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 パームもやります!
『仁-JIN-』の舞台 京都ウォーキングツアー
第一回: 07月19日久坂玄瑞コース
第二回: 11月15日坂本龍馬コース
     
ここがポイント!

■パームもやります! 『仁-JIN-』便乗ウォーキングツアー■  

テーマ: 〜池田屋騒動から天満屋騒動まで


『仁−JIN−』をご覧になりましたか?
原作を原作を読まれた方、ドラマをご覧になった方・・・
店長は歴史が好きですが、歴史とSFが混在した『仁−JIN−』のようなお話も大好きです。
久坂玄瑞や、坂本龍馬を単に英雄をして描くのではなく、時代のはざまで苦悩する等身大の若者としての一面を描いていて、好きです。
久坂玄瑞の思想が、坂本龍馬によって具現化されてゆくという設定もいいなと思います。
幕末の京都の歴史をこよなく愛する店長が、玄瑞、龍馬の命日に行うウォーキング・ツアー。一緒に激動の幕末の京都に思いをはせて、歩いてみませんか?


<テーマ1: 久坂玄瑞 >

久坂玄瑞は天保11年(1840年)5月、長門国・萩(いまの山口県萩市)の平安古で、萩藩の藩医である久坂良迪と富子の間に、三男として生まれました。幼名は秀三郎。
すぐ上の兄は、夭折していますが、玄瑞より二十も年上の長兄・玄機は、大阪の適塾(緒方洪庵塾)で蘭学を修め、藩に戻り、蘭学教授を務めたこともあります。
嘉永六年(1853年)、浦賀にペリーの率いる艦隊が来航します。
この年の8月に玄瑞は母を亡くし、更に黒船に対抗するための海防の献策を藩主毛利敬親に命ぜられた兄・玄機も過労の末に死亡、そして玄機の初七日に父の良迪をも失います。
十五歳で天涯孤独となった玄瑞に、藩は久坂家の家督を相続させ、家禄25石を支給。
既に藩内の私塾吉松塾や、藩校明倫館で成績優秀であった玄瑞は、医学校であった好生館の寮生に推挙され、その将来を嘱望されました。玄瑞が藩で頭角をあらわし、長州の指導者になってゆく原点には家族の死があったのかもしれません。

安政三年(1856年)、先輩の進言で九州に遊学をした玄瑞は、熊本で兵学者・宮部鼎蔵に会い、そこで宮部の親友で長州藩士の吉田松陰に弟子入りすることを勧められました。
松陰は、ペリー艦隊の二度目の来航時に米国への密航を企て、萩に強制送還され、松本村の私塾『松下村塾』で藩の若者を教えていました。
玄瑞は松下村塾に入門するや、たちまち頭角をあらわし、松陰にとくに愛され、松陰の妹・文と結婚します。玄瑞の思想家・政治家としての資質は、松下村塾で培われたものであると言われています。
玄瑞、高杉晋作の二人は松陰の薫陶をよく受け、『松下村塾の双璧』と呼ばれました。
また、玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿、入江九一の四人を『松下村塾の四天王』とも言います。

安政六年(1859年)、吉田松陰が、安政の大獄で刑死すると、玄瑞は思想的な後継者と目され、次第に藩内の若者たちのリーダーになってゆきます。
親友・山縣半蔵(のちの宍戸たまき)らと共に、信州松代に松陰の師であり、当時最も先験的な学者であった佐久間象山を訪問し、長州に招聘しようとしますが、果たせませんでした。
玄瑞は、日本を諸外国から護るために、藩・幕府・身分制度という枠を超え、挙国一致して諸外国からの侵攻に備えるという思想を掲げ、その旗印として尊王・攘夷を掲げ、時代を牽引してゆきます。品川御殿山の英国公使館焼き討ち、朝廷に攘夷の勅命を出させるための工作、下関での外国船砲撃と攘夷戦争など、玄瑞は思想のみではなく、行動力でも長州藩や朝廷を牽引してゆきます。

