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2018年11月04日(日)
明治維新150年シリーズ
東京〜激動の維新史を歩く 3
坂本龍馬像/井上勝墓/三田薩摩屋敷跡
京浜急行・立会川駅集合
ここがポイント!


東京〜激動の維新史を歩く 3

 
東京=かつての江戸で起きた政治的攻防の史跡

■必ず、お電話またはメールでお申し込み下さい■


東京〜激動の維新史を歩くB<黒船来航から江戸無血開城まで>


 ペリー来航は、日本の歴史を大きく変えることになりました。

 既にペリー来航の一年前、長崎のオランダ商館より、幕府にアメリカ艦隊の来訪計画が伝えられていました。
 しかし、危機感を持ったのは、老中・阿部正弘ほか数名のみ。しかし、その数名が、時代の難局に立ち向かう
 ことになります。阿部正弘は慣習を破り、幕閣だけではなく、広く意見書の提出を求めました。目付・大久保
 忠寛によって上程されたのが、勝海舟によって書かれた海防・海軍設立に関する意見書でした。
 江戸幕府は、江戸湾の防禦を重視し、諸藩に沿岸警護を命じます。土佐藩は現在の鮫洲を担当し、若き日の
 坂本龍馬も、警備に駆り出されたと言われています。

 江戸幕府は、海軍を設立するためには、士官や技師の養成が急務であるという勝海舟の意見を取り入れ、
 長崎奉行所の一画に、長崎海軍伝習所を設立。オランダ士官を教官とし、航海術や洋学を幕臣や佐賀藩の
 若く志ある者に学ばせました。海軍の立案者であった勝海舟は、生徒監として三期、長崎に駐在しました。
 長崎伝習所からは、勝海舟と共に幕府の幕引きに尽力した矢田堀鴻、アメリカに渡った咸臨丸を修復した
 中島三郎助(箱館戦争で戦死)、幕府消滅後は明治政府に仕え『日本の海軍士官』を育成した佐々倉桐太郎、
 算術や測量や造船で才能を発揮した小野友五郎、咸臨丸副将として清水で官軍に虐殺された春山弁蔵、 
 維新後は横須賀造船所造船科主幹として活躍した浜口興右衛門、日本造船の父・赤松則良、元老院議官を
 拝命した田辺蓮舟、初代軍医総監・松本良順、明治政府で閣僚になった榎本武揚等のほか、肥前佐賀藩の
 佐野常民や中牟田倉之助、薩摩藩の五代友厚や川村純義が学び、活躍しました。
 日米和親条約、日米修好通商条約締結後、列強諸国と条約を締結した江戸幕府は、条約批准のために
 使節をアメリカに派遣。咸臨丸はこの時に随行し、幕臣や随行員は初めて西洋文明をこの目で見ました。
 この渡航には、勝海舟のほか、後に慶応義塾を立ち上げる福沢諭吉も同行していました。

 その頃の国内は、将軍継嗣問題で一橋派(水戸斉昭、松平慶永、島津斉彬等)と南紀派(井伊直弼)が激しく
 対立、南紀派が一橋派を抑えて、十四代将軍に、紀州の徳川慶福(家茂)を就けることに成功、政敵であった
 一橋派として活躍した人々、水戸藩に幕政改革を命ずる密勅を下されるよう暗躍した人々を弾圧します。
 この安政の大獄で、一橋派として暗躍した福井藩士・橋本左内、安政の大獄を指揮した老中・間部詮勝を
 暗殺しようと計画した吉田松陰等が刑死します。弾圧は諸大名や旗本、公家にも及びました。この大獄の
 報復として大老・井伊直弼は水戸浪士と薩摩浪士により桜田門外で暗殺されました(桜田門外の変)。

 ペリー来航で、日米和親条約を締結した江戸幕府は、この後、日米修好通商条約、さらに列強諸国との間に
 条約を結び、江戸の近郊に公使館を建設しました。高輪の東禅寺にはイギリス大使館が建設されましたが、
 尊皇攘夷派により襲撃され、さらには護衛であった松本藩士にも襲撃されるという事件が起きました。
 江戸幕府は二度の襲撃を受けたイギリス公使館が、手狭でもあることから御殿山に新築することを決定。
 しかし、その建設地は長州藩士により、放火されました。勢いにのる長州藩は、幕府が朝廷に約束させられた
 攘夷実行期限の文久3年5月10日、久坂玄瑞の指揮の下、馬関(下関)攘夷戦争に踏み切ります。

