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2018年11月01日(木)JR佐賀駅集合
明治維新150年記念コース
肥前佐賀幕末維新史跡探訪4日間
偉人たちの生涯と近代化の軌跡
石碑や銅像でたどる幕末最強の先進国の軌跡
ここがポイント!

■現在残る石碑や像でたどる、幕末最強の先進国の軌跡

 ※このコースは『長崎幕末維新史跡探訪4日間』と組み合わせることができます。

<佐賀/幕末維新史跡散歩> 
 明治維新を牽引した薩長土肥も、維新までの軌跡はまったく異なったものでした。
 明治維新から150年たった今、薩長土肥四藩を比べてみるのも面白いでしょう。
 文久以来幕府に対し、明確に対抗姿勢をとり、政治的試行錯誤を繰り返した長州。
 藩から差別を受けたことで、脱藩して封建制度打倒運動を行った土佐の郷士たち。
 挙国一致の近代化を推進するために幕政に接近、最終的に幕府を見限った薩摩。
 大政奉還も王政復古も傍観、近代化普及のため幕府を倒すべく立ち上がった佐賀。

 佐賀藩は、江戸時代を通じて、二重鎖国の国と言われていました。藩士たちに、
 他藩の人間との接触を禁じ、外部からの情報が藩に入ることを禁じていました。
 また、藩の情報が外部に漏れることを許しませんでした。その一方で、幕府から
 命じられた長崎警備を勤め、西洋文明を常に身近に感じていました。江戸時代、
 ヨーロッパの産業革命とそれが齎す近代化を最も認識していたのは佐賀藩です。
 佐賀藩は、独自にオランダに接触し、密貿易を行っていたと思われ、幕末期には
 そうとう裕福な藩となっていました。その財力を背景に造船所、反射炉を有した
 大砲鋳造所などを建設しました。また、からくり儀右衛門という愛称で知られる
 田中久重や佐野常民等の人材を登用し、佐賀藩を近代国家へと成長させました。
 幕末の動乱期において、佐賀藩では江藤新平や大隈重信、副島種臣等志士活動を
 した面々を除けば殆ど脱藩者を出さず、また九州に飛び火した尊皇攘夷運動や、
 幕府が推進していた公武合体運動等のいずれにも与せず、人材を温存できました。
 大政奉還から王政復古の大号令、政権が朝廷に移行すると、朝廷側に従う態度を
 明確にし、戊辰戦争に従軍。アームストロング砲や軍艦等を供出し、戊辰戦争の
 勝利に大貢献しました。佐賀藩閥こそ、作れなかったものの、佐賀の七賢人や、
 維新の十傑として、佐賀藩の人々は維新回天の功労者として顕彰されています。

 佐賀藩(“藩”という言葉が一般的になったのは、版籍奉還、廃藩置県といった
 明治政府による諸政策の中で、便宜的に使用されてから、という説が有力です。
 江戸時代は、『鍋島肥前守の家中』などという具合に呼ばれていました)では、
 藩校・弘道館で、佐賀藩独特の武士の子弟教育法で、若者を育成していました。
 ”武士道とは死ぬことと見つけたり・・・”すなわち『葉隠思想』がそれです。
 また、国学者である枝吉神陽が、義祭同盟を組織すると、多くの藩の若者たちが
 参加しました。佐賀藩士の子弟は、勤勉で、仲間意識が強いと言われています。
 小さな土地に偉人がひしめき合っていたというのも、互いに切磋琢磨して学ぶと
 いう習慣がそうさせたのかもしれません。幕府が長崎に海軍伝習所を設立すると
 早速、一期生として佐野栄寿左衛門常民、真木安左衛門長義等を送り込み、また
 二期生として中牟田倉之助を送り込み、三期生として田中久重を送り込みました。
 長崎警護は江戸期を通じ福岡藩と佐賀藩が割り当てられていました。西洋文明に
 触れる機会が多かった佐賀藩は、西洋文明をある種の好奇心で見ていたと思われ、
 日本の文化が西洋のそれに比べ著しく遅れていることを実感したと考えられます。
 佐賀藩は幕府に内緒で密貿易を行っていたと考えられ、少しずつ、国力を増して
 いったと考えられます。幕府が開国に踏み切ると、公然と洋学、科学、海軍等を
 学ぶようになります。藩主・鍋島直正が進歩的であったのもその理由の一つです。

