☆ギニア=ビサウ&カボベルデ ☆ 自然と歴史探訪の旅 ☆ ギニアビサウという国をご存知ですか?西アフリカにある小国で、セネガル、ギニアと国境を接しています。首都はビサウ。主要言語はポルトガル語で、首都ビサウにはポルトガルの植民地だったころの美しい家並が残されています。 これと言ってみどころのない国ですが、美しい海が魅力です。ギニア湾に浮かぶビジャゴ諸島の主要な島のひとつブバック島は、同時にこの国唯一といってもよい観光地でもあります。 この旅ではギニアビサウの美しい海と、かつて、ギニア=ビサウとの統一もささやかれた、アフリカの大西洋沖に浮かぶ隣国カボベルデを訪れます。 ≪ギニア=ビサウの紹介≫ ・・面積は世界133位の36,120平方キロメートル ・・人口は世界第146位の約161万人。 ・・この国の歴史・・・ ■1446年: ポルトガルがこの地域の領有を宣言し、カシェウに本拠地を建設。 ■1630年: ポルトガルが総督府を設置。 ■1687年: ポルトガルが奴隷積出の拠点としてビサウを建設。 19世紀後半まで、現在のギニア=ビサウ(ポルトガル領ギニア)は、アフリカ沖、 大西洋上に浮かぶカボベルデ植民地の一地方として機能する。 ■1879年: カボベルデ植民地から離れ、単独でポルトガル植民地となる。 ■20世紀: ポルトガルはギニア湾岸のイスラム教徒を調略し、内陸部のアニミストを 排除し始める。逆に植民地内の支配は不安定となる。 ■1936年: ビジャゴ諸島を支配下に置き、現在のギニア=ビサウ全土が掌握される。 ■1942年: ビサウはギニア植民地の正式な首府となる。 ■1951年: ポルトガルの植民地法改正。植民地から海外州に昇格するも、地域民の 識字率の低さを憂える知識層によるナショナリズムが高まりを見せ始める。 ■1956年: 独立の志士アミルカル・カブラルがギニア・カボベルデ独立アフリカ党を 設立(PAIGC)し、独立・民族解放運動が始まる。1959年8月3日、首府ビサウにて ストライキを起こした港湾労働者がポルトガル軍により虐殺され、それ以降、反政府 グループはゲリラ化し、武力独立を目指す。1963年PAIGCはティテのポルトガル 軍屯営を襲撃、ギニア=ビサウ独立戦争が勃発。ソ連やキューバやギニアなどの 東側はPAIGCを支援、米国はポルトガルを支援し、植民地戦争は泥沼化する。 ■1973年1月20日: ギニアのコナクリにてアミルカル・カブラルが暗殺される。以降、 指揮権はアミルカルの実弟ルイス・カブラルに移り、同年9月24日に独立を宣言。 ルイス・カブラルはギニア=ビサウ初代大統領となる。翌年ポルトガルに承認される。 ■1980年: ジョアン・ヴィエイラ首相が、軍事クーデターでルイス・カブラル大統領を 失脚させる。これは、政府首脳以下、為政者は殆どがカボベルデ系(カブラル家等) であったため、ギニア=ビサウ国内でカボベルデ系への反感が募った結果である。 ■以降、政情は混迷する。1998年クーデター未遂が起き、ヴィエイラ大統領派の軍と 反政府組織のリーダーのアンスマネ・マネ派の軍とが内戦に突入。ギニア=ビサウ 内戦と呼ばれる動乱により、30万人の難民がビサウに流れる。1999年5月7日、 ヴィエイラ大統領は退陣を余儀なくされ、7月にポルトガルに亡命。2000年には、 クンバ・ヤラ大統領が就任するが、アンスマネ・マネの傀儡政権の様相を呈していた。 2001年、ヤラ大統領と対立したマネが暗殺されるが、2003年9月14日にはヤラ もまた、セアブラ将軍により失脚させられた。 ■2005年: ポルトガルより帰国したヴィエイラが大統領に返り咲くも、軍司令部との 間に軋轢を海、ついに2009年3月2日、ヴィエイラは軍に襲撃・暗殺される。 ■2009年7月26日、マラム・バカイ・サニャが大統領に選出されるも、2012年1月9日、 療養中のパリの病院で病死。その後、暫定の大統領となったライムンド・ペレイラが 拘束されるなどの政変を経て、現在政情は小康状態が続いている。