 一方、長州藩は、世界中に宣戦布告をすると同時に、秘密留学生をロンドンに送ります。鉄道の父・井上勝、
 井上馨、伊藤博文、山尾庸三、遠藤謹助の五人です。彼等はイギリスで国力の差を痛感、攘夷が無理である
 ことを伝えるべく、井上馨と伊藤博文は帰国、やがて病気になった遠藤謹助も帰国します。文久三年八月
 十八日の政変により、京の政局から締め出された長州藩には、残った井上勝、山尾庸三への仕送りが困難と
 なり、二人は現地で出会った薩摩藩留学生に救われ、勉学を続けることができました。日本国内では政治の
 主導権を巡り争っていた薩長ですが、イギリスでは既に、薩長が助け合って勉学に励んでいたのです。
 
 元治元年、池田屋の変で吉田稔麿、禁門の変で久坂玄瑞、入江九一、寺島忠三郎等、多くの同志を失った
 長州藩は、英仏蘭米の砲撃を受け、さらに幕府の長州征討を招きます。勤王の志士のリーダーであった
 周布政之助は自刃し、攘夷をやめて幕府に表向きは恭順しつつ軍備を整えよと解いた井上馨は刺客に
 襲われて瀕死の重傷を負います。高杉晋作や伊藤博文のクーデターで改革派が再び主導権を握ると、
 長州藩は薩摩藩と手を結び(薩長同盟)、第二次長州征討では薩摩経由で入手した武器を駆使して幕軍を
 撃退。これにより時代の趨勢は倒幕へと傾き、慶応3年には大政奉還〜王政復古が実現、幕府は斃れます。

 大政奉還により、武力倒幕が実行できなくなった薩長は、幕府に勅命を楯に無理難題を要求し、また浪士を
 使い、江戸府内の治安を悪化させます。業を煮やした新徴組や庄内藩が、三田薩摩屋敷を襲撃しました。
 薩長はこれを口実に、ついに武力倒幕に踏み切ります。巻き返しを図る幕府軍は鳥羽伏見の戦いで薩長に
 敗れ、将軍・徳川慶喜は開陽丸で江戸に帰還すると謹慎。慶喜の命で陸軍総裁・勝安房守海舟が、東征軍
 参謀・西郷隆盛と会談、江戸城は無血開城となります。江戸は戦火を免れます。土壇場で倒幕に加わった
 肥前佐賀藩の江藤新平は、太政官に東京奠都を提言。明治天皇が江戸城に入り、江戸時代は終焉を迎えます。
 
第1回は・・・こちら ⇒ 江戸伝馬町牢屋敷跡〜十思公園〜小塚原回向院〜日比谷公園〜桜田門〜桧町
第2回は・・・こちら ⇒ 豪徳寺〜勝国寺〜松陰神社




第3回 東京〜激動の維新史を歩く

 
東京=かつての江戸で起きた政治的攻防の史跡


◎集 合: 2018年11月04日(日)  10:00

◎代 金: お一人様 3,240円

◎経 路: 徒歩で移動

◎コース: 立会川駅〜東大井〜品川〜田町駅

◎宿 泊: 当プログラムは日帰りコースです。

◎食 事: 含まれません。下町情緒あふれる地域で、と考えております。

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<01日目>11月04日(日)
■行程: JR駅 ・・・史跡めぐり・・・ 京浜急行・立会川駅
      ご自身で立会川駅にお越し下さい。
      スケジュールは予告なく変更になる場合もあります)

 ★集合日時: 2018年11月04日(日)10:00
 ★集合場所: 立会川駅改札口

※スタート地点: 京浜急行本線 立会川駅

 〇
土佐藩鮫洲抱屋敷跡土佐藩浜川砲台跡坂本龍馬像: 東大井2丁目27−24
  ペリー来航に揺れる江戸幕府は、江戸湾の警備を諸藩に命じました。土佐藩は、鮫洲を担当し、
  浜川砲台を築き、黒船と対峙しました。若き日の坂本龍馬も警備に駆り出されたといいます。

