head>
異文化体験とホームステイの旅。現地体験型の旅、超個性派の旅ならパームツアー。南太平洋・中南米・中近東・カリブ海・アフリカ・アジア・北米他


海外旅行で異文化体験、ホームステイのパームツアーセンター。 ありきたりの旅ではない、自分らしい旅をしませんか? 世界遺産、変わった遺跡巡り、エコツアーにもこだわりがあります・・・ パームツアーセンターは現地に密着した旅、ディープな旅をプロデュースします!
TOP    会社案内    旅行業約款    店長紹介    お問合せ    FAQ  
 

 
スペシャルプラン
アフリカ 中近東/
北アフリカ/
マルタ
中南米 南太平洋 カリブ海 北米他 アジア その他

トップ現地発着スペシャル【その他】
■ 日本の旅シリーズ
■ 現地発着スペシャル

■ エリアで探す
■ 目的別で選ぶ
  
フォトギャラリー
■ お客様の声
会社案内
ご旅行条件
旅行業約款
ご旅行申込方法
店長ってどんな人?
お問合せ
MSN サーチ

2020(令和2)年11月08日(日)
維新史跡めぐり

第3回(2) 東京〜激動の維新史を歩く
落日の徳川幕府を支えた幕臣たち(その2)
ここがポイント!


第3回(2) 東京〜激動の維新史を歩く

 
落日の徳川幕府を支えた幕臣たち(その2)

■必ず、お電話またはメールでお申し込み下さい■


東京〜激動の維新史を歩く
 <落日の幕府を支えた幕臣たち>


 桜田門外の変で井伊直弼が斃れ、その権威が失墜した徳川幕府。
 一部の外様雄藩の藩士や草莽の志士たちは、幕府を見限り、朝廷に接近し、尊王攘夷運動を展開。
 肥前佐賀藩は幕府とも朝廷とも距離を置き、独自に近代化を図り、藩士に洋楽を学ばせました。
 薩摩藩は生麦事件〜薩英戦争を経て、イギリスに藩士を留学させ、同時に鹿児島に西洋学問所を設置。
 長州藩は紆余曲折あったものの、長州五傑をイギリスに送り、前原一誠らを長崎で学ばせました。
 土佐藩は長崎に商会を設置し、郷士・坂本龍馬は亀山社中を設立、経済の近代化を模索しました。

 しかし、幕府も落日をただただ、眺めていたわけではありません。
 ペリー来航の己丑(きちゅう)以来、海軍力を強化し、迫りくる西洋の圧力に備えようとしていました。
 勝海舟や榎本武揚が学んだ長崎海軍伝習所、築地の軍艦操練所、九段の蕃書調所・・・
 徳川幕府もまた、近代化のための諸施設を開設し、人材の育成に力を注いでいました。
 勝海舟や榎本武揚とともに長崎海軍伝習所で学び、幕府海軍や造船等の中心人物となった人々。
 幕府が諸外国と結んだ条約の批准や、条約の改正などの目的のために渡航した人々。
 一方で、幕府の政策を妨害しようとする不逞の浪士を取り締まった新選組、新徴組、見廻組の人々。
 そして徳川幕府から政権を奪った薩長土肥を中心とする勢力と戦わなければならなかった人々。

 滅びゆく徳川幕府の中で、必死にその権威を守り、日本の近代化に命を懸けた幕臣の墓を訪れます。
 幕府主体で新しい時代を切り開くことを夢見た人々、その時代のために懸命に学んだ人々、
 そして夢破れて明治という薩長土肥の作った時代にひっそりと隠棲した人々に思いをはせます。

 第2回: 湯島〜池之端〜西日暮里〜谷中〜西日暮里
  01. 池之端:  大正寺 (川路聖謨墓)
  02. 西日暮里:  啓運寺 (根津勢吉墓)
  03. 西日暮里:  本行寺 (永井尚志墓)
  04. 谷中:  玉林寺 (河津祐邦墓)
  05. 谷中:  一乘寺 (松岡磐吉墓)
  06. 谷中:  大雄寺 (小杉雅之進/高橋泥舟墓)
  07. 谷中:  全生庵 (山岡鉄舟/松岡万/村上俊五郎/石坂周造/依田雄太郎等/伴貞懿墓)
  08. 谷中:  妙円寺 (伴鐵太郎墓)
  09. 谷中:  宗林寺 (佐々木只三郎歌碑)
 時間が許せば、谷中霊園を少し歩きます。御三卿の墓地や勤王・佐幕両陣営の名士のお墓があります。
 ・・お墓巡りになります。