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− <観光の見どころ> ビジャゴ諸島: ギニア湾に浮かぶ島々。ブバック島に代表されるこの諸島では、 トローリングやマリン・スポーツを楽しむことができます。島の人々は本土と異なる 生活文化を持っており、サメの頭を模した仮面など、民俗上の相違もあります。 ビサウ: 独立以前から、奴隷貿易の拠点として建都された古都にして首都。幾多 の動乱を経た、歴史の目撃者。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− (@_@) (@_@) (@_@) (@_@) (@_@) (@_@) −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ≪カボベルデの紹介≫ ・・面積は世界166位の4,033平方キロメートル ・・人口は世界第170位の約61万人。 ・・この国の歴史・・・ ■ポルトガル人の探検家が1456年および1460年にこの地を訪問したことが記録に 残るが、当時は無人であったという。 ■1462年: ポルトガル人がサンティアゴ島に到達。熱帯地方で初となるヨーロッパ人 による居住地をベイラ・グランデに建設。現在のシダーデ・ベーリャの誕生である。 但し、植民地としては南にかたよりすぎていた為か、アゾレス諸島やマデイラ諸島の ような発展は見られなかった。 ■16世紀: アフリカから北中南米に奴隷を運ぶ奴隷船の中継地点として栄える。 ■1585年: イギリスの海賊ドレークにより、ベイラ・グランデは略奪の対象となる。更に 1712年にフランスがベイラ・グランデを襲撃すると、その後衰退し、後に首都となる プライアの後塵を拝するようになる。 ■18世紀から19世紀にかけて天災地変の影響で住民がこの地を放棄するようになる。 〜〜〜このころまで、ヨーロッパ人とアフリカ人によるクレオール文化が形成された。 ■1951年: ポルトガルの植民地法改正。植民地から海外州に昇格するも、地域民の 識字率の低さを憂える知識層によるナショナリズムが高まりを見せ始める。 ■1956年: 独立の志士アミルカル・カブラルがギニア・カボベルデ独立アフリカ党を 設立(PAIGC)し、独立・民族解放運動が始まる。1959年8月3日、首府ビサウにて ストライキを起こした港湾労働者がポルトガル軍により虐殺され、それ以降、反政府 グループはゲリラ化し、武力独立を目指す。1963年PAIGCはティテのポルトガル 軍屯営を襲撃、ギニア=ビサウ独立戦争が勃発。ソ連やキューバやギニアなどの 東側はPAIGCを支援、米国はポルトガルを支援し、植民地戦争は泥沼化する。 ■1974年12月: ポルトガルとの間にポルトガル人とカボベルデ人による暫定政権の 樹立が同意される。 ■1975年7月5日: カボベルデは独立を宣言する。 ■混迷を繰り返すギニア=ビサウに比べ、平穏な政情安定が続いている。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− <観光の見どころ> シダーデ・ベーリャ: 世界文化遺産。アゾレス諸島やマデイラ諸島に次ぐ、大西洋 上のポルトガルの拠点として栄えた古都。ドレーク(イギリス海賊)やフランスによる 襲撃を受けて衰退し、首府の座をプライアに明け渡し、廃墟同然となる。ヨーロッパ 人による、熱帯地方初めての植民地としてその重要性が注目され、ユネスコの世界 文化遺産に登録された。 プライア: カボベルデの首都。大西洋の良港をもつ、坂の多い街。ところどころに 古き植民地時代を彷彿とさせる石畳や、古い家屋が残る。 ポルトガル料理: カボベルデの食事は海の幸が豊富。ややしょっぱいが、旧宗主国 であるポルトガルのレシピによる、地元の魚介の料理がおいしい。