 やがて、佐賀藩は全国に先駆けて産業革命を成功させ、倒幕に踏み切りました。

 佐賀藩には武雄に領地を持つ鍋島一族がいました。その家来だったのが山口尚芳。
 岩倉使節団の副使として薩摩の大久保利通、長州の木戸孝允や伊藤博文と一緒に
 写真に写っている、あの人物でした。佐賀藩は藩士の志士活動を認めていません
 でしたが、山口尚芳は陪臣という立場を利用して、領主の使いとして京阪を往来、
 薩長をはじめ、他藩の志士と交流し、薩長同盟にも一役買っています。薩摩藩の
 家老・小松帯刀や、公家・岩倉具視に気に入られ、やがて佐賀藩が倒幕の枢軸と
 なるきっかけを作ったと言われています。維新前の名は山口範蔵といいました。

佐賀の史跡群

御舟小屋跡/真木長義海軍中将 (1836-1917) 史跡: (佐賀市西与賀町相応)
 佐賀藩第十代藩主・鍋島直正(閑叟)が建設を命じた御舟小屋がありました。
 長崎警備に赴く佐賀藩士たちが乗る船が停泊していました。佐賀藩の海軍力の
 増強のたえ、オランダで建造された日進艦も、ここに繋がれていました。明治
 3年、日進艦は、船将・真木安左衛門長義をはじめとする船員もろとも政府に
 献上されました。真木は佐賀藩・藩医の家に生まれ、幕府が開設した長崎海軍
 伝習所で一期生として佐野栄寿左衛門常民と共に学び、オランダから電流丸が
 届くと、三重津海軍所で電流丸艦長を務めました。日本海軍の発展に貢献し、
 男爵となりました。現在、御舟小屋跡は更地になっており標柱が残っています。

江藤新平乗船の地丸目: (佐賀市西与賀町大字高太郎2116)
 佐賀の乱で敗れた江藤新平は、鹿児島の西郷隆盛や桐野利秋に決起を促すため、
 船で鹿児島へと向かいます。そのとき、乗船した場所が、丸目の波止場です。
 結局、西郷は決起せず、更に土佐の片岡健吉を頼りますが片岡もまた決起せず、
 ついに土佐と阿波の国境の甲浦で捕縛されます。裁判での判決は『除族の上、
 梟首』で、勤王の志士から明治の顕官として活躍した江藤新平は刑死しました。

嘉瀬刑場/千人塚跡: (佐賀市久保多街大字徳間1897)
 明治7年。佐賀の乱の首謀者・江藤新平や、島義勇等が、梟首された場所です。
 江藤は征韓党、島は憂国党の党首で、幕末以来あまり仲はよくなかったとか。

