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2018年09月22日(土)鹿児島中央駅集合
明治維新150年記念コース
鹿児島幕末維新史跡探訪5日間
偉人たちの生涯と近代化の軌跡
石碑や銅像でたどる西郷どんの世界観
ここがポイント!

■現在残る石碑や像でたどる、西郷どんの世界観

 薩摩藩(“藩”という言葉が一般的になったのは、版籍奉還、廃藩置県といった
 明治政府による諸政策の中で、便宜的に使用されてから、という説が有力です。
 江戸時代は、『島津修理大夫家中』などという具合に呼ばれていました)では、
 郷中と呼ばれ、同じ町内に住む子供等がコミュニティを作り、年長者が年少者の
 学問や鍛錬の面倒を見る制度がありました。西郷隆盛、大久保利通、吉井友実、
 伊地知正治、大山巌等、後に明治維新を牽引してゆく人々が同じ町内で過ごして
 いたというのは、実は、不思議ではないのかもしれません。後輩は先輩の指導を
 受けると同時に、先輩の背中を見て育ち、思想や性根までも共有するようになる
 のかもしれません。明治の顕官、官僚、そして軍人を輩出した加治屋/高麗町を
 歩きましょう。これだけ近い場所に偉人がひしめいていた場所は類を見ません。
 薩摩藩は幕末期に島津斉彬が近代化を計画し、薩英戦争によって、列強の国力を
 知ると、近代化が不可欠であると認識し、15名の留学生を欧州に送りました。
 旧弊で頑迷といわれた国父(藩主の父)島津久光も、西洋文明のよい部分は学び、
 日本の国力を補強したいと考え、イギリス教師を招き、洋学を奨励していました。
 今回は鹿児島の近代化への足跡を、当時の歴史に名を遺した、偉人たちの生涯と
 重ねて、紹介してゆきたいと思います。新しい名所、時標をたどるのもたのしみ。
 明治維新は長州藩、薩摩藩、土佐藩、肥前佐賀藩が牽引したといいますが闇雲に
 攘夷をせず、国力をつけて外国と対峙する”大攘夷”を藩是とした藩を歩きます。


<加治屋町/高麗町付近>
有村雄助 (1835-1860)・有村次左衛門 (1839-1860) 誕生之地:
 有村雄助・有村次左衛門兄弟は、『桜田門外の変』に深くかかわった兄弟です。
 弟の次左衛門は、桜田門外の変にただ一人の薩摩人として参加して、井伊直弼の
 首級をあげた人物として知られています。しかし、彦根藩士に追い付かれ重傷を
 負い、自刃しました。兄の雄助は、水戸と連携して回天の挙に出ようと志します。
 しかし、個人の活動を禁じ、事を成すときは藩を挙げて行うべし、という藩是に
 そむいた罪を問われ、捕縛され、切腹を命じられました。二人の兄に有村俊斎が
 います。有村俊斎は幼少の頃に茶坊主として城にあがり、剣と学問を修めました。
 後に日下部家(海江田は日下部家の旧姓)に婿養子入りし、海江田信義と名乗り、
 薩摩藩の精鋭『精忠組』に属し、西郷隆盛、大久保利通等と国事に奔走しました。
 安政の大獄の際に薩摩に逃れようとした勤王僧・月照を護衛したり、生麦事件で
 英国人リチャードソンを介錯したり、薩英戦争で活躍したり、それらの経歴から、
 戊辰戦争の際には有栖川宮熾仁親王の下、東海道先鋒総督府参謀を拝命しました。
 上野の彰義隊討伐の軍議で長州の大村益次郎と対立。明治2年、大村が出張先の
 京都で暴徒に襲撃された(二カ月後に敗血症で死亡)際には、関与を疑われます。
 西南戦争時は病のため西郷軍とも官軍とも距離を置いています。後に明治政府に
 出仕。伊藤博文の命でヨーロッパに赴き、ドイツで法学者シュタインに師事した
 ほか、議会の仕組や法制度を学びました。西郷隆盛と橋本左内が密会したという
 のは、もしかしたら、有村俊斎こと海江田信義の聞き間違いという説が有力です。
 碑には有村雄助と次左衛門の名が刻されていますが、俊斎/海江田信義の名前が
 刻されていないのは、ちょっとかわいそうです。薩摩を代表する志士の一人です。

西郷隆盛 (1828-1877)誕生地:
 西郷隆盛関連の史跡は鹿児島市内のみならず、県内、さらには九州のあちこちに
 点在しています。言わずと知れた維新三傑の一人で、維新回天の中心的人物です。
 安政の大獄では僧・月照を守って帰国するも薩摩藩の庇護を受けられず共に入水、
 蘇生し、奄美大島に隠遁させられました。その後、いったん薩摩に戻りますが、
 国父・島津久光と折り合いが悪く、卒兵上京を計画し、下関で準備をするように
 という久光の命を無視して単身で上京、徳之島、沖永良部島に流刑となりました。
 その後許されて、禁門の変では長州軍と戦って敗走させ、第一次長州征討の際は
 長州との戦争を回避、勝海舟の影響を受けて雄藩同盟を意識し薩長同盟を締結、
 王政復古の際には徳川慶喜の側近である土佐前藩主・山内容堂を退け王政復古を
 実現させました。明治政府では参議・陸軍大将を拝命。廃藩置県や地租改正等を
 推進するも、明治6年の政変で下野。明治10年、西南戦争の中心人物となって
 政府軍を相手に九州各地を転戦するも。敗れて鹿児島の城山にて自刃しました。

西郷従道 (1843-1902)誕生地:
 西郷隆盛の三弟。幕末動乱の時代には志士として活動、寺田屋事件、薩英戦争に
 かかわりました。維新後は兄・隆盛には与せず、大久保利通の片腕として活躍し、
 西南戦争の折は官軍として兄・隆盛率いる鹿児島士族を鎮圧しました。西郷家の
 家来・熊吉が西郷隆盛の長男・菊次郎を連れて投降した際、彼らを庇護しました。
 後に農商務卿等を歴任。農商務卿時代には払い下げが内定していた富岡製糸場の
 存続を認可したエピソードは有名。富国強兵政策を推進するために尽力しました。
 ちなみに次兄・吉二郎は志士として留守にしがちの隆盛や従道に代わり、西郷の
 家を切り盛りしていましたが、戊辰の北越戦争に出征。長岡藩家老・河合継之助
 率いる長岡藩兵と戦い、戦死。また弟の小兵衛は、西南戦争で鹿児島士族として
 西郷隆盛に属して戦い、戦死しました。維新のために命を捧げた一家といえます。

大山巌 (1842-1916)誕生地:
 西郷隆盛や従道とは、いとこにあたります。幕末動乱の時代には志士として活動、
 寺田屋事件、薩英戦争にかかわりました。鳥羽伏見の戦いでは、耳を負傷するも
 ひるまず奮戦。会津戦争でも活躍しました。韮山代官・江川太郎左衛門に師事し、
 大砲の改良に功績があり、戊辰戦争では『弥助(巌の幼名)砲』として重宝され
 ました。しかし、会津戦争の際、初日の砲撃畤、鶴ヶ城から狙撃されて護送され、
 実際に指揮をとることはなかったといい、狙撃者は山本八重ともいわれています。
 維新後はヨーロッパに留学してヨーロッパ式の兵学を学び、西南戦争では故郷を
 敵に回して奮戦、日清・日露戦争でも活躍、公爵に昇りつめます。夫人は元会津
 藩士の陸軍少将・山川浩/帝国大学総長・健次郎の妹・捨松です。西郷従道とは
 終生仲がよかったようで、西郷隆盛の肖像画は上が従道、下が巌がモデルだとか。