文久三年(1863年)、長州藩が新時代のリーダーとなることを恐れた薩摩藩は、戦略的に佐幕派に転じ、会津藩と結んで薩摩派や会津派の公家を動かして、長州を京都から追い落とします(八月十八日の政変/七卿落ち)。失意の玄瑞は、この時より桂小五郎らとともに、長州藩の名誉回復のために奔走することとなります。
元治元年(1864年)、薩摩・会津に報復をすべく、長州の藩論は沸騰し、そこに諸国から脱藩浪士が集結し、暴走を重ね、ついには6月5日、祇園祭の宵宮の晩、池田屋ノ変で新撰組によって宮部鼎蔵や吉田稔麿が殺害されるに及び、京都で薩摩・会津に報復するべく、長州藩家老益田右衛門介を始め三家老、来島又兵衛、久留米の神官・真木和泉守らは兵を率いて京都に集結します。
洛外の長州藩兵と、洛中の薩摩・会津連合軍とが対峙し、一触即発の状況が続く中、7月11日には、その頃幕府に招聘され、京都にあって、戦乱が起きる前に帝(孝明天皇)を彦根に避難させる計画を練っていた佐久間象山は、三条木屋町の宿舎の付近の路上で、過激攘夷派によって殺害されます。刺客は熊本出身の河上彦斎ほか、数名であったそうです。
勝海舟の妹を妻にし、吉田松陰に薫陶を与え、間接的に久坂玄瑞を世に送り出した佐久間象山は54歳でその生涯を閉じます。
7月18日、長州藩はついに洛中に進軍を開始し、蛤御門や、堺町御門を守る、薩摩・会津軍と戦端を開きます。
玄瑞は最後まで、報復戦争には反対でしたが、反論が報復に決すると潔く薩摩・会津などの幕府軍と戦うことを是としますが、最後まで周旋の努力を惜しまず、堺町御門から御所に入り、鷹司関白邸に入ると、関白に長州藩の冤罪と、長州藩の失地回復を嘆願します。
しかし、既に長州軍は御所に向けて発砲し、孝明天皇の怒りを買い、藩主毛利敬親・元徳父子は朝敵となる運命にあり、長州に同情を寄せていた鷹司関白もこの期に及んでついに長州を見限り、玄瑞を嘆願を一蹴して参内します。長州軍は蛤御門や堺町御門で果敢に薩摩・会津連合軍と闘っていましたが、大将格の来島又兵衛が討ち死にするや、総崩れとなり、また、いち早く西洋式銃を陣採用していた美濃大垣藩に追い落とされ、総崩れとなって敗走しました。玄瑞と、同志・寺島忠三郎は、長州藩が敗走し、長州藩主父子が朝敵となるや、鷹司邸内に於いて自刃しました。寺島忠三郎は22歳、久坂玄瑞は25歳。また、高杉晋作の奇兵隊や、遊撃隊など、長州藩の民兵組織に奔走した入江九一も28歳を一期に戦場に散りました。
玄瑞の思想や行動力は、この蛤御門ノ変で潰えました。
長州藩は幕府軍に包囲され、更に英米蘭仏の四カ国による砲撃を受け、また、藩政をリードしていた勤王派が弾圧され、崩壊寸前となります。
玄瑞の親友・高杉晋作らが保守派を駆逐して再び勤王派政府を樹立し、再び侵攻してきた幕府軍を長州の四境で撃退するのは、玄瑞の死から二年後のこととなります。

玄瑞はただただ、外国を討ち払うという意味で攘夷を掲げていたわけではなく、その裏では西洋事情を研究し、諸外国と対等に渉りあえる統一国家を築こうとしていたそうです。そのためのスローガンとして尊王攘夷というイデオロギーを掲げましたが、ついにはその思想自体が玄瑞の意思を離れ、暴走していったところに悲劇がありました。
学問や思想にすぐれ、カリスマ性があるだけではなく、京都では遊郭を本拠地にし、ときには朗々と端唄を唄うなど、洒脱な人物であったと言われています。
彼の死後、長州藩は諸外国との戦争、内戦や対幕府戦争を経て、高杉晋作や、桂小五郎、大村益次郎、広沢真臣らが中心となり、一挙に維新回天へと突き進んでゆきます。