江藤新平 (1834-1874) 誕生地: (佐賀市八戸2-5-14)
 江藤新平は、肥前佐賀藩の家中にあって、唯一、志士活動を行った人物です。
 藩校・弘道館で優秀な成績を残しましたが、父親の職務怠慢により進学できず、
 江藤の学才を惜しんだ弘道館教授の枝吉神陽(副島種臣の兄)が自分の私塾に
 引き取り、学問を授けました。嘉永3年に枝吉神陽が楠正成・正行親子を祀る
 『義祭同盟』を結成するとそれに参加し、尊皇攘夷思想に傾倒してゆきます。
 文久2年、脱藩して京に上り、各藩の勤王の志士と親交を深めます。脱藩者は
 処刑されるのが常でしたが、江藤の見識を惜しんだ藩主の命により助命され、
 以降、明治維新まで後進の教育に力を注いだといいます。戊辰戦争が始まると
 東征軍軍監として出陣、上野の彰義隊討伐で活躍、太政官政府に登用されます。
 以降、東京奠都を皮切りに、学制の基礎固め、四民平等の基礎固め、警察制度
 整備、司法制度整備、裁判所建設、民法編纂、国法編纂等、彼の業績は枚挙に
 いとまがありません。司法卿として近代国家への脱皮を模索した政治家という
 評価があります。外遊中の大久保利通には憎悪の対象としてみられ、一説には
 征韓論での敗北から下野~帰郷~佐賀の乱と連なる一連の流れには、大久保の
 江藤抹殺の意思が働いていたとも言われています。新政権の基盤づくりという
 共通の目標がありながら同じ敏腕型の政治家は相容れなかったかもしれません。
 江藤新平は維新の十傑、佐賀の七賢人として後にその名誉を回復しています。

築地反射炉跡: (佐賀市長瀬町9-5)
 佐賀藩の第十代藩主・鍋島直正(閑叟)は、薩摩の島津斉彬とならぶ開明的な
 大名です。藩の近代化を推進しました。その一環として、反射炉を備え付けた
 大砲鋳造工場や、三重津海軍所を開設し、アームストロング砲と並ぶ威力を持つ
 大砲や蒸気船までも完成させる国力を持っていました。れんが作りの反射炉の
 傍らにある24ポンド砲は、その反射炉を使って完成の国産第一号の大砲です。

本行寺の江藤新平墓: (佐賀市西田代1-4-6)
 本行寺は、佐賀市でもっとも大きな日蓮宗の寺です。ここには佐賀の乱で敗れ、
 処刑された江藤新平の墓があります。江藤の墓に詣でると災難を防げるとか。

多布施公儀反射炉跡: (佐賀市伊勢町16-18)
 幕府はペリー来航を受け、佐賀藩に大砲鋳造を命じました。築地反射炉では
 能力的に不足だったので、ここ多布施川のほとりにも反射炉が築かれました。

精煉方跡: (佐賀市多布施3丁目)
 鍋島直正の命によって、産業拡大を目的として設置された理化学研究所では
 精巧な汽車、蒸気船、電信機等の雛型が製作されていました。その跡地です。
 雛型は模型とはいえ、外見だけにとどまらず、その中には蒸気機関や機械が
 備えられており、実際に動かすことができました。レールの上で機関車は、
 アルコールを焚いて水蒸気を起こして、車輪を回転させて走ったそうです。

護国神社: (佐賀市川原町8-15)
 戊辰戦争等の国内・国外での戦争、政変や動乱によって犠牲になった佐賀人を
 祀るため、明治3年に第十一代藩主の鍋島直大によって創建された神社です。

楠神社/義祭同盟の碑: (佐賀市白山1-3-2)
 旧長崎街道に面した場所に建つ神社。弘道館教授で国学者であった枝吉神陽は
 ここで『義祭同盟』を結びました。江藤新平や、大隈重信等が参加しました。

藩校・弘道館跡(徴古館): (佐賀市松原2-5-22)
 弘道館では、明治維新で活躍した江藤新平、大隈重信、副島種臣、大木喬任、
 島義勇、佐野常民、中牟田倉之助等の面々が学びました。現在は資料館です。

佐嘉神社: (佐賀市松原2-10-43)
 昭和8年に建立された新しい神社ですが、ここには、幕末の賢侯として名高い
 第十代藩主・鍋島直正、十一代藩主・直大が祀られています。大砲模型あり。