川村純義 (1836-1904)誕生地:
 幕末の川村与十郎の名でも知られる純義は、西郷隆盛の母方のいとこ。安政年間
 には幕府が創設した長崎海軍伝習所で第一期生として学び、勝海舟、薩摩藩士で
 大阪発展のの恩人として知られる五代才助(友厚)、佐賀藩士で日本赤十字社の
 創始者・佐野常民等と机を並べました。その経歴から海軍畑で頭角を現し、戊辰
 戦争では薩摩藩四番隊長として活躍、会津戦争で奮戦しました。維新後は門閥の
 排斥を推進し、海軍整備に尽くしました。西南戦争では山県有朋とともに参軍を
 勤め、故郷を敵に回して鹿児島士族を鎮圧しました。これらの功績により、死後、
 海軍大将となりました。西南戦争の直接の原因は、中原尚雄による西郷隆盛暗殺
 計画の漏洩と、川村純義の命により太政官吏が商船を使って鹿児島の弾薬を持ち
 出そうとし、私学校党が奪還したこと等が絡み合ったため、とも言われています。


大久保利通 (1830-1878)誕生地:
 西郷隆盛の盟友、維新三傑の一人として知られる大久保利通は、西郷隆盛と同じ
 加治屋町で生まれ、同じ郷中(同じ町内の少年たちが参加した少年育成機関)で
 育成されました。父・利世が島津斉彬を擁立するお由良騒動で流刑に処されると
 貧窮し、西郷一家の援助を受けた話は有名です。西郷隆盛を盟主とする精忠組の
 №2として活動。藩主となった島津斉彬が亡くなると、その弟で藩主の父として
 国父の座についた最高決裁者・島津久光に接近。幕末の政局の中心近くに位置し、
 政治家としての基盤を整えてゆきます。公家の岩倉具視と連携して隠密裏に倒幕
 運動を推進しました。錦の御旗を考案したのは大久保という説もあります。明治
 政府では大蔵卿、内務卿となり、岩倉使節団の副使として渡航、近代日本の礎を
 築きました。明治6年の政変では西郷隆盛や佐賀の江藤新平と対立し、下野させ、
 佐賀の乱を起こした江藤新平率いる佐賀藩士族を鎮圧、西南戦争では西郷隆盛が
 率いる鹿児島士族を鎮圧しました。明治11年、不平士族により暗殺されました。

伊地知正治 (1828-1886)誕生地:
 薩摩藩の兵学者で軍師。戊辰戦争では土佐の板垣退助とともに、会津や新撰組と
 戦い、会津藩を降伏させました。維新後は左院議長、参議議長を拝命。新政府の
 至急した俸給が多いからと、返上したというエピソードのある、清廉な人でした。

吉井友実 (1828-1891)誕生地:
 西郷隆盛と親しかった吉井友実は、流刑中の西郷隆盛を励ましたエピソード等で
 知られています。薩摩藩の大坂藩邸留守居役や、大目付等の重職につき、各藩の
 志士と交流しました。禁門の変では御所を守って奮戦し、第一次長州征討では、
 西郷隆盛や税所篤と岩国に乗り込み、三家老の切腹を受け入れれば長州包囲網を
 解くと通告し、戦わずして征討軍を解体させました。維新後は官僚になりました。

村田新八 (1836-1877)誕生地:
 西郷隆盛に心酔し、精忠組のメンバーとして明治維新の動乱を経験。西郷隆盛が
 徳之島、沖永良部島に流刑となった際には喜界島に流されましたが、後に許され
 戊辰戦争などで活躍しました。学問に長じ、大久保利通の後継者と期待されるも
 明治6年の政変で下野しました。私学校の創設に参加、砲兵学校を監督しました。
 西南戦争では二番大隊長として奮戦するも、城山が陥落した際に、自刃しました。

篠原国幹 (1837-1877)誕生地:
 西郷隆盛に心酔し、戊辰戦争などで活躍。明治6年の政変(征韓論がらみ)では
 下野し、私学校の創設に参加、幼年学校を監督。西南戦争では一番大隊長として
 熊本鎮台攻防戦などで奮戦しましたが、官軍兵士に狙撃されて、戦死しました。

樺山資紀 (1837-1922)誕生地:
 樺山資紀は薩英戦争が初陣、その後戊辰戦争で転戦、台湾出兵にも従軍しました。
 西南戦争では、熊本鎮台司令長官・谷干城少将のもとで奮戦し、西郷軍を撃破。
 薩長藩閥を称える蛮勇演説を行い、有名になりました。後、海軍大将になります。

黒田清隆 (1840-1900)誕生地:
 幕末には薩摩藩の連絡将校のような役割を拝命、土佐の坂本龍馬、中岡慎太郎、
 長州の井上馨、伊藤博文、品川弥二郎の間を往来し、薩長同盟に尽力しました。
 戊辰戦争では、函館戦争の陸軍参謀を拝命。五稜郭落城後は、蝦夷共和国(異説
 アリ)総裁・榎本武揚をはじめ敗残者の助命に尽力しました。後に北海道開拓に
 力を尽くし、第二代内閣総理大臣となりました。榎本軍の回天丸による、官軍の
 旗艦・甲鉄艦奪取作戦(アボルダージュ)をいち早く見抜いて、東郷平八郎等を
 指揮して奮戦し、宮古湾から土方歳三等を撤退させるなど、軍人としての才能も
 ありました。酒乱でなければ・・・と言われるほど、酒の失敗が多い人でした。

黒木為禎 (1844-1923)誕生地:
 明治の陸軍大将・黒木為禎も、加治屋町の出身です。天保14年生まれなので、
 西郷隆盛より16歳年下です。黒木が維新史の表舞台に登場するのは鳥羽伏見の
 戦いです。薩摩隼人を絵にかいたような軍人であったと人々に記憶されています。

井上良馨 (1845-1929)誕生地:
 元帥海軍大将・井上良馨もまた、加治屋町の出身です。黒木為禎大将よりも一歳、
 年下ですが、維新史への登場は薩英戦争です。イギリス軍の砲弾の破片によって
 負傷し、かえってイギリスの国力に興味を持ち、陸軍畑から海軍畑に鞍替えした
 異色の人物です。以降、春日艦の小頭を拝命し、慶応四年1月には、榎本武揚が
 率いる幕府艦隊と阿波沖海戦で戦い、その後、宮古湾海戦で土方歳三が指揮する
 回天丸に襲われた甲鉄艦(ストーンウォールジャクソン)を春日艦から援護して
 回天艦長・甲賀源吾や新撰組・野村利三郎を討ち取りました。この時、春日艦に
 東郷平八郎も乗船していました。函館戦争の後、日露戦争まで、活躍をしました。

東郷平八郎 (1848-1934)誕生地:
 東郷平八郎も加治屋町の出身です。彼は1848年生まれなので黒木、井上より
 も年下です。彼の初陣も薩英戦争でした。彼も井上良馨と同じく、春日艦の見習
 士官となり、阿波沖海戦、宮古湾海戦、函館戦争、日清戦争、日露戦争で活躍し、
 元帥海軍大将にまで上りつめました。彼はイギリスへの留学経験がありますが、
 初め大久保利通に頼んだら断られ、西郷どんに許可を貰ったと言われています。

山本権兵衛 (1852-1933)誕生地:
 後に総理大臣となった山本権兵衛もまた、加治屋町の出身です。彼はペリー来航
 一年前に生まれたので、幕末の動乱時代に少年期を過ごしました。日清戦争及び
 日露戦争では大本営で総指揮をとりました。西郷隆盛が明治6年の政変に敗れて
 薩摩に戻った後、官を辞して鹿児島に帰りましたが、西郷どんに説得されて戻り、
 川村純義に謝罪し政府に復帰しました。外務大臣も務め、政治でも活躍しました。

