ここがポイント!
カナダ/ハイチ/バハマ経由
陸路とボートで走破する!
知られざるギアナ三国とハイチ
歴史・自然・民族探訪11日間
ゴールデンウイーク スペシャル
★ガイアナ
かつては英国の植民地であったガイアナ。首都ジョージタウンには美しい木造建築が古きよき植民地時代を今に伝えています。
目玉はなんと言っても名瀑カイエチュールの滝です。
<観光の見どころ>
カイエチュールの滝: 小型飛行機で訪れる名瀑、カイエチュールの滝。
マイナス・イオンたっぷりの水煙が、長旅の疲れを癒してくれるかもしれません。
ジョージタウン: 英国植民地時代に建都されたジョージタウンには、壮麗な木造建築が数多く残されています。聖ジョージス大聖堂をはじめ、貴重な木造建築をじっくりとご覧頂きます。
★スリナム
かつてはオランダの植民地であったスリナム。オランダの昔日を思わせる木造建築が立ち並ぶ首都パラマリボは世界遺産に登録されています。
世界遺産のパラマリボ旧市街とプランテーション史跡を訪れます。かつてのオランダ植民地経済を支えたサトウキビ産業の軌跡を追います。
<観光の見どころ>
パラマリボ: オランダ植民地時代に建都されたパラマリボには、貴重な木造建築が多く、旧市街は世界文化遺産に登録されています。噂のモスクとシナゴーグが隣り合わせに並ぶ景観のみならず、さまざまな人種が闊歩する街の雰囲気もおもしろい!
コメウィネ川流域: オランダは本国と同じように、海辺の低地を開拓し、大規模なプランテーションを展開しました。いまでは、それらの製糖施設は、一部、旅館にもなっています。帰りのボートでは、運がよければイルカを見ることができるかも♪
★仏領ギアナ
南米に残った最後の非独立地域。フランス領ギアナでは、国境の町サン・ローラン・ド・マロニーと、首府カイエンヌを訪れます。かつては流刑の土地だった仏領ギアナには流刑の時代、植民の時代の史跡が数多く残されています。
サリュー諸島(悪魔諸島): 流刑地として、悪魔の島々と恐れられたサリュー諸島は、今では仏領ギアナのメイン観光地のひとつ。サン・ジョセフと、ロワイヤル、2つの島をカタマランで訪れ、流人の史跡を観光します。その名とは違い、絵になる美しい眺めの島です。
サン・ローラン・ドゥ・マロニ: 流刑地として出発した仏領ギアナの原点のひとつ。流刑者たちによって築かれた集落の史跡や、カラフルな市場を訪れます。マロニ川はスリナムとの国境の川。今回はボートによる国境越えを体験します。
■最大の楽しみは川越え。陸路や海路で国境を越えるチャンスはありますが、川を渡る国境越えは珍しい!
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平原朋美より:
パームツアーセンターのスタッフ、平原朋美です。
ギアナ三国は、知名度の低さから、行ってみるまでイメージもできませんでした。
しかし、実際に行ってみて、自然とそこに暮らす人々の生活や歴史に触れ、いっぺんに
ギアナ三国の魅力のとりこになりました。
カイエチュールの滝は、遊歩道を歩いて訪れましたが、滝に到る道中、墨絵のような
幽玄の雰囲気を味わうことができました。
アジアの雰囲気が懐かしいパラマリボ市内には古き良きヨーロッパの木造建築が並び、
不思議な雰囲気を醸し出していました。
フランス領ギアナは、南米に残った唯一の非独立地域。フランスの流刑地の史跡や、
悪魔諸島など、観光地としてはなかなか整備が整っていてびっくり。
食事もはじめは心配でしたが、さすがに人種のるつぼ。
各国の激動の時代を反映するかのように、ガイアナでは中国料理、スリナムでは
インドネシア料理やインド料理、フランス領ギアナではヨーロッパ風料理、地元の
クレオール料理など、バラエティに富んでいました。
パームツアーセンターは、ギアナ三国の専門店といってもよいと思います。
シーズンによって微妙に異なるサービスをご提案させて頂きます♪
ハイチ共和国とは・・・
中央アメリカの西インド諸島の大アンティル諸島内、イスパニョーラ島の西部に位置しており、東にドミニカ共和国と国境を接する国です。
人口は約1000万人で、人口密度は1平方キロメートルあたり、362人。
面積は27,750平方キロメートル。
首都は、ポルトープランスです。
旧宗主国フランスからの独立は1804年(日本では享和4年。光格天皇の御代。徳川幕府は11代将軍・徳川家斉の治世)で、アメリカ大陸で二番目の独立であり、世界初のアフリカ系の人によって建国された国としても知られています。
【ハイチ(アイティ)】という国名は、先住民族であるアラワク系タイノ人(インディアン)の言葉で、『山がちな土地』という意味で、それまでフランス領としての地名であった『サン・ドマング』から改名しました。
プレ・コロンビア時代の紀元前4000円から紀元後1000年までの間に、先住民族のタイノ人が、現在の南米・ギアナから移住してきたときから、ハイチの歴史は始まりました。彼らはカシーケと呼ばれる首長が牽引する5つの部族社会を構築し、最盛期は100万人~300万人の島民がいました。
