head>
異文化体験とホームステイの旅。現地体験型の旅、超個性派の旅ならパームツアー。南太平洋・中南米・中近東・カリブ海・アフリカ・アジア・北米他


海外旅行で異文化体験、ホームステイのパームツアーセンター。 ありきたりの旅ではない、自分らしい旅をしませんか? 世界遺産、変わった遺跡巡り、エコツアーにもこだわりがあります・・・ パームツアーセンターは現地に密着した旅、ディープな旅をプロデュースします!
TOP    会社案内    旅行業約款    店長紹介    お問合せ    FAQ  
 

 
スペシャルプラン
アフリカ 中近東/
北アフリカ/
マルタ
中南米 南太平洋 カリブ海 北米他 アジア その他

トップ現地発着スペシャル【その他】
■ 日本の旅シリーズ
■ 現地発着スペシャル

■ エリアで探す
■ 目的別で選ぶ
  
フォトギャラリー
■ お客様の声
会社案内
ご旅行条件
旅行業約款
ご旅行申込方法
店長ってどんな人?
お問合せ
MSN サーチ

2020(令和2)年11月15日(日)
維新史跡めぐり

第3回(3) 東京〜激動の維新史を歩く
落日の徳川幕府を支えた幕臣たち(その3)
ここがポイント!


第3回(3) 東京〜激動の維新史を歩く

 
落日の徳川幕府を支えた幕臣たち(その3)

■必ず、お電話またはメールでお申し込み下さい■


東京〜激動の維新史を歩く
 <落日の幕府を支えた幕臣たち>


 桜田門外の変で井伊直弼が斃れ、その権威が失墜した徳川幕府。
 一部の外様雄藩の藩士や草莽の志士たちは、幕府を見限り、朝廷に接近し、尊王攘夷運動を展開。
 肥前佐賀藩は幕府とも朝廷とも距離を置き、独自に近代化を図り、藩士に洋楽を学ばせました。
 薩摩藩は生麦事件〜薩英戦争を経て、イギリスに藩士を留学させ、同時に鹿児島に西洋学問所を設置。
 長州藩は紆余曲折あったものの、長州五傑をイギリスに送り、前原一誠らを長崎で学ばせました。
 土佐藩は長崎に商会を設置し、郷士・坂本龍馬は亀山社中を設立、経済の近代化を模索しました。

 しかし、幕府も落日をただただ、眺めていたわけではありません。
 ペリー来航の己丑(きちゅう)以来、海軍力を強化し、迫りくる西洋の圧力に備えようとしていました。
 勝海舟や榎本武揚が学んだ長崎海軍伝習所、築地の軍艦操練所、九段の蕃書調所・・・
 徳川幕府もまた、近代化のための諸施設を開設し、人材の育成に力を注いでいました。
 勝海舟や榎本武揚とともに長崎海軍伝習所で学び、幕府海軍や造船等の中心人物となった人々。
 幕府が諸外国と結んだ条約の批准や、条約の改正などの目的のために渡航した人々。
 一方で、幕府の政策を妨害しようとする不逞の浪士を取り締まった新選組、新徴組、見廻組の人々。
 そして徳川幕府から政権を奪った薩長土肥を中心とする勢力と戦わなければならなかった人々。

 滅びゆく徳川幕府の中で、必死にその権威を守り、日本の近代化に命を懸けた幕臣の墓を訪れます。
 幕府主体で新しい時代を切り開くことを夢見た人々、その時代のために懸命に学んだ人々、
 そして夢破れて明治という薩長土肥の作った時代にひっそりと隠棲した人々に思いをはせます。

 第3回: 西日暮里〜谷中〜西日暮里
  01. 谷中 長命寺:  一色直温墓
  02. 天王寺墓地:  村垣範正墓
  03. 天王寺墓地:  河田貫堂墓
  番外 天王寺墓地:  大野右仲墓
  04. 安立院:  淺野長祚墓
  05. 谷中霊園:  藤沢次謙墓
  06. 谷中霊園:  川勝広運墓
  07. 谷中霊園:  平山敬忠墓
  08. 谷中霊園:  小永井五八郎墓
  09. 谷中霊園:  古屋佐久左衛門墓
  10. 谷中霊園:  高松凌雲墓
  11. 谷中霊園:  津田真道墓
  12. 谷中霊園:  渋沢栄一
 時間が許せば、谷中霊園を少し歩きます。御三卿の墓地や勤王・佐幕両陣営の名士のお墓があります。
 ・・お墓巡りになります。