 このほか、加治屋町/高麗町出身の偉人たちには:
 ・・家老として、慶応3年パリ万国博覧会に『日本薩摩琉球国太守政府』という名で
   8名の使節を率いて参加、王政復古の大号令に立ち会った岩下方平(1827-1900)
 ・・精忠組のNo.3として幕末の薩摩藩を牽引、禁門の変では被弾しながら奮戦、国司
   信濃軍を撃破、第一次長州征討では戦わず征討を完了させた税所篤(1827-1910)
 等がいました。

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<磯地区>
仙巌園:
 仙巌園は、島津家の別邸跡であり、庭園の『磯庭園』の名でも知られています。
 桜島を築山に、錦江湾を池に見立てた借景技法の庭園の傑作です。名勝に指定。
 幕末、島津斉彬が敷地内に反射炉を作り、ヨーロッパ式製鉄所やガラス工場を
 建設し、集成館事業を起業。日本初のガス灯は、ここで生まれたといいます。
 錫門、磯御殿、反射炉跡、鉄製150听砲、獅子乗大石灯篭、鶴灯篭があります。

反射炉跡:
 壮絶きわまりないお家騒動「お由良騒動」の末、嘉永4年に藩主となった島津
 斉彬は、殖産興業に取り組み、磯地区に工業地帯を築き、集成館事業を開始。
 仙巖園の入口あたりに反射炉を建造し、大量の銑鉄を溶解させ、鋳型に流し、
 大砲の砲身を造る施設としました。度重なる失敗は薩摩藩の経済を圧迫するも
 安政4年に二号炉が完成しました。現在は二号炉の基壇部分が残っています。

尚古集成館:
 ユネスコの世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭
 産業」を構成する「旧集成館」の機械工場として世界遺産に登録されています。
 薩摩切子や薩摩焼等を展示する博物館ですが、建物は1865年(元治2年~
 慶応元年)に機械工場として竣工した集成館のもので、国の重要文化財です。
 本館部分は、3つの展示場に分かれ、反射炉の模型なども常設されています。

電信の碑:
 島津斉彬は、蘭学者や家臣に、電気に関する研究を行わせ、電信機製造を命じ、
 鶴丸城の本丸と二の丸間に600mの電線を敷き、通信実験を成功させました。

旧鹿児島紡績所技師館(異人館):
 慶応3年、鹿児島紡績所建設と操業のために、イギリスから招聘された七名の
 技師達の宿舎として竣工。技師たちが帰国すると大砲製造支配所になりました。

鹿児島紡績所跡:
 薩摩藩英国留学生を引率した新納久脩と五代友厚は、イギリスで紡績の機械を
 買い入れ、技師を招聘して帰国。日本で最初の近代的紡績工場を開設しました。

祇園之洲砲台跡:
 薩英戦争の際に使用された砲台の一つ。80听カノン砲をはじめ、6門の砲が
 置かれていました。イギリス艦隊の艦砲射撃により、祇園之洲は沈黙しました。

薩英戦争記念碑:
 文久3年6月、イギリス艦隊7隻が錦江湾に来航し、生麦事件の責任の所在に
 ついて交渉し、決裂。薩英戦争が勃発。薩英戦争を記念するモニュメントです。

東郷平八郎銅像/東郷平八郎遺髪墓:
 祇園之洲砲台跡の背後の多賀山に、薩英戦争で初陣を飾り、日露戦争の日本海
 海戦でロシアのバルチック艦隊をやぶった東郷元帥の像と遺髪塚があります。

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<埠頭地区>
開成所跡:
 元治元年6月、科学や近代軍事に携わる人材を育成するために建てられた学校。
 島津斉彬の近代化政策の一環であり、学生たちは陸海軍砲術、航海術、兵法、
 地理、測量、医学と多岐にわたり、多くの人材がここで学びました。それほど
 近代化に貢献しながら、正確な場所は不明です。遺跡を示す石碑と、郵便制度
 創設者である前島密のモニュメントである赤いポストがあるあたりと言います。

五代友厚 (1836-1885) 銅像:
 五代友厚は、薩英戦争の際、松木弘安(寺島宗則)と共に船奉行の添役として
 汽船の避難の任にあたっていましたが、イギリス軍の捕虜になってしまいます。
 この際、イギリス海軍、イギリスの国力に触れた五代や松木は、国父・久光に
 留学生派遣の急務を訴え、認められ、薩摩藩英国留学生を引率して渡英します。
 維新後は近代化普及に努め、大坂の近代化を図り、大阪の恩人と呼ばれました。

坂本龍馬 (1836-1867) 新婚の碑:
 盟友・中岡慎太郎とともに薩長同盟に尽力し、宿舎であった伏見寺田屋を幕府
 の捕吏に襲撃され負傷した坂本龍馬は、妻・お龍を伴い、薩摩に身を隠します。
 天保山町の甲突川の河口に、坂本龍馬とお龍夫妻の銅像と台座である記念碑が
 建てられています。坂本は朝敵となったため、武器を入手できない長州のため、
 薩摩藩の御用として武器を買い入れ、長州に流し、幕長戦争に貢献しました。

天保山砲台跡:
 薩英戦争の開戦の口火を切った場所。80听爆砲をはじめ大砲11門を有する
 砲台で、生麦事件の責任者の引き渡しを求めるイギリスは交渉を有利に進める
 ため、汽船三隻を拿捕しますが、これを宣戦布告と判断した薩摩藩側が天保山
 砲台から砲撃を開始しました。イギリスは汽船三隻を桜島小池沖にて焼却し、
 錦江湾の奥に退避、体制を立て直し、薩摩藩の各砲台に艦砲射撃を加えました。

新波止砲台跡:
 150听爆砲1門、80听爆砲1門をはじめ、大砲11門を装備した砲台です。
 ここからの砲撃が旗艦ユーリアラス号に命中、イギリスも大損害を被りました。

大門口砲台跡:
 薩英戦争時、36听爆砲3門、20ドイム臼砲1門、野戦砲4門がありました。
 嘉永6年、沿岸防備のために斉彬が築いた砲台で、キスト砲架という、当時の
 最新技術で作り方られた砲架は、横向きの移動が可能であり、移動する軍艦を
 追尾しながら砲撃することができました。旧式の砲台を想定したイギリス軍も
 薩摩藩の想定外の善戦に驚き、急速に薩摩藩に接近してゆくことになります。

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<城西地区>
千眼寺跡:
 文久3年の薩英戦争では、海からの砲撃を警戒、海に近い鶴丸城を本陣とせず、
 ここに本陣が置かれました。国父・島津久光と藩主・島津忠義の親子はここで
 薩摩藩軍の指揮をとりました。慶応2年に廃寺となり、建物の一部が磯地区に
 移築され、イギリス人技師の仮宿舎として利用しました。もともとは島津家の
 第25代当主・島津重豪が荒田村から移管したお寺で、黄檗宗の名刹でした。

小松帯刀 (1835-1870) 原良別邸:
 鹿児島城下の西の山手に位置する原良には家老・小松帯刀の別邸がありました。
 慶応元年と2年に、薩摩を訪れた坂本龍馬は、小松帯刀別邸に滞在しました。

西郷家墓地:
 常盤2丁目の薬師保育園付近に西郷家の先祖の墓地があります。西郷どん兄弟
 姉妹の両親(吉兵衛・まさ)のお墓をはじめ23基が、ここの墓地にあります。


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<鶴丸城/城山付近>

鶴丸城跡:
 関ケ原の戦いの2年後、慶長7年に島津家第十八代当主・島津家久により築城。
 集成館事業としては、製錬所(開物館)に反射炉のひな型が造られ、反射炉の
 実験が行われました。明治6年に本丸が焼失、西南戦争では二の丸殿舎も焼失、
 その後は第七高等学校が置かれました。西南戦争に出征する薩摩の将兵は城に
 一礼し、50年ぶりの大雪が降る中、東京に向けて進軍したと言われています。