   ↓
  (徒歩)
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 ○山内容堂墓: 東大井4丁目
  山内容堂(1827-1872)は土佐藩第十五代藩主で、藩主時代の諱は豊信といいます。
  もともとは分家の出身で、藩主になれる身分ではありませんでしたが、十三代、十四代の
  藩主が急死したため、突然、本家に養子として迎え入れられ、藩主の座に就きました。
  門閥外から藩主になった容堂は、藩閥政治を嫌い、革新派グループ『新おこぜ組』を起用、
  藩政改革に着手しました。このときに起用されたのが『新おこぜ組』のリーダー・吉田東洋、
  東洋の甥の後藤象二郎、福岡孝弟、神山左多衛、岩崎弥太郎等が起用されました。越前の
  松平慶永(のちの春嶽)、薩摩の島津斉彬、宇和島の伊達宗城とあわせ、幕末の四賢侯と
  呼ばれますが、自信が将軍継嗣として推す一橋・徳川慶喜が、安政の大獄で失脚すると
  憤慨して隠居、このときに容堂という名前を使うようになります。幕末の政局の中で容堂は
  『酔えば勤王、醒めれば佐幕』という具合に変節を繰り返し、勤王派の旗色がよくなると、
  それを起用し、勤王派が政局から締め出されるとそれを弾圧するという態度をとりました。
  吉田東洋が、土佐勤王党の首領・武市半平太に使嗾された那須信吾等に暗殺されると、後に
  報復として間崎哲馬、平井収二郎、広瀬健太、そして武市半平太に切腹を命じ、多くの勤王党員を
  弾圧しました。幕末の政局が、倒幕に傾くと、坂本龍馬から後藤象二郎に提示された大政奉還の
  案を建白書にしたため、将軍・徳川慶喜に捧げ、続く小御所会議では慶喜擁護論で岩倉具視等と
  対立したエピソードは有名です。維新後は酒色におぼれ、身体を壊し、結局は早死にしました。
  尚、容堂の墓の傍らには、容堂の後の藩主・山内豊範(十四代・豊惇の子)の墓もあります。

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  (徒歩)
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 〇
越前鯖江藩間部家下屋敷跡: 東大井4丁目
  大井公園から立会小学校に至る地域は、越前鯖江藩の下屋敷がありました。大井公園内に
  鯖江藩下屋敷跡の説明板が建てられています。江戸幕府第六代将軍・徳川家宣に仕えた
  間部詮房を藩祖とする鯖江藩の七代藩主が、安政の大獄で暗躍した老中・間部詮勝です。
  間部詮勝は京都に寓居を構え、一橋慶喜擁立派や、水戸藩に密勅を下されるよう活動した
  志士たちを弾圧しました。吉田松陰は詮勝暗殺計画を自白し、処刑されることびなりました。

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  (徒歩)
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 〇
海晏寺: 南品川5丁目(墓地は非公開)
  東京でも屈指の古刹で、創建は建長3年。鎌倉幕府第五代執権・北条時頼が開基、宋から渡来した
  禅僧・蘭渓道隆の開山により建立された曹洞宗の寺です。江戸時代はじめには衰退していましたが、
  文禄2年に徳川家康が天叟慶存を招き、再興しました。江戸期には紅葉の名所として人気がありました。
  非公開の墓地には明治政府の右大臣・岩倉具視、越前福井藩主・松平春嶽、越前福井藩家老・中根雪江、
  坂本龍馬が新政府入りを推挙した由利公正、大審院長・児島惟謙といった名士の墓があります。

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  (徒歩)
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 〇釜屋跡: 南品川3丁目
  建場茶屋・釜屋の跡です。建場茶屋とは、本陣さながらの門構えの旅館で、旅籠より廉価であった
  ため、地方に出張する幕臣に人気があったとか。大目付・永井尚志もここに泊まり、また、慶応4年の
  正月に、鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸に引き上げてきた新撰組も一時、釜屋に泊まりました。現在、
  江戸幕府の終焉を見届けた釜屋の建物は跡形もありません。しかし、幕臣たちが残照の陽だまりを
  見た
釜屋跡には、あの新撰組のだんだら模様の羽織をモチーフにした説明版が掲げられています。

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 〇
東海道品川宿本陣跡: 北品川2丁目
  東海道五十三次の最初の宿場が品川で、宿場には大名・旗本が泊まる本陣がありました。明治元年、
  明治天皇が行幸し、投宿されました。佐賀藩士・江藤新平がひそかに計画した東京奠都の実現です。
  東京奠都は、京都に残った公家や諸大夫たちを不安に陥れました。やがて起こる不平公家の反乱・
  二卿事件や、溜池での江藤新平暗殺未遂事件、参議・広沢真臣暗殺といった世情不安は、東京奠都が
  遠因であったと考えられないこともありません。