1492年(日本では延徳4年。後土御門天皇の御代。室町幕府は9代将軍・足利義尚~10代将軍・足利義材<よしき=後年、足利義稙として復権する人物>の治世)に、クリストファー・コロンブスによりイスパニョーラ島が“発見”され、それから25年ほどの間にスペイン人による入植が盛んになり、先住民族であるタイノ人は絶滅させられました。
金鉱山の発見で、労働力が必要だったスペイン人は、最初はタイノ人とは別のカリブ・インディアンであるカリブ人に奴隷として働くことを強いていましたが、やがって疫病や過労によって、カリブ人は姿を消し、それに代わってアフリカから連れて来られた奴隷が工夫として使役されました。
スペインの勢力が陰りを見せ始めた1659年(日本では万治2年。後西天皇の御代。徳川幕府は4代将軍・徳川家綱の治世)ごろから、フランスが徐々にイスパニョーラ島西部にを侵略し、1697年(日本では元禄10年。東山天皇の御代。徳川幕府は5代将軍・徳川綱吉の治世。元禄赤穂事件=忠臣蔵事件の5年前)にはフランスが正式にイスパニョーラ島の西1/3を領有することになりました。
以降、サン=ドマング Saint-Domingue (現ハイチ)では、アフリカから連れて来られた奴隷たちが大農場開墾に駆り出され、農耕に使役されました。
奴隷たちは西アフリカの奴隷海岸(ナイジェリア、ベナン、トーゴ)から連れて来られ、同時にブードゥー教をはじめとする宗教や生活文化もこの地に持ち込まれました。
1789年(日本では天明8年~9年。光格天皇の治世。徳川幕府は10代将軍・徳川家治の治世)ごろには宗主国であるフランスではバスティーユ監獄襲撃に端を発する革命=フランス革命が勃発し、それを引き金にサン=ドマングでも、1791年(日本では寛政3年。光格天皇の御代。徳川幕府は11代将軍・徳川家斉の治世)にアフリカ系とアフリカ系及びヨーロッパ系の混血であるムラートが蜂起、ハイチの独立運動が始まりました。
そしてトゥーサン・ル-ヴェルチュール、ジャン・ジャック・デッサリーヌ、アンリ・クリストフに率いられた反乱軍は各地でヨーロッパ人農業主を打倒し、1804年には、独立を宣言しました。
その後、各指導者はハイチを分割統治するようになりますが、アンリ・クリストフはハイチ北部を占有し、王となり、カパイシャン周辺を中心とした現在の北県にあたる土地の支配を開始しました。
アンリ・クリストフは、自分を百姓から皇帝に登りつめたナポレオン1世になぞらえ、ヴェルサイユ宮殿を模した豪壮なサン・スーシ城を築き、豪華絢爛な戴冠式と挙行しました。
混乱の中で産声をあげたハイチは、独立後の政情は安定せず、憲法を制定し、法治国家を目指したデッサリーヌは、アレクサンドル・ペチョンや、アンリ・クリストフにより圧迫され、最後は暗殺されました。独立運動を牽引したトゥーサン・ル-ヴェルチュールは独立運動のさなか、フランスによって捕えられ、フランスで獄死していて既になく、ペチョンも南米の独立の志士シモン・ボリバールを庇護するなど中南米の独立の手助けをしましたが、黄熱病に倒れ、アンリ・クリストフもまた、サン・スーシ城で錯乱して自害。指導者や有力者を相次いで失ったハイチは、暗黒アフリカさながらの混乱期に突入・・・現在に至るまで、混乱は日常的になっています。ハイチは天災地変の起こりやすい土地とも言われ、大地震や疫病にも悩まされ、政情不安もあいまって、中南米カリブでは最も発展の遅れた国という印象を持たれています。
ただ、アフリカ以外では、ブラジルのサルバドールと並んで最もアフリカの記憶を残している国としても知られ、ブードゥー教は生活文化に溶け込み、いまなお、アフリカを彷彿とさせるライフスタイルを見ることができます。
アンリ・クリストフ・・・
今回の旅ではハイチの北県を訪れます。
ハイチ独立の英雄のひとりであり、奴隷身分から皇帝にまでなったアンリ・クリストフの治世におけるさまざまな遺産や記憶が残されている北県では、彼の名は避けて通れません。
自分をナポレオンになぞらえて、ヴェルサイユ宮殿を模したサン・スーシ城で豪華絢爛な戴冠式を行い、北部に君臨したアンリ・クリストフが次に行ったのは、そのナポレオンが率いるフランス軍の侵攻を防ぐための、シタデル城の築城でした。しかし、フランスは既に、ハイチに再び攻め入る余裕はなく、意味のない城の築城は、旗本や家臣の反抗を招き、アンリ・クリストフは次第に精神を蝕まれてゆきます。
「誰かが朕を裏切れば、朕の帝国は崩壊する」
「朕が信ずるに足る家臣はもうおらぬ・・・」
追い詰められたアンリ・クリストフは、サン・スーシ城で拳銃で自害します。
そして彼が憧れ、また仮想的として恐れたナポレオンも、配流先のセントヘレナでその生涯を終えました。
フランスとハイチ・・・遠く離れた二つの土地で、似たような生涯を送った人物がいたのは非常に興味深いものがあります。
日本人にはまだまだ馴染みの薄いハイチですが、ユネスコの世界文化遺産に認定された堅固な城塞シタデルと栄華を極めたサン=スーシー城の廃墟。度重なる災害から立ち直ろうとしている首都ポルトープランス。この旅では、ハイチの外せないい見所を訪れます。
オプションで珍しいブードゥー教の儀式のショーもご覧頂けます!!お楽しみに!

(写真:左 ブードゥーの儀式/右 シタデル)
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