天璋院篤姫 (1836-1883) 像:
 天璋院篤姫は、島津家の分家である今泉島津家の島津忠剛の娘として生まれ、
 島津斉彬や島津久光のいとこです。島津斉彬の養女になり、近衛忠煕の養女を
 経て、江戸幕府第十三代将軍・徳川家定に嫁ぎます。その目的は、次代将軍に
 一橋慶喜(のちの十五代将軍・徳川慶喜)を推して、外様・薩摩藩に発言権を
 得るためでしたが家定、斉彬が相次いで病死、十四代将軍・徳川家茂の養母と
 して京都から嫁いできた和宮との関係に苦しみ、揚げ句、江戸城総攻撃の際に
 故郷の薩摩に江戸に攻め込まれる等、決して幸せな結婚ではなかったようです。
 江戸幕府滅亡の際には、徳川の家名存続のため、和宮とともに尽力しました。

照国神社:
 照国神社は、幕末の藩主・島津斉彬(照国大明神)を祀る神社で、島津斉彬像、
 島津久光像、久光の子で斉彬の次の藩主となった島津忠義像などがあります。
 西郷隆盛は、薩摩の下級武士の家に生まれ、郡方書役という農村の実情調査の
 ような仕事をしていましたが、島津斉彬に見出されて御庭方役(斉彬の秘書の
 ような役目)に抜擢され、篤姫の輿入れ、他藩の藩士との交流等に尽力したと
 言われています。西郷隆盛が志士として活動するきっかけとなりました。斉彬
 急死後、流謫や流刑などで西郷隆盛は不遇を囲いますが、やがて幕末の政局の
 中心人物となってゆきます。国父・島津久光とはそりが合わなかったそうです。

幼年学校跡碑:
 照国神社の境内に、西郷どんが設立した士官養成学校の遺跡の碑があります。
 篠原国幹が監督となり、漢学や洋学等を教え、外国への留学制度もありました。

小松帯刀像:
 小松帯刀は喜入の領主・肝付家に生まれ、吉利の領主・小松清猷の養子となり、
 島津久光に抜擢され、藩政に貢献。その功績で家老となりました。薩長同盟も
 倒幕も、精忠組の志士たちだけの才覚で成し遂げることは到底不可能であり、
 家老の小松帯刀や桂久武の承認・決済なしには行えなかったと考えられます。
 維新後は版籍奉還の実現に向けて尽力しましたが、明治3年に病死しました。

西郷隆盛銅像:
 鹿児島市立美術館の一角に、忠犬ハチ公の像を作った郷土の彫刻家・安藤照が
 8年かけて作り、昭和12年に除幕された陸軍大将の正装をした像が建ちます。

座禅の森と座禅石:
 西郷隆盛や大久保利通などの精忠組の面々が修行した、誓光寺の庭にあった石。
 この石の上で、若い志士たちは座禅を組み、修練に励んだと伝わっています。

私学校跡:
 明治6年の政変で下野した西郷隆盛は鹿児島に帰郷し、貧窮した士族の救済や、
 若者の育成を目的に、私学校を設立します。私学校は、鹿児島の鶴丸城の厩跡に
 建てられました。設立には西郷隆盛の賞典禄2000石、大山綱良の800石、
 桐野利秋の200石が供出された他、あまり知られていませんが、政府の大久保
 利通も1800石を供出しています。あくまでも当初の設立の目的は不平士族の
 発生と、その暴発を防ぐことであったことが伺われます。私学校には「幼年学校」
 「銃隊学校」「砲隊学校」の三校が置かれ、地方には、分校も設置されました。
 入学資格は、城下士(郷士。お城に出仕する資格がなかった下級武士)の子弟に
 限られていたといいます。大警視・川路利良が西郷党を視察するため中原尚雄を
 送り込んだこと、川村純義が火薬庫の弾薬を鹿児島から持ち去ろうとしたこと、
 疑心暗鬼がやがて私学校の徒の暴発に繋がり、西南戦争へと向かってゆきます。

城山:
 西南戦争末期、政府軍(官軍)の追跡を躱した西郷隆盛、桂久武(元・家老)、
 桐野利秋、村田新八、別府晋介、辺見十郎太、池上四郎ら薩摩軍将兵は城山に
 籠りました。明治10年9月24日午前4時を期して、政府軍参軍の山県有朋、
 川村純義(西郷隆盛の従弟)は城山総攻撃を命じました。西郷隆盛以下将兵は、
 岩崎口に向けて進軍を開始するも、島津応吉久能邸門前で西郷隆盛は被弾し、
 ついに別府晋介に介錯を命じました。元・警察官で、裁判で政府と戦うべしと
 投降した野村忍介等によって、ことごとく戦死あるいは自刃という、薩摩軍の
 将兵の壮絶な最後が語られることになります。城山とその周辺には西郷洞窟や、
 西郷隆盛終焉の地があります。幕末期は“人斬りはじめ半次郎”と呼ばれた桐野利秋も、
 探究心があり、人望もあり、将来を嘱望された村田新八も、ここに斃れました。
 奄美大島代官時代、西郷の妻(愛加那)や子を支援した桂久武も戦死しました。

西郷隆盛洞窟:
 西南戦争末期、政府軍に追い詰められた西郷軍将兵が明治10年9月19日~
 24日未明、起居した洞窟で、奥行き4m、幅3m、高さ2.5mあります。

西郷隆盛終焉の地:
 政府軍に城山を包囲され、追い込まれた西郷軍は、明治10年9月24日未明、
 岩崎谷に向け下山。まず、桂久武が被弾して戦死。谷の入口付近まで来たとき、
 西郷隆盛も被弾、動くことができなくなりました。西郷隆盛は負傷して駕籠に
 乗っていた別府晋介に「晋どん、もうここでよか」と介錯を命じました。別府
 晋介は「ごめんやったもんせ」と叫び、西郷隆盛の首を落としたといいます。


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<上町地区>

浄光明寺跡:
 島津家の始祖の惟宗忠久(これむね・の・ただひさ)十三回忌に建立された寺。
 薩英戦争で焼失、再建されましたが、明治初年の廃仏毀釈で廃寺となりました。

南洲墓地(西南戦争で戦没した薩摩軍将兵の墓地):
 西郷隆盛をはじめ、桂久武、桐野利秋、村田新八、別府晋介などの墓が並んで
 います。中津隊の増田宋太郎は、福沢諭吉のいとこです。また、鹿児島県令と
 して私学校設立を援助し、西南戦争の薩摩軍を支援した大山綱良は、長崎にて
 斬首刑に処されましたが、彼の墓もここにあります。大山綱良は高麗町出身で、
 幕末には大山格之助の名で知られた人物で、戊辰戦争では下参謀も勤めました。
 西南戦争で戦死あるいは自刃した将兵2000人ほどの墓碑が並んでいますが、
 征韓論反対を盾に、西郷隆盛等を追い込んでいった明治政府が、やがて、日清・
 日露と、外征してゆくという皮肉を、彼等はどのように感じているでしょうか・・

福昌寺跡/島津斉彬墓・島津久光墓:
 現在の池之上町には島津家の菩提寺であった福昌寺がありましたが、明治2年
 廃仏毀釈によって廃寺となりました。島津斉彬・久光兄弟の墓が残っています。

興国寺墓地/長澤鼎墓・新納久脩墓:
 福昌寺の末寺であった興国寺も、廃寺となりましたが、墓地が残っています。
 ①長澤鼎: 薩摩藩英国留学生の一員として渡英。イギリスでの留学を終えた
  後、アメリカに渡り、カリフォルニアでワイナリーを成功させた人物です。
 ②新納久脩: 薩英戦争で軍役奉行として活躍。その後、薩摩藩英国留学生を
  引率して渡英。帰国後は家老に昇進。開成所を所管し、教育に尽力しました。