第3回 東京〜激動の維新史を歩く

 
東京=落日の徳川幕府を支えた幕臣たちが眠る場所

■必ず、お電話またはメールでお申し込み下さい■


◎集 合: 2020年11月08日(日)  10:00

◎代 金: お一人様 4,400円

◎経 路: 徒歩で移動

◎コース: 東京メトロ千代田線・湯島駅・・・池之端・・・谷中・・・西日暮里・・・谷中・・・東京メトロ千代田線・西日暮里駅

◎宿 泊: 当プログラムは日帰りコースです。

◎食 事: 含まれません。下町情緒あふれる地域で、と考えております。


=============================================
<01日目>11月08日(日)
■行程: 東京メトロ千代田線・湯島駅 ・・・史跡めぐり・・・ 東京メトロ千代田線・湯島駅
      ご自身で湯島駅にお越し下さい。
      スケジュールは予告なく変更になる場合もあります)

 ★集合日時: 2020年11月08日(日)10:00
 ★集合場所: 1番出口の外に出た場所で【パームツアーセンター】の看板を持って立っています。

※スタート地点: 東京メトロ千代田線・湯島駅 綾瀬方面ゆきホーム前方の1番出口を出た場所

   ↓
  (徒歩)
   ↓

 ○
大正寺
  宗派:  日蓮宗
  山号:  盛林山
  院号:  −
  創建:  慶長9年(1604年)
  開基:  −
  開山:  円通院日亮が草庵として創建
      
二世本立院日盛聖人の代の寛永8年(1631年)に盛林山・大正寺となる・
  ※日盛聖人が盛林山・大正寺に寺号を改めた年は日蓮上人の350回忌にあたる。
     
   ★
川路聖謨墓
     川路聖謨:  享和元年4月25日(1801年6月6日)〜慶応4年3月15日(1868年4月7日
     幕末の幕臣。官位は従五位下左衛門少尉。豊後国日田の代官所役人の子として生まれながら
     勘定吟味役、佐渡奉行、小普請奉行、大坂東町奉行、勘定奉行、海岸防禦御用係などを歴任した。
     安政元年(1854年)に日露和親条約に調印。安政5年(1858)年には、老中・堀田正睦とともに、
     日米修好通商条約の勅許を得るべく上洛するも、失敗に終わる。安政の大獄の際に左遷される。
     江戸城総攻撃の予定日であった慶応4年3月15日に拳銃自殺をする。外国奉行の井上清直は弟。
     幕府海軍の運営に尽くした根津勢吉・戊辰戦争で官軍と戦った永峰弥吉兄弟はいとこにあたる。

   ↓
  (徒歩)
   ↓

 ○啓運寺
  宗派:  法華宗本門流
  山号:  法要山
  院号:  −
  創建:  元和元年(1615年)
  開基:  ー
  開山:  円往院日立聖人
  ※もとは現・下谷一丁目に建立。元禄11年に現・下谷二丁目に移転。明治18年に現在地に移転。
   寛政9年(1797年)の木像毘沙門天像
や延宝8年(1680年)11月5日銘の庚申塔を所蔵する。
     
   ★
根津勢吉墓
     根津勢吉:  天保10年(1839年)〜明治10年(1877年)
     駿府の代官所の役人の子に生まれる。弟は後に宮崎県知事となる永峰弥吉。従兄に川路聖謨・
     井上清直兄弟がいる。長崎海軍伝習所三期生に選抜。その後、軍艦操練所教授方出役手伝と
     なり、万延元年(1860年)に咸臨丸が渡米した際には見習士官である運用方手伝として乗船。
     慶応2年(1866年)に大番格軍艦役に昇進。戊辰戦争では榎本武揚に従い、蝦夷地へと渡る。
     宮古湾海戦で甲賀源吾が戦死した後、回天艦の艦長となる。降伏・五稜郭開城後は新政府に
     出仕。海軍大尉に任官。江戸幕府から明治政府への転換期に海軍ひとすじに生きた人生だった。
     
   ↓
  (徒歩)
   ↓

 ○本行寺
  宗派:  日蓮宗
  山号:  長久山
  院号:  −
  創建:  大永6年(1526年)
  開基:  太田資高(太田道灌の孫)
  開山:  日玄
  ※もとは江戸城内平河口に建立。江戸時代には神田〜谷中と移転。宝永6年(1709)に現在地に移転。
   