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 〇井上勝墓: 北品川3丁目11ー9
  井上勝は長州藩士で、萩に生まれました。野村家に養子に入り、野村弥吉と名乗り、藩校・明倫館で
  学びました。ペリー来航に揺れる江戸幕府が、江戸湾の警備を諸藩に命じると、長州藩も相模警備に
  駆り出され、勝も横須賀に赴任します。その後、長崎に遊学、江戸の蕃書調所に入学、航海術等を学び、
  さらに蝦夷の箱館で武田斐三郎に航海術と英語を学びました。文久3年5月、藩命で井上馨、伊藤博文、
  山尾庸三、遠藤謹助とともに英国に秘密留学、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンで鉱山技術、鉄道技術を
  学びました。元治元年、英仏蘭米が長州藩と戦争になると聞き、攘夷を止めさせるために、井上馨と伊藤が
  帰国。その後、遠藤謹助も病気のため帰国。井上勝は山尾庸三とともに英国に残り、勉強を続けます。一時、
  活動資金が底をつき、途方に暮れていた際に、薩摩藩の留学生に資金を援助され、勉強を続けることが
  できたエピソードは有名です。維新後は、木戸孝允に勧められて新政府に出仕、日本の鉄道開業に向け
  尽力しました。後に『鉄道の父』と呼ばれ、東海禅寺大山墓地の彼の墓は、鉄道記念物になりました。
  井上勝、井上馨、伊藤博文、山尾庸三、遠藤謹助の五人は、長州五傑(ファイブ)と呼ばれています。

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 ○板垣退助墓: 北品川3丁目7−15
  板垣退助は、土佐藩の上士の出で、はじめは乾姓を名乗っていました。厳しい身分制度が存在した
  土佐藩では退助や後藤象二郎が属する上士と、坂本龍馬や中岡慎太郎、武市半平太、吉村虎太郎が
  属する郷士との間には、天と地ほどの隔たりがあったと言われています。そのような上士の中でも
  板垣退助や谷干城、佐々木高行、岡本健三郎等は、郷士に対して寛大であったと言われています。
  退助は幕末末期、藩上層部の模索する公武合体に見切りをつけ、武力倒幕を意識するようになり、
  中岡慎太郎等と連携し、倒幕を目指すようになります。戊辰戦争では藩の最高指導者・山内容堂を
  説き伏せて土佐藩兵を出陣させることに成功。出兵はすれども戦うなかれという容堂の言葉に反し、
  北関東や東北の戦線で活躍をします。維新後は参議になりますが、明治6年の政変で下野。その後は
  立志社を設立、自由民権運動に身を投じます。岐阜で暴漢に襲われるも自説を曲げず、自由民権運動を
  推進します。第一次大隈重信内閣では内務大臣を拝命、隈板内閣と呼ばれました。板垣退助の墓は、
  品川神社の境内の奥に位置しています。

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御殿山(旧イギリス公使館跡): 北品川3丁目
  久坂玄瑞をリーダーとする長州藩の尊皇攘夷派は、イギリス公使一行をピクニックの際に襲って
  斬るという計画を立てます。しかし、藩の世子・毛利元徳に諫められ、断念せざるを得なくなります。
  この計画を漏れ聞いた山内容堂が、毛利元徳に密告したのが原因で、勤王志士の首領であった
  長州藩の周布政之助が心配して駆けつけた土佐藩士(上士)たちの前で、容堂を批判しました。
  久坂玄瑞、高杉晋作、井上馨たちは計画を変更し、品川御殿山に建設中のイギリス公使館建設地に
  焼き討ちをかけることにしました。大将・高杉晋作/副将・久坂玄瑞/火付け役・井上馨、伊藤博文、
  寺島忠三郎/護衛役・品川弥二郎、堀真五郎、松島剛蔵/斬捨役・赤禰武人、白井小助、山尾庸三・・・
  彼等は警備が手薄な夜間に投宿していた土蔵相模を抜け出し、柵を壊して侵入、焼玉(破裂弾)を
  使って建設中の公使館に放火しました。その後、ここに公使館が建設されることはありませんでした。
  文久2年12月12日のことでした。4カ月後、井上馨、伊藤博文、山尾庸三は、長州藩秘密留学生として
  イギリスにわたり、西洋と日本の国力の差を知り、攘夷の非を悟ります。

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 ○御殿山下台場跡品川灯台: 東品川1丁目

  台場といえば、お台場が有名ですが、江戸幕府の建設計画では11基を建造することになっていました。
  しかし、計画は7基を造ったところで頓挫しました。その後、海の中の台場ではなく、陸続きの台場を
  建造することとなり、御殿山下が選ばれました。御殿山の山を崩し、その土で湾を埋め立て、台場を
  築きました。明治3年に第二台場に品川灯台が築かれたと記録に残っています。現在、台場小学校
  敷地に、御殿山下台場跡の石垣の石を利用したモニュメントと、品川灯台のレプリカがあります。

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稲葉屋跡: 北品川1丁目
  稲葉屋は、品川宿にあった妓楼です。桜田門外の変を控えた桜田烈士たちが前夜、今生の別れの
  盃を交わした場所です。ここで決起集会を開き、愛宕山で戦勝祈願をし、桜田門に向かいました。