第3回 東京〜激動の維新史を歩く

 
東京=落日の徳川幕府を支えた幕臣たちが眠る場所

■必ず、お電話またはメールでお申し込み下さい■


◎集 合: 2020年11月15日(日)  10:00

◎代 金: お一人様 3,300円

◎経 路: 徒歩で移動

◎コース: 東京メトロ千代田線・根津駅・・・・谷中・・・東京メトロ千代田線・西日暮里駅

◎宿 泊: 当プログラムは日帰りコースです。

◎食 事: 含まれません。下町情緒あふれる地域で、と考えております。


=============================================
<01日目>11月15日(日)
■行程: 東京メトロ千代田線・根津駅 ・・・史跡めぐり・・・ 東京メトロ千代田線・西日暮里駅
      ご自身で根津駅にお越し下さい。
      スケジュールは予告なく変更になる場合もあります)

 ★集合日時: 2020年11月15日(日)10:00
 ★集合場所: 根津交差点方面改札口を出た場所で【パームツアーセンター】の看板を持って立っています。

※スタート地点: 東京メトロ千代田線・根津駅 根津交差点方面改札口を出た場所

   ↓
  (徒歩)
   ↓

 ○
長明寺
  宗派:  日蓮宗
  山号:  日照山
  院号:  −
  創建:  慶長14年(1609年)
  開基:  蓮光院殿日照禅尼(志村八兵衛尉夫の妻女)
  開山:  在天院日長
  ※大正年間(1912年〜1926年)に谷中・正運寺を合併した。
   会津戦争で娘子隊の副長として活躍した平田小蝶の墓がある。
     
   ★
一色直温墓
     一色直温:  生没年不詳
     幕末の幕臣。官位は従五位下山城守、摂津守。室町幕府の将軍家であった足利氏の支流である
     一色氏の末裔。天保14年11月(1843年12〜1844年1月)に小納戸、同年12月(1844年1〜2月)には
     小姓となる。弘化2年6月(1845年7〜8月)に使番を勤め、嘉永5年5月(1852年6〜7月)には目付
     (御勝手掛・海防掛)と進み、安政元年6月(1854年6〜7月)の幕政改革で軍政改正御用掛を拝命。
     安政4年(1857〜1858)に大目付・土岐頼旨、井戸覚弘、目付・鵜殿鳩翁と共に琉球人参府御用掛を
     務めた。安政5年(1858年)には堺奉行、大坂東町奉行、万延2年1月(1861年2〜3月)には勘定奉行、
     同年10月には外国奉行を歴任。薩摩藩が起こした生麦事件の事後処理に、津田近江守正路と共に
     あたる。文久3年(1863年)には幕臣の身分のまま一橋家家老となり、さらに目付、書院番頭と進む。
     慶応2年(1866年)には製鉄所奉行を古賀筑後守茶渓と共に務め、明治維新を迎える。たいへんに
     能吏であったが、明治政府には仕官せず、悠々自適の晩年を過ごす。生没年は未詳で現在、調査中。

   ↓
  (徒歩)
   ↓

 ○天王寺: 
  宗派:  法華宗→天台宗
  山号:  長耀山→護国山(天保4年=1833年)護国山天王寺となる。
  院号:  尊重院
  創建:  文永11年(1274年)
  開基:  関小次郎長耀が、鎌倉と安房を往復する日蓮に宿を提供した縁で日蓮に帰依し、草案を結んだ。
  開山:  日源(日蓮の弟子)が法華曼荼羅を勧請して開山
  ※かつて、周辺のランドマークとして親しまれた五重塔があった。明和の大火(1772年)で焼失したが、
   寛政3年(1791年)に再建。彰義隊と新政府軍との上野戦争、関東大震災、東京大空襲にも耐えたが
   昭和32年(1957年)の谷中五重塔放火心中事件により、灰燼に帰した。
  ※谷中霊園の大部分は天王寺の伽藍だった場所。天王寺墓地は、その中におさまるように残っている。
     