大隈重信 (1838-1922) 生家/記念館:
 大隈重信は佐賀藩の侍大将の家に生まれ、7歳で藩校・弘道館に入学、藩是の
 『葉隠』思想に基づく教育を受けますがそれに反発し、安政元年に同志と共に
 藩校の改革を訴え、退学。枝吉神陽の私塾に学び、『義祭同盟』に枝吉の弟の
 副島種臣や江藤新平等と共に参加しました。その後、佐賀藩蘭学寮に転入し、
 藩主・鍋島直正にオランダ憲法について進講、弘道館が蘭学寮を吸収すると、
 教授に着任、蘭学を教えました。国内での動乱は列強の介入を招くと考えたと
 思われ、幕府と長州との敵対関係を調停しようと試みました。慶応元年には、
 宣教師フルベッキを招聘して開校した藩校英学塾『致遠館』で副島種臣と共に
 教鞭を執りました。脱藩して志士活動を開始したのは慶応3年という時期で、
 将軍・徳川慶喜に大政奉還を進言するのが目的でした。明治維新後、薩摩藩の
 家老・小松帯刀の推挙で新政府に出仕、外国事務局判治になると頭角を現し、
 参議・大蔵卿等を歴任、明治十四年の政変で下野すると立憲改進党を立ち上げ、
 また、早稲田大学の前身である東京専門学校を開設、その後第八代、第十七代、
 内閣総理大臣を務めました。東京の護国寺に侯爵・大隈重信の墓があります。
 刺客に爆弾を投げつけられ片足を失っても毅然としていた一種の傑物でした。
 大隈重信は佐賀の七賢人の一人で、大隈重信記念館では、佐賀藩士時代から
 明治の顕官として活躍した時代までの大隈重信の軌跡を学ぶことができます。

佐賀の乱記念碑と慰霊碑: (佐賀市水ヶ江1-7-9)
 明治維新は文明開化と四民平等の時代の始まり、と思われがちですが、一方で
 国を治めてきた武士が行き場を失った時代でもありました。明治2年に起きた
 参議・横井小楠暗殺事件と兵部大輔・大村益次郎襲撃事件、明治3年に起きた
 江藤新平暗殺未遂事件、明治4年に起きた二卿事件(攘夷派の公家二名が政府
 転覆を企てた事件)と参議・広沢真臣暗殺事件、明治7年の右大臣・岩倉具視
 暗殺未遂事件は全国でくすぶっていた士族たちの不平不満の噴出とみることが
 でき、やがてそれは反乱へと向かいます。明治7年2月16日に起きた佐賀の
 乱はその不平不満が暴発した形となり、明治9年の熊本神風連の乱や秋月の乱、
 萩の乱、思案橋事件、そして明治10年の西南戦争へと続きます。明治維新で
 報われなかった武士の抱えた矛盾は、西日本全体を席捲した後、明治11年の
 紀尾井坂の変(大久保利通暗殺事件)で収束をみます。佐賀の乱は士族たちに
 よる、最初の反乱と位置付けられています。佐賀の乱を記念する碑の土台には
 龍のこどもである贔屓が彫られています。また、地続きの一画に建つ慰霊碑に
 佐賀の乱の首謀者であった、江藤新平や島義勇たちの名前が刻まれています。

大木喬任 (1832-1899) 誕生地: 佐賀市水ヶ江3-4-12 (南水公民館)
 大木喬任は佐賀藩士の家に生まれ、藩校・弘道館で学び、枝吉神陽に師事し、
 枝吉神陽の『義祭同盟』にも参加しました。藩論を尊皇攘夷にすべく運動を
 しますが果たせませんでした。しかし、江戸遊学を許可されるなど、優秀な
 人材であったことは間違いありません。彼の能力は明治政府に出仕してから
 発揮され、参与、軍務官判治、東京府知事、参議、民部卿、文部卿、教部卿、
 司法卿を歴任。民部卿、文部卿時代には、学制を整備し、その功績によって
 『明治の六大教育家』と呼ばれています。東京奠都や士族の反乱の事後処理、
 法典の編纂等様々な分野で活躍、佐賀の七賢人の一人として名を残しました。