巻菱湖・貫名海屋と並ぶ幕末三筆のひとり市河米庵一家の墓がある。
     
   ★
永井尚志墓
     永井尚志:  文化13年11月3日(1816年12月21日)〜明治24年(1891年)7月1日
     三河国奥殿藩五代藩主・松平乘尹の子として生まれるが、家督はすでにいとこの松平乘羨が
     養子に入って相続していたため、幕臣・永井家に養子に入る。嘉永6年(1853年)に目付として
     登用される。安政元年(1854)年には長崎海軍伝習所の総監理(施設長)として長崎に赴任。
     長崎製鉄所の創設に尽力。その後、岩瀬忠震とともに外国奉行に任じられ、ロシア、イギリス、
     フランスとの交渉に尽力し、通商条約調印を行った。その功績により軍艦奉行に転進するが、
     将軍継嗣問題で一橋派に属したため、安政の大獄で失脚。桜田門外の変後、京都東町奉行、
     翌年には大目付、慶応3年(1867年)には若年寄に出世。幕府が瓦解すると榎本武揚らと共に
     蝦夷地に渡り、箱館政権の箱館奉行を務め、弁天台場で官軍と戦う。五稜郭開城後、明治政府に
     出仕、元老院権書記官等を歴任。官位は従五位下玄蕃頭・主水正。独学で蘭学を会得した逸材。
     
   ↓
  (徒歩)
   ↓

 ○玉林寺
  宗派:  曹洞宗
  山号:  望湖山
  院号:  ー
  創建:  天正19年(1591年)
  開基:  ―
  開山:  用山元照和尚(吉祥寺五世)
  ※慶安元年(1648年)に寺領21石余の御朱印状を拝領したという。昭和の大横綱・千代の富士の菩提寺。

    
   ★
河津祐邦墓
     河津祐邦:  文政4年(1821年)〜明治6年(1873年)
     平安時代から続く名門の出身で、幕末には勘定奉行、関東郡代、長崎奉行、外国事務総裁などの
     重職を歴任。官位は従五位下・伊豆守。清河八郎の浪士隊を再編成した新徴組が組織されると、
     新徴組支配に就任。文久三年(1863年)八月十八日の政変の後、幕府は攘夷の対面を保つため
     横浜鎖港を決め、横浜鎖港談判使節団(遣欧使節)を派遣したが、祐邦は正使・池田筑後守長発の
     副使として渡仏。スフィンクスの前で撮影された写真が残る。横浜鎖港談判は失敗に終わるが、
     長発も祐邦もフランスの国力を痛感し、パリ条約を結ぶ。長崎奉行時代にはキリシタンを弾圧せず
     信仰は心の中で行うよう説諭する等、名奉行として知られる。鳥羽伏見の戦いで幕府が敗れると。
     長崎での勤王諸藩との戦いを避け、秘密裏に奉行所を退所。一族の墓は基壇が高い独特の形。

   ↓
  (徒歩)
   ↓


 ○一乘寺
  宗派:  日蓮宗
  山号:  大法山
  院号:  −
  創建:  天正18年(1590年)
  開基:  −
  開山:  日僚(茂原・妙光寺十七世)
  ※境内に江戸時代中期の漢学者・大田錦城や、歌舞伎役者の嵐芳三郎代々(四世・五世・六世)の墓がある
     
   ★松岡磐吉墓
     松岡磐吉:  天保12年(1831年)〜明治4年7月5日(1871年8月20日)
     伊豆韮山大韓・江川太郎左衛門英龍の家臣の家に生まれ、英龍の小姓をつとめながら、蘭学や
     砲術の手ほどきを受ける。剣をとっては神道無念流の達人。長崎海軍伝習所の第二期生として
     海軍術を学ぶ。卒業後、築地の軍艦操練所で教授方を務めた。安政6年(1859年)には日本初の
     沿海測量を実施して海図を作成。その後、咸臨丸の測量方士官として渡米。帰国後、小笠原諸島
     の領有に尽力する。慶応4年(1868年)8月20日午前零時、榎本武揚等とともに品川沖を脱出。
     箱館戦争終結まで、蟠竜丸の艦長をつとめる。明治2年(1869年)5月11日、新政府との最後の
     海戦で新政府軍の朝暘丸を轟沈させ、敵将・中牟田倉之助(佐賀藩士。後の海軍中将)に重傷を
     負わせた。五稜郭開城後、新政府により辰口糺問所に収監され、獄中にて熱病で死亡した。