   ★
村垣範正墓
     村垣範正:  文化10年9月24日(1813年10月17日)〜明治13年(1880年)3月15日
     江戸築地で、旗本・村垣範行の次男として生まれる。村垣家は御庭番の家柄であったが、祖父の
     定行は松前奉行や勝手掛勘定奉行を歴任し、その功もあって範正は小十人格庭番、細工頭、賄頭、
     勘定吟味役と、着実に出世を重ねていった。海防係・蝦夷地掛を拝命するや、蝦夷地および樺太の
     巡視を行い、日露両国国境を確認した。安政元年(1854年)にロシアのプチャーチン艦隊が再来日。
     範正は、筒井政憲、川路聖謨等と共にロシア使節応接係として伊豆下田に赴任した。翌年以降、箱館
     表御用、内海台場普請ならびに大筒鋳立大船其多製造御用、東海道筋川々普請掛などを歴任した。
     安政3年7月(1856年8月)には箱館奉行となり、従五位下・淡路守に任官。蝦夷地の調査や開拓事業、
     移民奨励などに尽力。同時にアイヌの間に蔓延していた天然痘撲滅のため、幕府に働きかけ種痘を
     実現。安政の大獄で岩瀬忠震が左遷されると後任の外国奉行を拝命。さらに神奈川奉行を兼任。
     万延元年遣米使節が派遣される際には副使に抜擢。ハワイ、サンフランシスコ、パナマを経由して
     ワシントンDCに赴き、米国大統領ブキャナンと会見。帰国後、プロイセンとの日普修好通商条約を
     締結するが、それは前任者・堀織部正利煕が謎の自刃を遂げたためであった。文久3年(1863年)、
     第一線を退き、作事奉行や西丸留守居等の名誉職に就任し、慶応4年に致仕。晩年は淡叟と号して
     隠棲し、悠々自適の晩年を東京で過ごした。能吏であったが、明治政府に仕官することはなかった。
     


   ★河田貫堂墓
     河田貫堂:  天保6年(1835〜1836年)〜明治33年(1900年)3月11日
     儒者としても知られる河田貫堂(河田煕)は、幕末、官吏としても活躍した。父は儒者として高名な
     佐藤一斎の愛弟子・河田迪斎、母は佐藤一斎の娘という儒学者一家に育つ。安政6年家督を継ぐ。
     文久2年(1862年)には外国奉行支配組頭、翌年には目付に就任。文久遣欧使節の派遣が決まると
     正使・池田筑後守長発/副使・河津伊豆守祐邦の随行員として渡仏。元々の目的は、朝廷を中心と
     した攘夷論に圧され、既に開港した横浜を再度、鎖港するための談判であったが、貫堂はフランスの
     国力に驚き、逆に門戸を開いて(開国)西洋文明を取り入れることを提言したため、一時、免職される。
     しかし、激動の時代、人材不足に悩む幕府は、能吏である貫堂を陸軍奉行、開成所頭取、目付(再任)、
     大目付として登用した。維新後、徳川宗家十六代・家達が駿府に封ぜられると、同行。静岡藩少参事を
     勤めた。主君・徳川家達が渡欧した際には共にイギリスに渡り、帰国後は徳川宗家の教育係となった。

   ∴番外編: 大野右仲墓
     大野右仲:  天保7年12月8日(1837年1月14日)〜明治44年(1911年)6月11日
     唐津藩士の子として生まれる。21歳より昌平坂学問所にて学ぶ。唐津藩の世子でありながら老中を
     務めた主君・小笠原長行からの信頼は厚かったようである。戊辰戦争が勃発すると、長行に従って
     会津に入る。また、旧知の長岡藩家老・河井継之助のもとを訪れた際、長岡戦争の切っ掛けとなった
     小千谷の慈眼寺における河井と土佐藩出身の官軍軍監・岩村精一郎(高俊)との談判に居合わせた。
     会津戦争で負傷して療養中の土方歳三を訪ね、会津戦争の戦況を取材。その縁もあってか、仙台で
     新選組に入隊。以降、土方歳三の直属の部下としてともに蝦夷地に渡る。箱館政権では安富才助と
     ともに陸軍奉行並添役として土方歳三をよく補佐した。土方歳三の戦死を新選組最後の局長となる
     相馬主計に伝え、その後、弁天台場にて降伏したという。降伏後、赦免さえると新政府に仕官した。
     久美浜県権参事や、豊岡県権参事、千葉や長野や青森の県庁に努めた。新選組は幕臣であるが、
     大野右仲は幕府が瓦解してから入隊したので、厳密には幕臣ではなく、陪臣ではあるが、新選組に
     あって幕臣さながらに新政府に対して意地を通したこと、その生涯を以て、幕臣に準ずるとする。