佐賀の乱政府軍墓地/朝倉弾蔵墓(乾亨院): (佐賀市中の館町7-11)
 佐賀の乱の鎮圧部隊は、江藤新平が東京を離れた直後に既に組織されており、
 大久保利通によって佐賀鎮圧の勅許を得ていたと言います。それによって、
 大久保が江藤を反乱に向かわせるべく画策したのでは、と噂されたほどです。
 短期間の戦闘の後、政府軍は佐賀軍を鎮圧しました。政府戦没者の墓地です。
 同じ乾亨院の境内には、佐賀軍として官軍と戦った朝倉弾蔵の墓もあります。

副島種臣 (1828-1905) 誕生地/枝吉神陽 (1822-1862) 誕生地: (佐賀市城内2-18-1)
 副島種臣は佐賀藩士の家に生まれました。兄には弘道館教授で国学者であり、
 義祭同盟の盟主となった枝吉神陽がいます。枝吉家は兄が継ぎ、種臣は副島
 家に養子に入りました。早くから尊皇攘夷思想に傾倒し、幕末の京に遊学し、
 国学や漢学を学びました。その後、長崎にて開校した藩校の分校で、英学を
 教えていた致遠館で教鞭を執りました。慶応3年、大隈重信とともに、将軍・
 徳川慶喜に大政奉還を建白するために脱藩・上京しますが、失敗して送還、
 謹慎処分となります。明治維新後は明治政府に出仕し、参議、外務卿を歴任。
 横浜に停泊していたペルー船籍のマリア・ルス号から中国人の奴隷を開放し、
 国内外から称えられるも、征韓論に敗れて下野しました。但し、士族の反乱、
 自由民権運動にはかかわらず、後年、明治政府に復帰し、活躍しています。
 書家としても有名で、漢詩文に長け、佐賀の七賢人の一人に数えられます。

憂国党本陣の寶琳院: 鬼丸町12-30
 憂国党は、明治政府に不平不満を持つ士族によって構成され、北海道開拓に
 尽力しながらも、放逐同然に帰国した島義勇が党首に祭上げられていました。
 江藤新平は征韓論に端を発した明治六年の政変に敗れ、佐賀に戻ると、最初、
 憂国党の暴発を未然に防ごうした形跡があります。しかし、征韓党の党首に
 祭上げられ、結局、反乱軍の総帥として政府に反旗を翻すことになりました。

高傳禅寺/副島種臣墓: (佐賀市本庄町本庄1112-1)
 高傳寺は、佐賀藩鍋島家の菩提寺です。この高傳寺墓地に、副島種臣の墓が
 あります。佐賀の尊皇派のリーダーで明治の顕官にしては慎ましやかです。

島義勇(しま よしたけ 1822-1874) 屋敷跡: (佐賀清和高校体育館の北側)
 島義勇は佐賀藩士の家に生まれ、藩校・弘道館で学びました。また、諸国に
 遊学し、美濃岩村藩の儒者・佐藤一斎、熊本の林桜園、水戸の藤田東湖等に
 師事し、学識を深めました。また、藩命により、函館奉行・堀織部正利煕を
 補佐して蝦夷地、樺太を探検・調査しました。明治維新後は戊辰戦争に際し、
 東征軍の軍監として従軍、各地を転戦しました。その後、蝦夷開拓御用掛を
 拝命、北海道開拓に奔走しました。銭函(現・小樽市銭函)に仮庁舎を建て、
 札幌を本庁とすべく、札幌の街づくりに尽力。無人の荒野に近かった札幌を
 碁盤の目状の区画を計画し、後に『北海道開拓の父』『名判官・島義勇』と
 呼ばれました。明治政府の方針には相容れぬところがあり、やがて退官し、
 江藤新平とともに佐賀の乱を起こしますが、敗れて斬首されました。北海道
 開拓に夢を賭けた一人として有名です。彼もまた、佐賀の七賢人の一人です。