   ↓
  (徒歩)
   ↓


 ○大雄寺
  宗派:  日蓮宗
  山号:  長昌山
  院号:  −
  創建:  慶長9年(1604年)
  開基:  日達聖人が開基となり、神田土手下に創建。
  開山:  同上
  ※もとは神田土手下に建立。万治元年(1658年)当地に移転。伊豆玉沢妙法華寺末の江戸触頭という。

     
   ★小杉雅之進墓
     小杉雅之進:  天保14年10月1日(1843年11月22日)〜明治42年8月21日(1909年)
     
小杉雅之進は、長崎海軍伝習所の第三期生に選抜され、オランダ人教官より機関学を学んだ。
     卒業後は、築地の軍艦操練所の教授方手伝となり、安政七年(1860年)の咸臨丸渡米の際には、
     蒸気方見習士官を勤めた。慶応3年(1867年)軍艦蒸気役一等に進み、幕府海軍旗艦・開陽丸の
     機関長を説止めた。榎本武揚等とともに品川沖を脱走。箱館政権における江差奉行並を務める。
     五稜郭開城後、東京にて収監されるが明治7年(1874年)に赦免。明治政府で海事行政を担当。
     箱館政権幹部の写真で、榎本対馬守の左に映っているが、最近、別人説が人気を呼んでいる。

   ★
高橋泥舟墓:  幕末の三舟
     高橋泥舟:  天保6年2月17日(1835年3月15日)〜明治36年(1903年)2月13日
     旗本・山岡正業の次男として江戸に生まれる。母の実家・高橋家の養子になった後で、長兄の
     山岡静山が早世。妹の英子の婿養子として小野鉄太郎が迎えられ、山岡鉄太郎(鉄舟)となる。
     そのため、山岡鉄舟は義弟にあたる。生家の山岡家は槍の自得院流の名家であり、泥舟もまた
     槍の名人となる。講武所の槍術教授方出役を務め、後に槍術師範役に進む。文久2年(1862年)
     徳川慶喜に供奉して上洛。浪士組が結成されると浪士取締役となり、従五位下伊勢守に叙任。
     慶応2年(1866年)に設立された遊撃隊の頭取となり、槍術教授頭取を兼任。鳥羽伏見の戦いで
     敗れて帰京した徳川慶喜に恭順を説く。勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち、山岡鉄舟と西郷の
     会談が駿府で行われたが、当初、泥舟が西郷と会うだんどりであったが、江戸の治安悪化を懸念。
     山岡鉄舟を自分の代理として推薦した。最後まで主君・徳川慶喜に忠義を尽くした人生であった。

   ↓
  (徒歩)
   ↓

 ○全生庵
  宗派:  臨済宗国泰寺派
  山号:  普門山
  院号:  ー
  創建:  明治16年(1883年)
  開基:  山岡鉄舟
  開山:  越叟
  ※
山岡鉄舟が、幕末維新に殉じた人々の菩提を弔う目的で創建。三遊亭圓朝の墓がある。
    
   ★山岡鉄舟墓:  幕末の三舟
     山岡鉄舟:  天保7年6月10日(1836年7月23日)〜明治21年(1888年)7月19日
     飛騨郡代・小野高福を父に、鹿島神宮神職・塚原石見(剣聖・塚原卜伝の子孫)の次女を母に生まれ。
     幼少期を飛騨高山で暮らす。代々部門の家柄で、鉄舟も9歳から剣を学び、また学問に打ち込んだ。
     嘉永5年(1852年)、父の死去に伴い、江戸に戻り、剣(北辰一刀流)の師である井上清虎の援助で
     安政2年(1855年)講武所に配流。また、千葉周作に剣を、山岡静山に槍を学んだ。静山急死の後、
     静山の弟である高橋泥舟に望まれ、山岡家の婿養子となって家を継いだ。出羽浪人・清河八郎ら
     15人と、尊王攘夷結社『虎尾の会』を結成。清河八郎が上洛する将軍・家茂の警護の目的で浪士組を
     結成すると、親友の中条金之助(維新後、静岡牧之原の茶畑開墾)とともに浪士組取締役となって
     上洛するが、清河が浪士組を将軍警護ではなく、攘夷実行の目的に利用しようとしたことで幕府は
     浪士組を江戸に召喚。鉄舟は謹慎処分となった。鳥羽伏見の戦いで幕府が敗れると、朝敵となった
     前将軍・徳川慶喜討伐のため、官軍が進軍を開始。勝海舟と官軍参謀・西郷隆盛の会談に先立って、
     駿府に赴き西郷と談判し、江戸城無血開城のお膳立てをしたことで一躍、その名を轟かせた。
     維新後は宮中に侍従として10年務め、その後、幕末維新に殉じた人々を弔うため全生庵を建立。
     幕府で大目付、明治政府で侍従を務め、多くの弟子や上司、同僚、部下から慕われた人生だった」。

