社の鳥居前で、娘は素戔嗚神社の境内よりも少し高い位置にある
 橋のたもとで、ベストポジションを確保して行列を待ちます。さすがに橋の上での振る舞い酒はなく(笑)、
 行列は長い直線距離をずんずん進んで来ます。いつの間にか見物客が鳥居を囲んでいました。

 女綱の綱が鳥居の両脇の大木に結ばれ、女綱を閉じる藁紐に刃物が入り、女綱は開いた形になって
 男綱(お婿さん)の到着を待ちます。先達や村の長老が若手に女綱の扱い方を教え、若手は言われた
 通りの手順で女綱をセットしていました。先輩から後輩へ、言葉と手で次代に伝えられる伝統の行事、
 願わくば未来永劫、この伝承の流れが途切れることなく、伝わってゆくことを祈念してやみません。
 女綱の準備ができると、いよいよ男綱が女性のシンボルを表現した、輪になった女綱をくぐります。
 これが神様の新婚初夜!村人からはやんややんやの喝采が起こります。明日香村のおんだ祭は
 人間が新婚初夜〜夫婦和合を演じていましたが、大西・江包では男綱と女綱が、もっとリアルにその
 場面を具現化します。どちらもおおらかで、あちこちから笑いが起こります。田舎の素朴な農耕儀礼で
 すが、このユニークな神事は国の内外に紹介され、最近では地方からの団体ツアーや、外国人客も
 訪れるようになっているようです。私と娘はタイミングよく、ベストポジションを確保していたので、神様の
 結婚式をかなりよい場所で見学できました。でも、このお祭の終わりって・・・?結合した夫婦の綱は、
 鳥居前の大木に掛けられたまま、神職も氏子も観光客も、流れ解散のようにその場を去ってゆきました。

 
 左: 橋を渡って女綱(お嫁さん)が来た 右: 女綱の縄を大木に掛ける作業
 
 左: 先輩から後輩へ作業の伝承    右: 女綱を開く。開かないと男綱が困る
 
 左: 丹念に何度も開き具合を確認   右: ついに女綱の準備が完了!
 
 左: そして男綱(お婿さん)がやってきて 右: 氏子や観客の前を堂々と行進
 
 左: 男綱と女綱の結婚式=新婚初夜 右: 初夜ではなく初昼じゃないか?
 
 左: 無事に結婚式終了!         右: あんなに盛り上がったのに流れ解散(笑)

 流れ解散の後、タクシーを呼び、桜井駅へと向かいました。桜井から名張までは近鉄の普通列車で、
 名張から名古屋まで近鉄特急で移動。そして名古屋から高速バスに乗り、夜遅くに東京に戻りました。
 二週続けて奈良の奇祭をふたつ見ることができました。今度は蛙飛びを見に行きたいと思います。


  −おわり−

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※内容は予告なく変更になる場合もあります。
※この旅行は手配旅行となります。
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 2019年02月11日(日) ・・・ 終了しました。

●旅行代金には下記のものが含まれていました*
 *東京からの交通費
 *ホテル1泊
 *朝食3回/昼食3回/夕食3回
 *ガイド/添乗員費用(東京からの往復切符、萩での前泊代・食費を含みます)
 *入場・拝観料(橘寺)
  
●旅行代金に含まれないもの
 ・・明記されない食事
 ・・その他、個人的な支払い(電話、FAX、ネット通信費/明記されていないお食事/
   お飲み物)とそれに関わる税金、サービス料






電話でのお問合せは ・・・ 080−5028−6007 まで
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