久米邦武 (1839-1931) 誕生地: (佐賀市八幡小路) 
 久米邦武は佐賀藩士の家に生まれ、藩校・弘道館で学びました。枝吉神陽の
 『義祭同盟』にも参加し、同藩の大隈重信と親交を結びました。文久2年、
 藩命により江戸にでて昌平坂学問所に入学。古賀茶渓(謹一郎/筑後守)に
 師事しました。翌年帰国すると弘道館で教鞭を執り、前藩主の鍋島直正に、
 近侍として仕えました。明治維新後は岩倉使節団に加わり、欧州各国を視察、
 帰国後、貴重な史料となる『特命全権大使 米欧回覧実記』を著しました。
 その際、500円という褒美を貰い、長男・桂一郎をフランスに留学させ、
 桂一郎は薩摩の黒田清輝と共に洋画家として大成する切っ掛けとなりました。

龍泰寺/大隈重信墓: (佐賀市西城内/北堀端)
 龍泰寺は、戦国期に鍋島氏の主君筋にあたる龍造寺隆信が建立した曹洞宗の
 寺院。現在の本堂は佐賀城の本丸屋敷を改装。大隈重信の墓があります。

焔硝蔵(御薬蔵): (佐賀市本庄町)
 現在の鹿子交差点の西側一帯に、佐賀藩の焔硝蔵がありました。明治7年の
 佐賀の乱後、政府が没収しました。石壁は鹿の子天満宮の石垣になりました。

神野西公園: (佐賀市神野4-1)
 神野西公園には、鍋島直正のお茶室であった神野のお茶屋の遺跡があります。
 『隔林亭』は実際に直正公の茶室でした。園内に『江藤新平像』もあります。

三重津海軍所跡/佐野常民記念館: (佐賀市川副町早津江30)
 ペリー来航により、泰平の眠りを覚まされた幕府は、老中首座・阿部正弘に
 より、広く意見を求め、勝海舟の唱える「海軍設立が急務」という意見書が
 目付・大久保越中守忠寛(のちの一翁)により提出されました。それにより
 長崎奉行所の一画に、長崎海軍伝習所が建設されました。佐賀藩は、第一期
 伝習生として佐野栄寿左衛門常民、真木安左衛門長義が派遣され、オランダ
 教官により海軍について学びました。佐賀藩は、オランダから10万ドルで
 排水量およそ300トンの木製コルベット艦「電流丸」を購入すると、藩内
 随一の港を有する三重津で運用しました。三重津海軍所はペリー艦隊来航の
 わずか5年後の安政5年に設立され、蒸気船をはじめとする船舶の造船及び
 修理工場、西洋船運用のための教育機関/訓練機関として活用されました。
 実用的な国産初の」蒸気船である「凌風丸」の製造も、ここで行われました。
 2013年に国の史跡に指定され、2015年に「明治日本の産業革命遺産」
 としてユネスコの世界文化遺産に登録。「三重津海軍所のドライドック」は、
 現存する日本最古の乾船渠です。隣には佐野常民記念館が建てられています。

佐野常民 (1823-1902) 誕生地: (佐賀市川副町大字早津江津)
 佐野常民は、佐賀藩士の家に生まれ、藩医・佐野常徴の養子となりました。
 藩校・弘道館で学び、江戸に遊学して古賀侗庵に師事。いったん帰国すると
 弘道館に復学して考証学を、松尾塾では外科術を学びました。嘉永元年には
 大坂のの緒方洪庵の適塾で学びました。幕府が長崎海軍伝習所を開設すると
 佐賀藩から真木安左衛門とともに派遣され、オランダ教官より海軍について
 学び、三重津海軍所の監督を拝命しました。幕府が発注したボイラー製造を
 請け負い、やがてボイラーは幕府の千代田形に搭載されることになります。
 慶応3年、佐賀藩はパリ万国博覧会に、独自に出展しますが、その折に佐野
 常民は使節として渡航、ヨーロッパを視察して赤十字の精神等を学び、後に
 日本赤十字社を創設します。その後、明治政府で政治家、官僚として活躍し、
 伯爵を授けられました。日本の近代化に尽くした、佐賀の七賢人の一人です。
※千代田形(艦長は森本弘策)は戊辰戦争末期の箱館戦争の際、佐賀藩出身の
 海軍副参謀・石井富之助率いる政府艦隊と交戦し、座礁して拿捕されます。
 座礁後すぐに退艦したのは森本弘策の判断ミスであったと言われています。
 