大乗院坊中威光院跡:
 禁門の変に生徒が加わって幕府と戦ったために、神戸海軍操練所は閉鎖され、
 同時に各藩藩士や浪士に海軍を教えていた勝安房守の海軍塾も閉鎖されました。
 行き場を失った坂本龍馬や陸奥宗光等の浪士達は薩摩藩に保護され、蒸気船で
 鹿児島に入りました。現在の清水中学校に坂本龍馬等が宿舎としていた大乗院
 防中の威光院の遺構が残っています。もともと大乗院は島津氏の祈願所でした。

森有礼 (1847-1889) 誕生地:
 森有礼は17歳のとき薩摩藩英国留学生の一員として渡英、留学後はロシア、
 アメリカにも渡り、学びました。帰国後は新政府に参加し、活躍しましたが、
 「廃刀論」を掲げ、免職。その後アメリカに駐在、明治6年には福沢諭吉等と
 明六社を作り、啓蒙運動を展開。初代文部大臣に就任し、学校制度改革に尽力。
 大日本帝国憲法発布の日に、自宅で刺客に襲撃され、翌日、亡くなりました。

伊東祐亨 (1843-1914) 元帥誕生地碑:
 薩英戦争には21歳で戦闘に参加。イギリスの国力を痛感した伊東は、海軍を
 志して勝安房守の神戸海軍操練所に入り、その後、江川太郎左衛門には砲術を
 学びました。庄内藩による江戸薩摩屋敷焼き討ちの際には、危うく難を逃れて
 翔鳳丸に乗船、砲手として幕府軍艦・回天丸と戦い、阿波沖海戦では春日丸に
 乗船し、開陽丸とも戦いました。日清・日露で活躍し、元帥に昇りつめました。

五代友厚 (1836-1885) 誕生地:
 江戸幕府が長崎海軍伝習所を開設すると、そこで川村純義らと共に学びました。
 文久2年の幕府が上海に派遣した使節に参加を希望しますが断られて、水夫と
 なって千歳丸に乗り込み、上海に渡航し、イギリスに圧迫される清国の国情を
 見て帰国(その渡航では、長州の高杉晋作や佐賀の中牟田倉之助も一緒でした)。
 その後は薩摩藩の近代化に尽力、薩摩藩英国留学生を引率し、渡英し、欧州を
 視察しました。明治維新後は大阪商法会議所の初代会頭となり、大坂の近代化
 推進に尽力し、「近代大阪の父」と称えられました。NHKの連続テレビ小説
 「あさが来た」で劇中に登場し、五代友厚の知名度が一気にアップしました。

赤倉病院跡:
 イギリスの医師ウィリアム・ウィリスは文久2年に来日。第二次東禅寺事件に
 遭遇。その後、生麦事件で落命したリチャードソンの検死を行い、薩英戦争で
 負傷したイギリス将兵の治療にあたり、薩摩藩と深く関わります。島津久光に
 招かれ、イギリスと薩摩藩の友好関係構築に尽力。第十五代将軍・徳川慶喜に
 拝謁、英国公使パークスが参内の途上で刺客(朱雀操・三枝蓊)に襲われた際、
 負傷者を手当てし、幕末の様々な事件に直接、係った外国人としても知られて
 います。戊辰戦争では敵味方の区別なく将兵を治療し、日本に赤十字の精神を
 教えたと言われています。その後、薩摩に渡って医学生育成に尽力しました。

西郷南洲顕彰館:
 上竜尾町に、西郷隆盛をはじめ、明治維新の際に活躍した先覚者たちを顕彰し、
 その偉業を伝える資料館があります。西郷どんの遺品やジオラマ等があります。

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松方正義 (1835-1924) 誕生地/松方正義銅像:
 大蔵大臣を七度、内閣総理大臣を二度、日本銀行を設立、金本位制を確立した
 松方正義は幼少の頃両親を失い、貧困に喘ぐ少年時代を送りますが、嘉永3年
 勘定所出物問合方に出仕、大番頭座書役となり、島津久光の側近として頭角を
 現し、生麦事件や寺田屋事件にも関与しました。慶応3年には長崎に派遣され、
 動乱に備え軍艦や武器の購入に活躍しました。下級武士から大抜擢されたため、
 また、いわゆる勤王志士として活動しなかったため、志士あがりの明治政府の
 顕官たちに軽んじられるところがありましたが、財政で力を発揮し、維新後の
 功績だけで従一位・公爵・明治の元勲にまで昇りつめたことで知られています。


三方限出身名士顕彰碑:
 高麗町、上之園、上荒田の三方限は、加治屋町と並んで幕末~明治維新にかけ
 活躍した偉人を多く輩出したため、昭和10年には顕彰碑が建てられました。
 かつては、偉人たちの家38軒を示す銅板がありましたが、失われてしまい、
 現在、高麗町に建つ三方限出身名士顕彰碑に偉人たちの名前が刻されています。
 三方限出身名士の一覧は下記の通りです。全部で48人の名が確認できます。
  西郷隆盛/西郷小兵衛/伊地知幸助/高島鞆之助/渕辺高照/
  伊集院兼寛/長澤鼎/奈良原繁/井上良馨/関勇助/
  河野圭一郎/田中十太郎/町田次郎四郎/岩元平八郎/永山弥一郎/
  辺見十郎太/西郷吉次郎/大久保利通/篠原国幹/吉井友実
  松永清之丞/吉田清成/山沢静吾/種子田左門/野津鎮雄
  有村雄助/伊集院彦吉/仁礼景範/中原猶介/山之内一次
  法亢宇佐衛門/山之内作次郎/西郷従道/伊地知正治/三島通庸
  大山綱良/讃良清蔵/江夏仲左衛門/奈良原喜左衛門/山口金之進
  野津道貫/有村次左衛門/益満行靖/川村純義/浅江直之進
  西寛二郎/辺見仲太/有馬一郎

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松元地区

有馬新七 (1825-1862) 居宅跡:
 有馬新七は現在の日置市伊集院町で誕生しました。父が城下士の有馬氏の養子に
 なったため、ともに加治屋町に引っ越してきました。万延元年に、石谷の領主・
 町田久成に招かれた有馬新七は、石谷奉行としてこの地に赴任し、二年あまりを
 この地で居住しました。精忠組の中心人物として若者を牽引しましたが、寺田屋
 事件では藩が派遣した鎮撫使と刃を交え、道島五郎兵衛を道連れに死亡しました。


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<喜入>

伊牟田尚平 (1832-1868) 誕生地:
 小松帯刀の実父である、喜入領主・肝付兼善の家臣で、15歳で鹿児島城下に出、
 医学を学び、後に長崎で蘭学を修めましたが、その後は攘夷運動に身を投じます。
 一度は喜界島に遠島になりますが、薩摩藩に復帰。慶応3年に西郷どんの密命を
 受け、益満休之助や、相楽総三らと、江戸市中を荒らしまわり、庄内藩等による
 薩摩屋敷焼き討ちを起こし、倒幕の大義名分を得ることに成功しました。しかし、
 京都や大津で頻発していた辻斬りが、尚平の部下であったということが判明して、
 その責任を負わされるという形で、京都の二本松薩摩藩程で自刃させられました。
 医学、蘭学まで修めた伊牟田尚平の、あまりにも悲惨な転落人生と最期でした。