   ★
松岡万墓
     松岡萬:  天保9年(1838年)〜明治24年(1891年)3月17日
     鷹匠組頭の子に生まれるが、尊王攘夷運動に共鳴し、頼山陽の息子・頼三樹三郎の弟子となり、
     尊王攘夷思想を学ぶ。安政の大獄で頼が処刑されると、片腕を盗み出し、神棚に捧げたという。
     清河八郎の尊王攘夷論に感化され、同志15名と『虎尾の会』を結成。浪士組が結成されると彼も
     山岡鉄舟や中条金之助らと共に浪士組取締役に就任。清河八郎が失脚・粛清されると万もまた
     謹慎となる。維新後、前将軍・徳川慶喜が謹慎していた水戸藩から駿府藩に移されることになると
     供奉した。官軍による咸臨丸乗組員惨殺事件が起きると、土地の侠客・清水の次郎長が、咸臨丸
     の乗組員を手厚く葬った。官軍に遠慮した駿府藩は、万に次郎長の取り調べを命じた。次郎長の
     『仏さんには敵味方なぞない』という言葉に感銘を受けた万は、次郎長を咎めることをしなかった。

   ★
村上俊五郎墓
     村上俊五郎:  天保5年(1834年)〜明治34年(1901年)6月21日
     阿波国美馬郡貞光村出身。大工の子とも、建具師の子とも言われる。剣術に天賦の才があり、
     学問にも造詣があり、また、阿波人形浄瑠璃の三味線もよくしたというが、粗暴な性格であったと
     言われる。下総佐原で道場を開き、剣術を教えていたが、後に石油王となる石坂周造と知り合い、
     江戸に出て『虎尾の会』に入会。清河八郎が御用聞きを斬殺して指名手配されると地下に潜伏。
     浪士組が結成されると道中目付と六番組小頭を兼任。浪士組上洛の途、近江の草津の宿場にて
     後に新選組総長となる山南敬助に「隊士の横暴が目に余るので規律を守らせるように」と叱責を
     したことで山南敬助と大喧嘩になり、上司・鵜殿鳩翁に仲裁される。幕臣というには微妙な立場で
     あるが、維新前後は勝海舟の秘書のような存在となり、海舟の妹・瑞枝と同棲。上野戦争の際に
     勝家を辞し、後に山岡鉄舟の秘書となり、鉄舟に心酔。鉄舟死去の際は殉死を心配されたという。

   ★
石坂周造墓
     石坂周造:  天保3年1月1日(1832年2月2日)〜明治36年(1903年)5月22日
     信濃国水内郡桑名川村で生まれたとされるが、本人は江戸・両国の生まれだと周囲に語った。
     複雑な家庭に生まれたとされ、生まれてから養子先を転々としたとされる。一説には鍼医者・
     石坂宗哲の養子になったともいわれている。幕末期は勤王の志士として活躍し、後に明治の
     石油王と言われた周造だが、生い立ちに関しては本人が多くを語らなかったため、幼少期の
     詳細は不明である。村上俊五郎と知り合い、江戸で清河八郎の「虎尾の会」に入会。尊王攘夷
     運動に身を投じる。浪士組が結成されると、頭取の一人に任ぜられた。後に浪士組から離脱し
     新選組を結成する芹沢鴨や近藤勇、山南敬助等とは確執があったという。幕府を欺き、幕府の
     予算で浪士組を結成し、それを尊王攘夷運動に利用とした盟主・清河八郎は江戸に召喚された
     後、佐々木只三郎等に粛清されたが、その際、周造は機転をきかせ、首級と連判状を奪還した。
     その直後、下総佐原にて幕吏に逮捕され、明治維新までの5年間を獄中ですごした。明治以降は
     石油事業で成功をおさめ、石油王と呼ばれるようになる。山岡鉄舟とは幕末以来の親交があった。