佐賀城/本丸御殿(歴史館)/佐賀の役殉国十三烈士の碑:
 戦国期に龍造寺家の居城があった場所に、主家である龍造寺家から事実上、
 独立した鍋島藩初代・鍋島直茂により改修された佐賀城は、敵が攻撃をして
 きた場合には、主要建造物以外を水没させ、敵の攻撃を避けるように築かれ
 ました。江戸期を通じて鍋島家の居城で、本丸御殿は象徴でもありました。
 佐賀の乱では主要な建物が破壊されました。鍋島直正公の銅像があります。
 本丸御殿(歴史館)

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維新胎動の地・佐賀

 
佐賀に3泊4日します。


◎集 合: 2018年11月01日(木) 13:45 JR佐賀駅の改札口に集合!

◎代 金: お問い合わせ下さい

◎経 路: 佐賀までの経路に関しては、お問い合わせ下さい。

◎コース: 佐賀市内は公共交通機関で移動し、各観光スポットは徒歩で周ります。

◎宿 泊: 当プログラムでは、佐賀市内のホテルまたは旅館に宿泊。

◎食 事: 佐賀駅到着日の夕食から<朝食3回/昼食2回/夕食3回>


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<01日目>11月01日(木)
■行程: 日本各地→佐賀駅(例は下記のスケジュールをご参照ください)→佐賀
・・移動: ご自身でJR佐賀駅にお越し下さい。
 2018年10のスケジュール(運航スケジュールは予告なく変更になる場合もあります)

のぞみ11
 07:30  東京
 07:37  品川
 07:49  新横浜
 09:13  名古屋
 09:50  京都
 10:05  新大阪
 10:18  新神戸
 10:51  岡山
 11:27  広島
 11:58  新山口
 12:17  小倉
 12:33  博多


かもめ21
 12:55  博多
 13:15  鳥栖
 13:19  新鳥栖
 13:32  佐賀

・・集合: 
佐賀駅改札に13:45
*誘導: 佐賀駅から旅館/または/ホテルまでは公共交通機関でご案内致します。
*夕食: ホテル または 旅館
*宿泊: ホテル または 旅館
     ・ ホテル龍登園(デラックス)または同等
     ・ 旅館あけぼの(スーペリア)または同等
     ・ たつみ旅館(バジェット)または同等

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<02日目>11月02日(金)
■行程: 佐賀【明治維新150年】
*朝食: ホテル または 旅館

*観光: 午前、佐賀市内の徒歩観光
<テーマ1: 佐賀藩の近代化の軌跡>
 〇
御舟小屋跡/真木長義海軍中将 (1836-1917) 史跡
 〇
築地反射炉跡
 〇
多布施公儀反射炉跡
 〇
精煉方跡
 〇護国神社
 ◎
藩校・弘道館跡(徴古館)
 〇久米邦武 (1839-1931) 誕生地
 〇
焔硝蔵(御薬蔵)跡
 ◎
三重津海軍所跡佐野常民記念館
 ◎
佐賀城本丸御殿鯱ノ門

*昼食: ローカル食堂

*観光: 午後、佐賀市内の徒歩観光
<テーマ2: 佐賀の乱~士族、ついに起つ>
 〇佐賀の乱記念碑と慰霊碑
 〇
佐賀の乱政府軍墓地朝倉弾蔵墓(乾亨院)
 〇
憂国党本陣の寶琳院
 〇江藤新平乗船の地丸目
 〇
嘉瀬刑場千人塚跡
 〇本行寺の江藤新平墓