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月照 (1813-1858) 遺跡:
 月照は京都の清水寺成就院の住職。将軍継嗣問題で一橋慶喜派のために便宜を
 図った為、安政の大獄では危険人物とみなされ、京都にいられなくなりました。
 西郷隆盛の手引きで薩摩に逃れようとしますが、薩摩では幕府に対する恭順を
 藩是としていたので、幕府のお尋ね者であった月照をかくまうことができず、
 『日向送り』すわなち日向国の国境で斬られることになり、西郷隆盛が、その
 役目を負うこととなりました。西郷隆盛は月照を抱えて入水しますが、月照は
 落命、西郷隆盛は蘇生、その後、西郷隆盛は奄美大島に身を隠す事になります。
 ①金生町 月照上人遺跡之碑: 月照が日向送りになるまで軟禁された俵屋跡
 ②吉野町 西郷隆盛蘇生の家: 福岡藩士平野國臣等が両名を担ぎ込んだ漁家
 ③吉野町 月照上人遷化之碑: 月照が西郷と共に入水した地に建っています
 ④吉野町 月照上人の追悼碑: 蘇生の家の近くにある、落命した月照追悼碑
 ⑤南林寺町 月照上人の墓: 南林寺町の由緒墓の隣に月照上人墓があります

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<吉野・吉田地区>:

桐野利秋 (1838-1877) 誕生地:
 桐野利秋は幕末時代は中村半次郎という名で活躍しました。その剣豪ぶりから
 『人斬り半次郎』と呼ばれていました。薩摩藩の軍事顧問であった上田藩士で
 兵学者の赤松小三郎を京都で斬殺しました。戊辰戦争では会津・鶴ヶ城の受け
 取りを見事につとめ、後に陸軍少将になります。西郷どんに心酔、明治6年の
 政変では西郷隆盛とともに下野。鹿児島で後進の指導に当たりましたが、西南
 戦争の城山総攻撃の際に戦死しました。京都で活躍していた頃は日誌を残し、
 読み書きの素養があり、無学・文盲であったというのは誤りです。お洒落で、
 フランスのブランド服を好み、香水を愛用していたことでも知られています。

桐野利秋田蘆跡:
 明治6年の政変に敗れ、西郷どんとともに下野し、鹿児島に戻った桐野利秋は、
 この地を開墾しました。明治7年、佐賀の乱を起こした江藤新平は西郷隆盛と
 山川で、その後、吉田で桐野利秋と密会しました。潜伏を進めた利秋でしたが
 江藤は固辞し、薩摩を去りました。江藤の弟子・徳久幸次郎と石井竹之助は、
 この吉田の地にとどまりました。後に共に西南戦争に従軍し、戦死しました。

別府晋介 (1847-1877) 誕生地:
 西南戦争が描かれる映画がドラマで、西郷どんが被弾した際に介錯を命じられ、
 刀を振り上げ「ごめんやったもんせ。チェストー!」と振り下ろすあの人物。
 禁門の変で久坂玄瑞と刺し違える寺島忠三郎と並んで「名前は知らないけど、
 あの人」と言われてしまう人物。それが別府晋介です。実は桐野利秋のいとこ。
 戊辰戦争では部隊長として奥羽で活躍し、征韓論が起こると朝鮮半島に渡り、
 現地事情を視察して西郷隆盛に報告しました。明治6年の政変で下野し、西南
 戦争の城山総攻撃の際に西郷隆盛の介錯をした後、自刃しました。西郷隆盛の
 介錯をする直前までは、負傷のために、駕籠に乗っていたと言われています。

駄馬落の跡(積荷は唐芋、曳き手は西郷南洲翁):
 西郷隆盛が吉野開墾地から馬を曳いて帰る途中、サツマイモを積んでいた馬が
 突然、下の畑に落ちて、途方に暮れた場所。()内の文字が刻まれています。

南洲翁開墾地遺跡碑:
 明治6年の政変で下野し、鹿児島に戻った西郷隆盛は、この地に開墾地を作り、
 陸軍教導宇団の100名を含む生徒たちと昼は開墾、夜は学問に励みました。

鹿児島師範学校寺山修練道場跡碑/南洲翁愛馬塚の碑:
 寺山ふれあい公園バス停付近に寺山修練道場跡の碑があります。そこから寺山
 入口に向かって右の荒畑に開墾中に急死した西郷隆盛の愛馬の墓碑があります。



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時標1「イギリス艦、鹿児島湾に現る」(西千石町/加治屋町交差点):
 ・・大山巌/西郷従道/山本権兵衛
 ※生麦事件に端を発した薩英戦争。鹿児島湾(錦江湾)にイギリスの軍艦が姿を
  現したとの報せを受け、港に駆けつける大山巌、西郷従道、山本権兵衛の群像

時標2「樺山、黒田、大いに語る」(西千石町/高見馬場交差点):
 ・・樺山資紀/黒田清隆
 ※将軍継嗣問題で、井伊直弼を首班とする徳川慶福を推す南紀派と、一橋慶喜を
  推す島津斉彬等の一橋派が争い、島津家中の若い薩摩藩士たちも日本の将来に
  ついて語り合いました。若き薩摩藩士を代表する樺山資紀と黒田清隆の像です。

時標3「黒田清輝、桜島の噴火を描く」(東千石町/商工会議所ビル前):
 ・・黒田清輝/山下兼秀
 ※黒田清輝は薩摩藩士の子に生まれ、画家として名を残しました。この群像は、
  桜島の噴火のようすを心配そうに眺める黒田清輝と弟子・山下兼秀の像です。

時標4「龍馬、お龍と薩摩でひと休み」(大黒町):
 ・・坂本龍馬/坂本龍馬の妻・お龍
 ※薩長同盟を締結させることに尽力した坂本龍馬は、伏見寺田屋で幕吏に襲われ
  負傷し、妻・お龍を伴い、薩摩に身を寄せました。これが日本初の新婚旅行と
  言われています。霧島の天の逆鉾を引き抜いたエピソードはこの時のものです。

時標5「重豪、薩摩の科学技術の礎を築く」(東千石町/天文館・ぴらもーるアーケード):
 ・・島津重豪/水間良実
 ※薩摩の近代化を最初に思い描いたのは島津重豪だったかもしれません。蘭癖と
  言われるほど、西洋文明に憧憬を描いた重豪と家臣で弟子の水間良実の像です。

時標6「伊地知、吉井、政変について語る」(山下町/中央公園南側):
 ・・伊地知正治/吉井友実
 ※桜田門外の変によって幕府の権威も弱まりつつある時期、今後の日本について
  考える人が増えてきました。後に明治政府で活躍する伊地知正治や吉井友実像。
  伊地知正治は軍師として戊辰戦争で活躍、吉井友実は西郷どんの親友の一人。

時標7「ウィリス、高木に西洋医学を説く」(山下町):
 ・・ウィリアム・ウィリス、高木兼寛
 ※明治2年、江戸から薩摩に招聘された医師・ウィリアム・ウィリスは鹿児島で
  後進育成に力を尽くしました。後に東京慈恵会医科大学を創設する高木兼寛も
  ウィリアム・ウィリスが育てた門人の一人です。二人の会話を交わす像です。


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若き薩摩の群像:
 薩英戦争でイギリスの国力を思い知った薩摩藩は、志ある若者をイギリスに送り、
 西洋文明や洋学を学ばせました。若き薩摩の群像は、その時の17人の群像です。
 昭和57年3月に建てら像の高さは12.1m(台座部分9.49m)。中村晋也作。
 イギリスに3名の使節と15名の留学生、通訳1名の計19名が派遣されました。
 19名のうち、薩摩藩士出身の17人は銅像になっています。数えてみましょう。
 <使節・引率者3名>
  新納刑部(久脩)
  松木弘安(寺島宗則)
  五代才助(五代友厚)
 <留学生15名>
  畠山丈之助(義成)
  町田民部(久成)
  町田申四郎(小松清緝)
  町田清蔵(財部実行)
  磯永彦輔(長澤鼎)
  森金之丞(有礼)
  市来勘十郎(松村淳蔵)
  鮫島尚信
  吉田巳次(吉田清成)
  村橋直衛(村橋久成)
  田中静洲(朝倉盛明)
  東郷愛之進
  中村宗見(博愛)
  名越平馬(時成)
 ※17名の薩摩藩士は銅像になりましたが、ほかに二名が渡航しています。
 ・・高見弥一(大石団蔵)※留学生/土佐藩出身
  土佐の郷士で、土佐勤王党に参加。参政・吉田東洋を暗殺して薩摩に逃れて、
  亡命。薩摩藩士・奈良原家の猶子となり、留学生のメンバーに加わりました。
 <通詞>
 ・・堀 宗次郎(堀孝之)/長崎出身

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維新胎動の地・鹿児島

 
鹿児島に3泊4日します。


◎集 合: 2018年09月22日(土) 14:30 鹿児島中央駅の改札口に集合!