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 ○土蔵相模跡: 北品川1丁目
  長州藩士たち御用達の妓楼。営業当時、土蔵造りであったため、土蔵相模と呼ばれていました。
  高杉晋作と久坂玄瑞が、攘夷を巡って言い争いをした場所として有名です。妓楼に借金を残して
  死ぬのは恥と、井上馨が長州藩邸に立ち戻り、山県半蔵から金子を借りてきた話も有名です。
  ここに集まった報告隊の面々が、高杉を主将・久坂を副将として、御殿山に建設中のイギリス公使館
  建設地を焼き討ちした話は、テレビドラマや映画、演劇『颶風時代』に描かれています。

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三田薩摩屋敷跡: 田町駅前
  大政奉還により、武力倒幕の大義名分を失った薩摩藩は、政治では幕府に無理難題をふっかけて
  幕閣を揺さぶり、一方、江戸では薩摩藩士・柴山良助や益満休之助、伊牟田尚平、浪士・相楽総三に
  命じ、江戸の治安を悪化させ、幕府を挑発。庄内藩と新徴組による薩摩屋敷焼き討ちを招きます。
  それを口実として、薩長はついに倒幕の軍を起こすことに成功。錦の御旗を密かに用意しました。
  慶応4年。鳥羽伏見の戦いに敗れた最後の征夷大将軍・徳川慶喜は、軍艦・開陽丸に乗って江戸に
  逃げ戻りました。官軍となった薩長土肥は、この戦機を逃すまいと、関東に進軍。江戸城総攻撃を
  布告します。慶喜に停戦を命じられた勝海舟は、三田薩摩屋敷に東征軍参謀・西郷隆盛を訪ね、
  江戸城無血開城に向け、会談します。既に山岡鉄舟と静岡で面談していた西郷は、幕臣の切なる
  思いを受け止め、慶喜の水戸への隠遁という条件で、江戸城総攻撃を中止したと言われています。
  薩摩藩の兵学者・伊地知正治は江戸を焦土にする計画を立てますが、勝海舟はその前に市民を逃がし、
  逆に官軍を業火で囲い込む計画を火消しを組の頭・新門辰五郎に打ち明け、協力を要請していました。



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次回の予定
  (未定)

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■企画者〜本庄沙織里・久美より

 私の両親は大の大河ドラマのフアンで、特に幕末維新ものが大好きです。
 印象に残っているのは、昭和52年に放映された『花神』とか。
 維新の立役者のひとり 大村益次郎を主人公に、吉田松陰や高杉晋作が活躍するドラマだったそうです。
 『花燃ゆ』で井伊直弼を演じておられる高橋秀樹さんが越後長岡藩家老・河井継之助を、
 松陰の父・杉百合之助を演じておられる長塚京三さんが、新選組副長・土方歳三を、
 富永有隣を演じておられる本田博太郎さんが、遊撃隊の軍監・高橋熊太郎を、
 そしてナレーターをしておられる池田秀一さんが、長州藩若手リーダーのひとり寺島忠三郎を、
 それぞれ演じておられたとか・・・
 私たちは総集編しか見ることができませんが、それでも高杉晋作を軸に、久坂玄瑞や伊藤博文など、
 維新に活躍した志士達の生きざまが、活き活きと描かれていたのがわかります。
 今回のコースでは、黒船来航から江戸城無血開城まで、幕府の終焉の足跡と諸藩の動きを追います。。
 江戸で起こった政治事件がどのような波紋を投げかけたか、を考えたいと思います。
 『西郷どん』では、長州藩秘密留学生と、薩摩藩秘密留学生の、イギリスでの交流が、頑なな長州・桂小五郎
 (玉山鉄二さん)、薩摩・海江田信義(高橋光臣さん)の心を開き、薩長同盟が成立します。
 遠い異国では、薩摩も長州もなく、助け合っていたというのは史実です!

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※内容は予告なく変更になる場合もあります。
※この旅行は手配旅行となります。
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2018年11月04日(日) 
●旅行代金には下記のものが含まれます*
 *入場料の必要な個所での入場・拝観料
 *ガイド/添乗員費用
  
●旅行代金に含まれないもの
 ・・立会川駅に来られるまで/田町駅で解散以降の交通機関
 ・・前日までに到着される方、解散後の旅行の、交通費・宿泊費・観光費用
 ・・その他、個人的な支払い(電話、FAX、ネット通信費/明記されていないお食事/
   お飲み物)とそれに関わる税金、サービス料






電話でのお問合せは・・・・080−5028−6007 まで
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