   ★
原市之進暗殺者の墓
     徳川慶喜の腹心であった原市之進は、水戸に生まれ、たいへん優秀な人物であったといわれる。
     出向のような形で徳川慶喜の家臣になると、慶喜の行う様々な政治運動に手足となって働いた。
     兵庫開港は原市之進の根回しがあったとも言われるが、その能吏ぶりを奸臣であると誤解され、
     慶応3年8月14日(1867年9月11日)、京都で暗殺される。その刺客と同志の墓が全生庵にある。
     幕臣・鈴木恒太郎の弟の鈴木豊次郎、幕臣・依田雄太郎は、原市之進の役宅で彼を暗殺した。依田
     雄太郎は原市之進の家臣に討たれ、豊次郎は二条城付近の老中・板倉勝静の役宅前で自刃した。
     全生庵に墓があるのは、刺客や同志が山岡鉄舟や義兄の高橋泥舟の弟子だったからと思われる。
     ・・依田雄太郎:  天保15年2月21日(1844年4月8日)〜慶応3年8月14日(1867年9月11日)
      高橋泥舟に槍、山岡鉄舟に剣術を学ぶ。講武所で槍術を教える。浪士組取締役並出役も務めた
     ・・鈴木恒太郎:  天保8年(1837年)〜慶応3年8月16日頃(1867年9月13日頃)
      高橋泥舟に槍、山岡鉄舟に剣術を学ぶ。蕃書調所下番を務める。原市之進の斬奸趣意書を提出。
      弟の豊次郎が、依田雄太郎とともに暗殺の実行犯となる。恒太郎は実行犯二人に代わって老中・
      板倉勝静に自首。2日後に自刃した。他に、木村久之丞、笠原八雲、清水武次郎が事件に連座した。

   ★
伴貞懿墓
     伴貞懿:  天保10年4月8日(1839年5月20日)〜慶応4年5月15日(1868年7月4日)
     武州足立郡蕨宿の名主・岡田平左衛門の三男として生まれる。叔父にあたる伴経三郎貞栄が養育。
     叔父の養子となり、伴門五郎と名乗る。柳剛流剣術の岡田十内に剣を学ぶ。将軍・徳川家茂に供奉、
     上洛し、長州征討にも従軍。陸軍調役並に進む。慶応4年(1868年)3月に、主君・徳川慶喜が朝敵と
     なるとそれに反発。彰義隊を組織すると副頭取に就任する。彰義隊は、あくまでも将軍・徳川慶喜の
     護衛であるとし、主君と同様の恭順をすべきと訴えるが失敗し、上野戦争が勃発。山内で戦死した。

   ↓
  (徒歩)
   ↓

 ○妙円寺
  宗派:  日蓮宗
  山号:  円往山
  院号:  −
  創建:  慶長4年(1599年)
  開基:  −
  開山:  円往院日如
  ※
元禄16年(1703年)に元禄大地震の際に被災され、現在地に移転した。
     
   ★
伴鐵太郎墓
     伴鐵太郎:  文政8年(1825年)〜明治35年(1902年)8月7日
     先手与力・桜井家に生まれる。御徒士の伴家の養子となる。嘉永4年(1851)に養父から御徒を
     引き継ぐ。安政3年(1856年)、箱館奉行支配調役並に任ぜられた。長崎海軍伝習所の二期生と
     なり、オランダ人教官に測量等を学ぶ。後に築地軍艦操練所教授方出役に任ぜられ、務めた。
     安政7年(1860年)には咸臨丸に測量方として乗船し、渡米する。帰国後、小十人格軍艦操練所
     教授方頭取出役に就任。文久元年(1861年)には両番上席軍艦頭取に進む。翌年には幕府軍艦・
     朝暘丸の艦長を命ぜられ、小笠原諸島開拓に参加した。その際、前述の根津勢吉、小杉雅之進を
     配下にしていた。慶応4年(1868年)には軍艦頭に進んだ。維新後、徳川家に従って駿府に移住。
     沼津兵学校一統教授を務め、後進の育成に尽力する。明治5年(1872年)、明治政府海軍に呼ばれ、
     水路局長・柳楢悦の副官となる。後、勝海舟や木村芥舟とともに『海軍歴史』の編纂にも加わった。
     鐵太郎の墓は妙円寺の無縁墓地にある。表に伴家先祖代々・・・ 側面に伴鐵太郎の文字が読める。