◎代 金: お問い合わせ下さい

◎経 路: 鹿児島中央までの経路に関しては、お問い合わせ下さい。

◎コース: 鹿児島市内は公共交通機関で移動し、各観光スポットは徒歩で周ります。

◎宿 泊: 当プログラムでは、鹿児島市内のホテルまたは旅館に宿泊。

◎食 事: 鹿児島中央駅到着日の夕食から<朝食6回/昼食6回/夕食6回>
        鹿児島のソウルフードを主体にした昼食もおたのしみに!


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<01日目>09月22日(土)
■行程: 日本各地→鹿児島中央駅(例は下記のスケジュールをご参照ください)→鹿児島
・・移動: ご自身でJR東萩駅にお越し下さい。
 2018年10のスケジュール(運航スケジュールは予告なく変更になる場合もあります)

のぞみ11
 07:30  東京
 07:37  品川
 07:49  新横浜
 09:13  名古屋
 09:50  京都
 10:03  新大阪

さくら551
 10:08  新大阪
 10:22  新神戸
 10:55  岡山
 11:12  福山
 11:35  広島
 12:06  新山口
 12:26  小倉
 12:43  博多
 12:57  新鳥栖
 13:02  久留米
 13:23  熊本
 13:58  川内
 14:09  鹿児島中央

・・集合: 
鹿児島中央駅改札に14:30
*誘導: 鹿児島中央駅からホテルまでは公共交通機関でご案内致します。
*夕食: ローカル食堂
*宿泊: ホテル または 旅館
     ・ チサンイン鹿児島谷山
     ・ 鹿児島ワシントンホテル・プラザ
     ・ 鹿児島東急REIホテル
     ・ ドーミー・イン鹿児島
     ・ アパホテル鹿児島天文館
     ・ アパホテル鹿児島中央駅前
     ・ 鹿児島サンロイヤルホテル

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<02日目>09月23日(日)
■行程: 鹿児島【明治維新150年】
*朝食: ホテル または 旅館

*観光: 午前、鹿児島市内の徒歩観光
<テーマ1: 月照遺跡と吉野地区の偉人史跡>
月照 (1813-1858) 遺跡:
 ①
金生町 月照上人遺跡之碑: 月照が日向送りになるまで軟禁された俵屋跡
 ②
吉野町 西郷隆盛蘇生の家: 福岡藩士平野國臣等が両名を担ぎ込んだ漁家
 ③
吉野町 月照上人遷化之碑: 月照が西郷と共に入水した地に建っています
 ④
吉野町 月照上人の追悼碑: 蘇生の家の近くにある、落命した月照追悼碑
 ⑤
南林寺町 月照上人の墓: 南林寺町の由緒墓の隣に月照上人墓があります
吉野・吉田地区:
 〇
桐野利秋 (1838-1877) 誕生地
 〇
桐野利秋田蘆跡:
 〇
別府晋介 (1847-1877) 誕生地
 〇
駄馬落の跡(積荷は唐芋、曳き手は西郷南洲翁):
 〇
南洲翁開墾地遺跡碑
 〇
鹿児島師範学校寺山修練道場跡碑南洲翁愛馬塚の碑

*昼食: ローカル食堂

*観光: 午後、鹿児島市内の徒歩観光
<テーマ2: 磯地区/埠頭地区/城西地区に点在する薩摩藩の近代化に関する史跡>
磯地区
 ◎
仙巌園
 〇
反射炉跡
 ◎
尚古集成館
 〇
電信の碑
 〇
旧鹿児島紡績所技師館(異人館)
 〇
鹿児島紡績所跡
 〇
祇園之洲砲台跡
 〇
薩英戦争記念碑
 〇
東郷平八郎銅像東郷平八郎遺髪墓
埠頭地区
 〇
開成所跡
 〇
五代友厚 (1836-1885) 銅像
 〇
坂本龍馬 (1836-1867) 新婚の碑
 〇
天保山砲台跡
 〇
新波止砲台跡
 〇
大門口砲台跡

*夕食: ローカル食堂
*宿泊: ホテルまたは旅館
     ・ チサンイン鹿児島谷山
     ・ 鹿児島ワシントンホテル・プラザ
     ・ 鹿児島東急REIホテル
     ・ ドーミー・イン鹿児島
     ・ アパホテル鹿児島天文館
     ・ アパホテル鹿児島中央駅前
     ・ 鹿児島サンロイヤルホテル

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<03日目>09月24日(月・祝)
■行程: 鹿児島
*朝食: ホテルまたは旅館

*観光: 午前、鹿児島市内の徒歩観光
<テーマ3: 鶴丸城と城山付近に点在する維新史跡と西南戦争史跡>
城西地区
 〇
千眼寺跡
 〇
小松帯刀 (1835-1870) 原良別邸
 〇
西郷家墓地
鶴丸城/城山付近
 〇
鶴丸城跡
 〇
天璋院篤姫 (1836-1883) 像
 〇
照国神社
 〇
幼年学校跡碑
 〇
小松帯刀像
 〇
西郷隆盛銅像
 〇
座禅の森と座禅石
 〇
私学校跡
 〇
城山
 〇
西郷隆盛洞窟
 〇
西郷隆盛終焉の地

*昼食: ローカル食堂

*観光: 午後、鹿児島市内の徒歩観光
<テーマ4: 上町地区の偉人の史跡・墓>
上町地区
 〇
浄光明寺跡
 〇
南洲墓地(西南戦争で戦没した薩摩軍将兵の墓地)
  ・・西郷隆盛墓
  ・・桂久武墓
  ・・桐野(埜)利秋墓
  ・・村田新八墓
  ・・別府晋介墓が並んで
  ・・中津隊・増田宋太郎(福沢諭吉のいとこ)墓
  ・・鹿児島県令・大山綱良墓
 〇
福昌寺跡島津斉彬墓・島津久光墓
 〇
興国寺墓地長澤鼎墓・新納久脩墓
  ①長澤鼎墓: 薩摩藩英国留学生の一員として渡英。イギリスでの留学を終えた
   後、アメリカに渡り、カリフォルニアでワイナリーを成功させた人物です。
  ②新納久脩墓: 薩英戦争で軍役奉行として活躍。その後、薩摩藩英国留学生を
   引率して渡英。帰国後は家老に昇進。開成所を所管し、教育に尽力しました。
 〇
大乗院坊中威光院跡
 〇
森有礼 (1847-1889) 誕生地
 〇
伊東祐亨 (1843-1914) 元帥誕生地碑
 〇
五代友厚 (1836-1885) 誕生地
 〇
赤倉病院跡
 ◎
西郷南洲顕彰館

*夕食: ローカル食堂
*宿泊: ホテルまたは旅館
     ・ チサンイン鹿児島谷山
     ・ 鹿児島ワシントンホテル・プラザ
     ・ 鹿児島東急REIホテル
     ・ ドーミー・イン鹿児島
     ・ アパホテル鹿児島天文館
     ・ アパホテル鹿児島中央駅前
     ・ 鹿児島サンロイヤルホテル

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<04日目>09月25日(火)
■行程: 鹿児島
*朝食: ホテルまたは旅館