*夕食: ホテル または 旅館
*宿泊: ホテル または 旅館
     ・ ホテル龍登園(デラックス)または同等
     ・ 旅館あけぼの(スーペリア)または同等
     ・ たつみ旅館(バジェット)または同等

------------------------------------

<03日目>11月03日(土)
■行程: 佐賀
*朝食: ホテル または 旅館

*観光: 午前、佐賀市内の徒歩観光
<テーマ3: 佐賀の七賢人の史跡探訪>
 〇江藤新平 (1834-1874) 誕生地: ⑥江藤新平(1834-1874)
 〇楠神社義祭同盟の碑: ④副島種臣(1828-1905)ほか
 〇
佐嘉神社: ①鍋島直正(閑叟 1814-1871)
 ◎
大隈重信生家記念館: ⑦大隈重信(1838-1922)
 〇
大木喬任誕生地: ⑤大木喬任(1832-1899)
 〇副島種臣誕生地枝吉神陽 (1822-1862) 誕生地: ④副島種臣(1828-1905)
 〇
高傳禅寺副島種臣墓: ④副島種臣(1828-1905)
 〇
島義勇屋敷跡: ③島義勇(1822-1874)
 ◎龍泰寺大隈重信墓: ⑦大隈重信(1838-1922)
 〇
神野西公園: ①鍋島直正(閑叟 1814-1871)
 ◎
佐野常民誕生地: ②佐野常民(1823-1902)

*昼食: ローカル食堂

*観光: 午後、武雄の徒歩観光(武雄温泉までは公共交通機関を利用します)
<テーマ4: 異色の志士・山口尚芳>
 〇山口尚芳顕彰碑

*夕食: ホテル または 旅館
*宿泊: ホテル または 旅館
     ・ ホテル龍登園(デラックス)または同等
     ・ 旅館あけぼの(スーペリア)または同等
     ・ たつみ旅館(バジェット)または同等


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<04日目>11月04日(日)
■行程: 佐賀
*朝食: ホテル または 旅館
(→日本各地)
*朝食: ホテルまたは旅館
*誘導: 佐賀駅までご案内致します。

・・移動: 解団。JRで各自、帰途へ。

かもめ18号
 12:35  佐賀発
 12:47  新鳥栖着
 12:51  鳥栖着
 13:13  博多着

のぞみ36
 14:10  博多発
 14:26  小倉着
 14:45  新山口着
 15:16  広島着
 15:52  岡山着
 16:25  新神戸着
 16:38  新大阪着
 16:54  京都着
 17:31  名古屋着
 18:54  新横浜着
 19:06  品川着
 19:13  東京


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※内容は予告なく変更になる場合もあります。
※この旅行は手配旅行となります。
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 2018年11月01日(木)佐賀駅に13:45集合
*現地参加はできません。必ず1カ月前までにご予約下さい。


●ご旅行代金(最少催行人員1名様~定員6名様)
 お問い合わせ下さい。

●ご旅行代金には下記のものが含まれます*
 *交通費: 佐賀市内の鉄道、バス、タクシーなどの公共交通機関
 *宿泊費: 
  ≪佐賀≫
     ・ ホテル龍登園(デラックス)または同等
     ・ 旅館あけぼの(スーペリア)または同等
     ・ たつみ旅館(バジェット)または同等

 *ガイド/添乗員費用(東京からの往復切符、佐賀での前泊代・食費を含みます)
 *食事: 朝食3回/昼食2回/夕食3回
 *佐賀観光経費
  
●旅行代金に含まれないもの
 ・・佐賀駅までの往復交通機関
 ・・前日までに到着される方、解散後の旅行の、交通費・宿泊費・観光費用
 ・・その他、個人的な支払い(電話、FAX、ネット通信費/明記されていないお食事/
   お飲み物)とそれに関わる税金、サービス料




 

電話でのお問合せは・・・・080-5028-6007 まで
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