   ↓
  (徒歩)
   ↓

 ○安立院
  宗派:  曹洞宗(単立寺院)
  山号:  −
  院号:  安立院
  創建:  不詳。
  開基:  不詳
  開山:  不詳
  ※文政年間の記録では、天王寺の塔頭であったという。山門を入り、右手に同院の墓地がある。
     
   ★
淺野長祚墓:  あさのながよし
     淺野長祚:  文化13年6月9日(1816年7月3日)〜明治13年(1880年)2月17日
     江戸飯田町に、家禄3500石の大身旗本・淺野長泰の子として生まれる。元禄赤穂事件で有名な
     淺野氏の支流である家原淺野家に連なる家系。幼少期、父より漢詩、和歌、俳句の手ほどきを受け、
     書画の造詣を深めた。妻は出羽亀田藩主・岩城隆喜の三女・直子。使番、目付、甲府勤番支配を歴任。
     甲府勤番支配時代には甲府の幕府学問所・徽典館(山梨大学の前身)を拡大、資質を高めた。さらに
     先手鉄砲頭、浦賀奉行、京都西町奉行、禁裏造営掛を務めた。日米修好通商条約の締結の際には、
     朝廷工作の工作員として川路聖謨,や岩瀬忠震とともに上洛するが、失敗する。将軍継嗣問題では、
     一橋(徳川)慶喜派とみなされ、大老井伊直弼によって小普請奉行に左遷された上、免職となった。
     桜田門外の変の後、寄合から寄合肝煎に進み、江戸北町奉行を勤めた。文久3年(1863年)になると、
     第一線を退き、作事奉行や西丸留守居等の名誉職に就任し、慶応3年に致仕。晩年は向島に、後に
     入谷に居み、詩文・書画の世界で名を成した。能吏であったが、明治政府に仕官することはなかった。
     
   ↓
  (徒歩)
   ↓

 ○谷中霊園
  ※かつては感応寺(現在の天王寺)の寺域の一部で、江戸時代には江戸の三大富くじの会場のひとつで
   あった。
都立霊園の谷中霊園、天王寺墓地、寛永寺墓地のほか、天王寺塔頭や近隣寺院の墓地が入り
   組んだ状態になっている。御三卿の田安徳川家、一橋徳川家、清水徳川家の墓地のほか、徳川慶喜家、
   備後国福山藩・阿部家、伊予国宇和島藩・伊達家等の墓地も存在する。徳川幕府ゆかりの人々の墓の他、
   薩長土関連の人々の墓もある。最近、無縁墓の整理により、旧会津藩士・日下義雄や井深元治等の墓が
   撤去された。谷中霊園は、甲地区と乙地区に分かれ、それぞれに墓域を示すエリア番号がふられている。
    
   ★
藤沢次謙墓
     藤沢次謙:  天保6年4月11日((1835年5月8日)〜明治14年(1881年)5月2日
     幕府奧医師・桂川甫賢の三男として生まれる。長兄は奧医師で蘭学者の桂川甫周(桂川家七代目
     当主)、姉に大奥長局での大火災の際に主君である大奥御年寄・花町を救出するために殉職した
     桂川てや、次兄は洋学者・化学者・医師として活躍して桂川家八代当主となった桂川甫策、甫周の
     妻の弟に木村介舟がいる。19歳で江川太郎左衛門担庵の縄式館に入門する。文久2年(1862年)に
     2000石の旗本・藤沢九太夫の養子となる。元治元年(1864年)には水戸の天狗党の鎮圧に赴くも
     失敗。慶応2年(1866年)に軍艦奉行となるが、将軍・徳川慶喜が大政奉還。翌・慶応4年(1868年)、
     陸軍総裁・勝海舟の次官にあたる陸軍副総裁に任命された。学者肌であり、優れた軍事教官でも
     あった次謙は、兵学校が兵部省の管轄に移る際、薩長土肥の風下に建つことを嫌って退官した。
     明治維新後は東京に住まい、蘭学、兵学、武術、書、絵画に興じて悠々自適の生活であったという。
     能吏であったが、明治政府に仕官することはなかった。幕臣時代は、従五位下志摩守を任官した。