 
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<テーマ2: 坂本龍馬 >


坂本龍馬は天保6年(1836)年11月15日)、土佐の町人郷士、坂本八平と幸との間に、二男として生まれました。

坂本家は造り酒屋、呉服商、質屋を営む裕福な才谷屋の分家であり、龍馬の曽祖父が
郷士の株を買って武士になった後も、多大な援助を本家から受けていたと言われてい
ます。
嘉永六年(1853年)になると、龍馬は剣術修行のために江戸に遊学し、千葉周作
の弟・定吉が経営する桶町の千葉道場に入門します。当時、当主の千葉定吉は因州鳥
取藩に剣術教授として仕官しており、剣術は定吉の息子、重太郎に教わっていたと推
察できます。
間もなく、ペリーが来航し、龍馬は自費遊学でありながら土佐藩に召集され、品川の
藩邸の警護を命ぜられます。
このころ、信州松代藩士で高名な洋学者であった佐久間象山の私塾に入門します。時
期は前後しますが、久坂玄瑞の師・吉田松陰、越後長岡藩の河井継之助や『米百俵』
の小林虎三郎らも佐久間象山の門下にいました。
龍馬は安政元年(1854年)に土佐に戻り、絵師の河田小龍から国際情勢を学びま
した。河田はジョン万次郎から事情を長州をした際に『漂巽記略』を編纂したことで
知られ、優れた洞察力で国際情勢を把握したと言われています。
安政2年(1855年)に父・八平が他界、兄の権平が坂本家の当主になりました。
この年から一年間、再度、江戸に遊学し、千葉道場に薙刀術の目録を与えられます。
安政7年(1860年)3月、江戸で安政の大獄を推進した大老・井伊直弼が水戸浪
士・薩摩浪士により倒されると、土佐でも尊王・攘夷運動が盛んになり、馬の親戚で
親友であった武市半平太(瑞山)はこれを機に藩内の尊王攘夷派の中心的人物になっ
てゆきます。龍馬が武市瑞山の依頼で長州に出張し、久坂玄瑞に出会い、影響を受け
たのはこの出張の折でした。文久元年(1861年)3月、土佐藩で上士と下士(郷
士)との対立が起こり、武市瑞山は土佐勤王党を設立し、龍馬も参加します。
やがて上士側の総帥である参政・吉田東洋を暗殺すべしと主張する武市瑞山と対立し
た龍馬は、土佐を脱藩します。
江戸で勝海舟に師事した龍馬は、勝海舟が神戸に設立した海軍塾で軍艦の操練を受
け、私設海軍と海運業へと連なる道を見出すのです。
元治元年(1864年)6月5日、池田屋ノ変が勃発、勝海舟の私塾からも闘死者・
逮捕者が出て、海軍塾は解散に追い込まれます。
同年7月、池田屋の報復として長州藩は京都で挙兵、久坂玄瑞や寺島忠三郎など、長
州藩の指導者たちが命を落としました。
海軍塾を失った龍馬たち脱藩浪士は、後に薩摩藩に庇護され、薩摩や越前の出資を受
け、長崎に海軍と海運業を兼ねる株式組織『亀山社中』を設立します。
この戦い=蛤御門ノ変に参加していた土佐の郷士、中岡慎太郎は、内戦の愚を悟り、
日本全土が協力し合って、諸外国の勢力に対抗するために、犬猿の仲であった、薩摩
と長州を結び付けるべく、奔走を始めます。
龍馬は慎太郎と協力し合い、薩長同盟に向けて動き出します。
薩摩藩名義で武器弾薬を購入し、来るべき幕府との戦いを前に武器調達に悩んでいた
長州藩に販売したのは亀山社中でした。
この軍事的な経済交流により、薩摩と長州は和解。慶応2年(1866年)正月8
日、薩長同盟が締結されるに至ります。
龍馬が寺田屋で幕吏に襲撃され、寺田屋養女のお龍の機転で難を逃れ、これを縁にお
龍と結婚、薩摩に新婚旅行に行ったのは同月23日のことでした。