*観光: 午前、鹿児島市内の徒歩観光

<テーマ5: 三方限方面の偉人史跡群>
加治屋町/高麗町付近
 〇
有村雄助 (1835-1860)・有村次左衛門 (1839-1860) 誕生之地
 〇
西郷隆盛 (1828-1877)誕生地/〇西郷従道 (1843-1902)誕生地
 〇
大山巌 (1842-1916)誕生地
 〇
川村純義 (1836-1904)誕生地
 〇
大久保利通 (1830-1878)誕生地大久保利通生い立ちの碑銅像
 〇
伊地知正治 (1828-1886)誕生地
 〇
吉井友実 (1828-1891)誕生地
 〇
村田新八 (1836-1877)誕生地
 〇
篠原国幹 (1837-1877)誕生地
 〇
樺山資紀 (1837-1922)誕生地
 〇
黒田清隆 (1840-1900)誕生地
 〇
黒木為禎 (1844-1923)誕生地
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井上良馨 (1845-1929)誕生地
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東郷平八郎 (1848-1934)誕生地
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山本権兵衛 (1852-1933)誕生地
 ※このほか、加治屋町/高麗町出身の偉人たちには:
  ・・家老として、慶応3年パリ万国博覧会に『日本薩摩琉球国太守政府』という名で
    8名の使節を率いて参加、王政復古の大号令に立ち会った岩下方平(1827-1900)
  ・・精忠組のNo.3として幕末の薩摩藩を牽引、禁門の変では被弾しながら奮戦、国司
    信濃軍を撃破、第一次長州征討では戦わず征討を完了させた税所篤(1827-1910)
  等がいました。
 〇
松方正義 (1835-1924) 誕生地松方正義銅像
 〇
三方限出身名士顕彰碑

*昼食: ローカル食堂

*観光: 午後、鹿児島近郊の観光
<テーマ: 鹿児島市街の近郊にある維新前に志半ばで斃れた偉人の史跡>
松元地区
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有馬新七 (1825-1862) 居宅跡
喜入地区
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伊牟田尚平 (1832-1868) 誕生地

*夕食: ローカル食堂
*宿泊: ホテルまたは旅館
     ・ チサンイン鹿児島谷山
     ・ 鹿児島ワシントンホテル・プラザ
     ・ 鹿児島東急REIホテル
     ・ ドーミー・イン鹿児島
     ・ アパホテル鹿児島天文館
     ・ アパホテル鹿児島中央駅前
     ・ 鹿児島サンロイヤルホテル

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<05日目>09月26日(水)
■行程: 鹿児島中央駅(→日本各地)
*朝食: ホテルまたは旅館

*観光: 午前、鹿児島市内の徒歩観光
<テーマ: 新しい観光スポット『時標』と『若き薩摩の群像』>
 〇
時標1「イギリス艦、鹿児島湾に現る」(西千石町/加治屋町交差点):
 ・・大山巌/西郷従道/山本権兵衛
 ※生麦事件に端を発した薩英戦争。鹿児島湾(錦江湾)にイギリスの軍艦が姿を
  現したとの報せを受け、港に駆けつける大山巌、西郷従道、山本権兵衛の群像

 〇
時標2「樺山、黒田、大いに語る」(西千石町/高見馬場交差点):
 ・・樺山資紀/黒田清隆
 ※将軍継嗣問題で、井伊直弼を首班とする徳川慶福を推す南紀派と、一橋慶喜を
  推す島津斉彬等の一橋派が争い、島津家中の若い薩摩藩士たちも日本の将来に
  ついて語り合いました。若き薩摩藩士を代表する樺山資紀と黒田清隆の像です。

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時標3「黒田清輝、桜島の噴火を描く」(東千石町/商工会議所ビル前):
 ・・黒田清輝/山下兼秀
 ※黒田清輝は薩摩藩士の子に生まれ、画家として名を残しました。この群像は、
  桜島の噴火のようすを心配そうに眺める黒田清輝と弟子・山下兼秀の像です。

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時標4「龍馬、お龍と薩摩でひと休み」(大黒町):
 ・・坂本龍馬/坂本龍馬の妻・お龍
 ※薩長同盟を締結させることに尽力した坂本龍馬は、伏見寺田屋で幕吏に襲われ
  負傷し、妻・お龍を伴い、薩摩に身を寄せました。これが日本初の新婚旅行と
  言われています。霧島の天の逆鉾を引き抜いたエピソードはこの時のものです。

 〇
時標5「重豪、薩摩の科学技術の礎を築く」(東千石町/天文館・ぴらもーるアーケード):
 ・・島津重豪/水間良実
 ※薩摩の近代化を最初に思い描いたのは島津重豪だったかもしれません。蘭癖と
  言われるほど、西洋文明に憧憬を描いた重豪と家臣で弟子の水間良実の像です。

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時標6「伊地知、吉井、政変について語る」(山下町/中央公園南側):
 ・・伊地知正治/吉井友実
 ※桜田門外の変によって幕府の権威も弱まりつつある時期、今後の日本について
  考える人が増えてきました。後に明治政府で活躍する伊地知正治や吉井友実像。
  伊地知正治は軍師として戊辰戦争で活躍、吉井友実は西郷どんの親友の一人。

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時標7「ウィリス、高木に西洋医学を説く」(山下町):
 ・・ウィリアム・ウィリス、高木兼寛
 ※明治2年、江戸から薩摩に招聘された医師・ウィリアム・ウィリスは鹿児島で
  後進育成に力を尽くしました。後に東京慈恵会医科大学を創設する高木兼寛も
  ウィリアム・ウィリスが育てた門人の一人です。二人の会話を交わす像です。

 〇
若き薩摩の群像

*誘導: 鹿児島中央駅までご案内致します。
*昼食: 駅周辺の食堂
・・移動: 解団。JRで各自、帰途へ。
 2017年実績(運航スケジュールは予告なく変更になる場合もあります)

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さくら556
12:48  鹿児島中央
13:00  川内
13:35  熊本
13:56  久留米
14:01  新鳥栖
14:13  博多

のぞみ40
14:50  博多
15:06  小倉
15:25  新山口
15:56  広島
レ  福山
16:32  岡山
17:06  新神戸
17:18  新大阪
17:34  京都
18:10  名古屋
19:34  新横浜
19:46  品川
19:53  東京

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※内容は予告なく変更になる場合もあります。
※この旅行は手配旅行となります。
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 2018年09月22日(土)鹿児島中央駅に14:30集合
*現地参加はできません。必ず1カ月前までにご予約下さい。


●ご旅行代金(最少催行人員1名様~定員6名様)
 お問い合わせ下さい。

●ご旅行代金には下記のものが含まれます*
 *交通費: 鹿児島市内の鉄道、バス、タクシーなどの公共交通機関
 *宿泊費: 
  ≪鹿児島≫
     ・ チサンイン鹿児島谷山
     ・ 鹿児島ワシントンホテル・プラザ
     ・ 鹿児島東急REIホテル
     ・ ドーミー・イン鹿児島
     ・ アパホテル鹿児島天文館
     ・ アパホテル鹿児島中央駅前
     ・ 鹿児島サンロイヤルホテル
 *ガイド/添乗員費用(東京からの往復切符、鹿児島での前泊代・食費を含みます)
 *食事: 朝食4回/昼食4回/夕食4回
 *鹿児島観光経費
  
●旅行代金に含まれないもの
 ・・鹿児島中央駅までの往復交通機関
 ・・前日までに到着される方、解散後の旅行の、交通費・宿泊費・観光費用
 ・・その他、個人的な支払い(電話、FAX、ネット通信費/明記されていないお食事/
   お飲み物)とそれに関わる税金、サービス料




 

電話でのお問合せは・・・・080-5028-6007 まで
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