   ↓
  (徒歩)
   ↓


   ★川勝広運墓
     川勝広運:  文政11年((1828年)〜明治8年(1875年)6月29日
     越前勝山藩の第七代藩主・小笠原長貴の五男として生まれ、嘉永四年(1851年)に旗本・川勝家の
     養子となった。川勝氏は、聖徳太子に臣従した豪商・秦河勝の子孫とされ、ルーツは3〜7世紀に
     大陸から渡来した帰化人のグループの族長であったという。文久2年4月8日(1862年5月6日)、
     小栗忠順に推挙され、小姓組兼講武所砲術教授方出役から目付、さらに7月には勘定奉行勝手方、
     閏8月3日には政事改革御用掛を拝命。勘定奉行兼務となった。文久3年8月14日(1863年9月14日)
     陸軍奉行並となり、約一年務め、元治元年8月19日(1864年9月19日)に寄合となった。慶応元年
     7月10日(1864年8月30日)長崎奉行並となり、月末まで務める。同年11月26日(1866年1月12日)に
     大目付に就任し、京都詰となる。滝川具挙とともに長州征討の参謀役を務めた。慶応3年6月17日
     (1867年7月18日)には若年寄並となる。鳥羽伏見の戦いの後は、恭順派の中心人物として勝海舟、
     大久保一翁等とともに江戸城無血開城への道をひらいた。維新後は、東京府知事となった大久保
     一翁のもとで東京府参事を勤めた。明治5年9月12日(1872年10月14日)、新橋⇔横浜間の鉄道
     開通式の当日、明治天皇の乗られた馬車を、東京府知事代理兼参事・川勝広運が騎馬で先導した。
     官位は従五位下丹波守、美作守、備後守に叙任された。奉行から大目付〜若年寄まで進んだ逸材。
     彼の経歴からは幕臣時代〜明治初期の能吏ぶりがうかがわれるが、茶人としても名を為した。

   ↓
  (徒歩)
   ↓


   ★
平山省斎(平山敬忠)墓:  
     平山省斎:  文化12年2月19日(1815年3月19日)〜明治23年(1890年)5月22日
     陸奥国三春藩士の子として生まれ、20歳のとき江戸に出て叔父で奥祐筆組頭・武村七左衛門の
     屋敷に寄宿し、漢学、国学を修めた。安政元年(1854年)ペリーが再来日した折には応接係になる。
     松前蝦夷地用掛・堀利煕に随行して陸奥国三厩に滞在した際には、急遽、箱館に赴き、遊歩区域
     協定を強談判に及んだペリーに対し、NOと突っぱねたエピソードで知られる。安政2年(1855年)
     下田表御用の功によって時服二襲を賜る。安政4年(1857年)には蕃書調所設置に尽力したことを
     労われた。長崎奉行・水野忠徳に従って長崎に赴き、日露追加条約を審議。安政の大獄の折には
     一橋派と目されたため、罷免された。慶応元年(1865年)には二ノ丸留守居から目付へと進んだ。
     第二次長州征討の際には、老中・小笠原長行の小倉口陣営にあった。小倉藩からの援軍の要請を
     時すでに遅しと却下。小倉藩は奇兵隊を中心とした長州軍の猛攻に耐えかねて、小倉常に火を
     放って退却してしまった。一橋家の徳川慶喜が将軍に就任すると、側近として慶喜を補佐した。
     鳥羽伏見の戦いの後、新政府軍に対し徹底抗戦を訴え、免職となった。官途は従五位下図書頭。
     維新後、駿府に移住した主君・徳川慶喜に従って静岡に移ったが、後半生は神官として活躍した。

   ↓
  (徒歩)
   ↓


   ★
小永井五八郎墓:  
     小永井五八郎:  文政12年(1829年)〜明治21年(1888年)12月10日
     下総佐倉の重役の家(平野家)に生まれる。若くして江戸に遊学し、儒学者・野田笛浦、古賀茶渓、
     羽倉簡堂等に儒学を学んだ。安政5年(1858年)、幕臣・小永井藤左衛門の婿養子に迎えられた。
     咸臨丸が渡米した際には、操練所勤番公用方下役として参加。帰国後は大坂町奉行支配調役、
     徒目付も務めた。明治維新後、儒学者で篤農家の山田方谷の愛弟子で漢学者の川田甕江の
     伝手で文部省に出仕した。晩年は浅草新堀に居を構え、私塾『濠西塾』を開き、門弟を育成した。
     主な著書に『漢史一斑』『清史略』『無絃琴』がある。号は小舟。多くの別名を持つことで知られる。