   ↓
  (徒歩)
   ↓

 ○宗林寺
  宗派:  日蓮宗
  山号:  妙祐山
  院号:  ー
  創建:  斎藤宗林(徳川家康家臣)
  開基:  ー
  開山:  玄龍院日辰
  ※はじめ付中に創建され、家康の江戸入府に伴い、慶長年間に神田昌平橋外に土地を与えられ移転、
   その後、上野東寺町に移転、元禄14年に現在の場所に移転。舟守祖師を祀る。
     
   ★
佐々木只三郎歌碑
     佐々木只三郎:  天保4年(1833年)〜慶応4年1月12日(1868年2月5日)
     佐々木只三郎は会津藩士・佐々木源八の三男として生まれる。兄に会津藩士・手代木直右衛門
     (勝任)が、弟には京都見廻組の佐々木源四郎がいる。只三郎は親戚の旗本・佐々木弥太夫の
     養子となる。剣術界に会津五流のひとつとうたわれる神道精武流を羽嶋源太に学んで取得し、
     『小太刀日本一』と称され、講武所の剣術師範も務めたという。また、槍、手裏剣の名人であったと
     言われる。和歌をよくし、歌人としても知られている。清河八郎が浪士組を結成すると、御目付の
     役目を担い、上洛に同道。清河の変節により京都に残留した近藤勇たちを兄をつてに会津藩主で
     京都守護職・松平容保に引き合わせ、新選組発足への足掛かりを作った。のち、江戸に帰還すると
     幕命により清河八郎を粛清。さらに見廻組として京都の治安維持に努めた。禁門の変で活躍し、
     慶応3年11月15日、坂本龍馬・中岡慎太郎を京都四条河原町・近江屋に襲撃したと言われている。
     戊辰戦争では徳川方として鳥羽伏見の戦いに出陣。被弾して戦線離脱。紀三井寺で亡くなった。
     宗林寺には墓はなく、歌碑のみが残されているが、いつ、だれが建碑したか、謎と言われている。

   ↓
  (徒歩)
   ↓

※ゴール地点: 東京メトロ千代田線・西日暮里駅(解散) 

※谷根千ぶらり歩きをご希望の方は、解散後、実費にてご案内します。
 なつかしグッズのショップ、美術ギャラリーや、カフェなど、昭和情緒を満喫できます。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 <
次回の予定
  谷中霊園を中心としたエリアを散策します。

================================================


■企画者〜本庄沙織里・久美より

 私の両親は大の大河ドラマのフアンで、特に幕末維新ものが大好きです。
 同時に、幕末維新を描いた映画やドラマスペシャルなども視聴しています。
 山岡鉄舟は、江戸城無血開城を描いたドラマでは必ずといってよいほど、出てきます。
 『篤姫』のときは、篤姫付老女・幾島(松坂慶子さん)にその役割が集中していましたが・・・
 駿府の官軍本営に「朝敵・徳川慶喜が家臣、山岡鉄太郎まかりとおる!」と名乗ったことは有名です。
 西郷隆盛相手に一歩も引かず、最終的に慶喜の処遇を徳川方に有利に運ぶ、大きな役割です。
 清河八郎の策に乗せられたのも、彼の純粋で律儀な性格が影響したのかもしれません。
 本来、格式も禄高も上である小野家の長男が、山岡家に婿養子に入ったのも、師に対する報恩の気持ちから。
 生涯を禅と剣と書に生きた鉄舟の足跡をたどり、彼や同志の見た時の流れを追ってゆきたいと思います。
 
================================================================================================

※内容は予告なく変更になる場合もあります。
※この旅行は手配旅行となります。
 
============================================================================

 2020年11月08日(日)
 
●旅行代金には下記のものが含まれます*
 *入場料の必要な個所での入場・拝観料
 *ガイド/添乗員費用
  
●旅行代金に含まれないもの
 ・・新大塚駅駅に来られるまで/本駒込駅で解散以降の交通機関
 ・・前日までに到着される方、解散後の旅行の、交通費・宿泊費・観光費用
 ・・その他、個人的な支払い(電話、FAX、ネット通信費/明記されていないお食事/
   お飲み物)とそれに関わる税金、サービス料






電話でのお問合せは・・・・080−5028−6007 まで
▲TOPへ