慶応3年(1867年)土佐藩は藩の軍事力を求め、参政・後藤象二郎が亀山社中に
接近。来るべき新しい時代に土佐藩が実をあげるべき道を模索し、亀山社中を軍事的
外郭団体にすべく、龍馬と会談します。土佐の上士、下士はここに和解し、亀山社中
は海援隊として再スタートを切ります。やがて土佐藩は龍馬の新政府構想(船中八
策)をもとに藩論を大政奉還建白に定め、前藩主・山内容堂は将軍・徳川慶喜に大政
奉還を建白。10月14日、慶喜は大政を奉還し、徳川幕府は260余年の歴史を閉
じました。
龍馬が同志・中岡慎太郎とともに暗殺されたのは、11月15日のことでした。
実行犯は京都見廻組という説がほぼ定着していますが、なぜ龍馬は討たれなければな
らなかったか、それは歴史の謎とされています。


<テーマ1: 久坂玄瑞〜尊王攘夷運動から蛤御門 >  

◎開催日: 2011年07月19日(火)  
◎代 金: お一人様9,990円  
◎集 合: 京都駅  
◎コース: 市バス、地下鉄など、公共交通機関と徒歩になります。  
◎食 事: 含まれません。各自、現地払いとなります
  (三条木屋町〜先斗町〜四 条河原町周辺を予定)  
  ・島原の角屋       /久坂玄瑞寓居の跡  
  ・新撰組 壬生屯所跡   /八木邸
   (入場される方は、別途、入場料が必要で す)
  ・妙法院(外観)     /八月十八日ノ政変(七卿落ち)
  ・桂小五郎・幾松寓居跡碑 /桂小五郎(木戸孝允)寓居の跡
  ・佐久間象山寓居跡碑   /天誅
  ・島田左近遭難の地    /安政ノ大獄〜天誅
  ・古高俊太郎邸跡碑    /池田屋ノ変の発端
  ・池田屋騒動の跡碑    /池田屋ノ変
  ・蛤御門         /蛤御門ノ変
  ・堺町御門        /蛤御門ノ変・久坂玄瑞戦死の地
  ・六角獄舎跡碑      /天誅組・池田屋ノ変

<テーマ2: 坂本龍馬〜薩長同盟から龍馬暗殺まで>

◎催行日: 2011年11月15日(月)
◎代 金: お一人様9,990円
◎集 合: 京都駅
◎コース: 市バス、地下鉄など、公共交通機関と徒歩になります。
◎食 事: 含まれません。各自、現地払いとなります
  (三条木屋町〜先斗町〜四条 河原町周辺を予定)
  ・寺田屋         /坂本龍馬の常宿(入場)
  ・薩摩藩邸跡碑      /薩長同盟の舞台
  ・二条城         /大政奉還の舞台(入場)
  ・本間精一郎遭難地碑   /天誅
  ・武市瑞山寓居跡碑    /土佐勤皇党の活躍〜天誅
  ・吉村虎太郎寓居跡碑   /土佐勤皇党の活躍〜天誅組ノ変
  ・坂本龍馬寓居跡碑    /酢屋跡
  ・中岡慎太郎寓居跡碑   /菊屋跡
  ・龍馬・慎太郎遭難地碑  /近江屋跡
  ・伊東甲子太郎遭難地碑  /新撰組内紛
  ・天満屋騒動跡碑     /新撰組VS海援隊・陸援隊   



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※内容は予告なく変更になる場合もあります。
※この旅行は手配旅行となります。
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 <テーマ1: 久坂玄瑞コース 2011年07月19日(火)>
 <テーマ2: 坂本龍馬コース 2011年11月15日(火)
●旅行代金には下記のものが含まれます*
 *施設入場料(明記されているところに限る)
 *ガイド費用
  
●旅行代金に含まれないもの
 *食事
 *現地までの交通費
 *その他、個人的な支払い(電話、FAX、ネット通信費/チップ/明記されていないお食事/
   お食事の際のお飲み物)とそれに関わる税金、サービス料

  

 

電話でのお問合せは・・・・080−5028−6007 まで
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