   ↓
  (徒歩)
   ↓

   ★古屋佐久左衛門墓
     古屋佐久左衛門:  天保4年(1833年)〜明治2年5月16日(1869年6月25日)
     筑後国御原郡古飯村の庄屋の家に次男として生まれた。実弟に医者の高松凌雲がいる。大坂に
     出て医学を修め、江戸に移ると洋学や剣術を学んだ。幕臣・古屋家の養子に迎えられ、御家人に
     なる。神奈川奉行所に奉職し、運上所の定役となる。野毛にある官舎に住み、ヘボンや長老派の
     宣教師に英語と洋学を学んだ。文久2年(1863年)には神奈川奉行所通訳に任命。さらに、横浜に
     駐屯していたイギリス軍に用兵について学び、英語の兵書を翻訳、わが国初の『歩兵操典』および
     『歩兵操練図解』を著わした。この時期の部下に今井信郎がいた。部下であると同時に弟子でも
     あり、後に衝鋒隊が組織されると今井も入隊。二人は戊辰戦争〜箱館戦争で共闘することになる。
     戊辰戦争が始まると、幕府陸軍のうち、鳥羽伏見の戦いで戦死した佐久間近江守信久の第11連隊、
     窪田備前守鎮章の第12連隊から1000人の脱走者が出たが、佐久左衛門は彼らを説得し、武装解除
     させた。その後、衝鋒隊は梁田戦争、長岡戦争、会津戦争等をを戦い抜き、箱館戦争でも活躍した。
     箱館政権では歩兵頭。5月12日のっ新政府軍の艦砲射撃を受けて重傷を負い、4日後に死去した。
     存命であれば、英文学者または兵学者として大成した可能性が大きく、その戦死が惜しまれた。
     

   ↓
  (徒歩)
   ↓


   ★高松凌雲墓
     高松凌雲進:  天保7年12月25日(1837年1月31日)〜大正5年10月12日
     筑後国御原郡古飯村の庄屋の家に次男として生まれた。実兄に幕臣の古屋佐久左衛門がいる。
     はじめ、久留米藩士の川原某の養子となったが、22歳のとき、江戸にいる兄・古屋佐久左衛門を
     頼って上京する。石川桜所にオランダ語と蘭方医学の手ほどきを受けた。
大坂に赴いた凌雲は、
     緒方洪庵の適塾に入塾し、オランダ語、医学を学んだ。また、幕府の英学所で英語をも学んだ。
     慶応元年(1865年)、凌雲の優秀さに目をつけた一橋家に懇願され、一橋家の主治医となった。
     一橋家の徳川慶喜が十五代征夷大将軍となると、凌雲は奥詰医師となった。慶応3年(1867年)
     幕府はフランスで行われるパリ万国博覧会に徳川昭武を派遣することになったが、凌雲は昭武の
     主治医として同行。フランスでの予定が終了すると、そのままフランスに留学するよう命ぜられた。
     フランスでは『神の家』と呼ばれる病院兼医学校に入学、神の家に併設された施療院も見学した。
     富裕層の寄付で運営されている施療院では、貧民に無料で診察が行われており、凌雲に衝撃を
     与えた。帰国後、すでに幕府は滅亡していたが、蝦夷地に幕臣の国を作ろうとしていた榎本武揚に
     共鳴し、箱館に病院を設立、博愛の精神で、敵味方の区別なく、診察をした。維新後、赦免されると
     貧民を無料で診察する組織『同愛会』の設立を提案、明治政府の許可を得て、医は仁術を体現した。
     

   ↓
  (徒歩)
   ↓


   ★
津田真道墓:  
     津田真道:  文政12年6月25日(1829年7月25日)〜明治36年(1903年)9月3日
     津田真道は美作国津山藩上之町に生まれ、箕作頑甫と伊東玄朴に蘭学を、佐久間象山に兵学を
     学んだ。脱藩しての学業だったため、たいへんに苦労をしたが、安政4年(1857年)に蕃書調所に
     雇用された。文久2年(1862年)には、石州・津和野藩出身で、同じような境遇にあった西周とともに
     オランダに留学して、ライデン大学のシモン・フィッセリングに師事した。明治維新後は官僚、政治家、
     啓蒙学者として活躍し、福沢諭吉、森有礼、西周、中村正直(敬宇)、加藤弘之等と明六社を結成。
     最終的には男爵となる。ちなみに西周等とオランダに留学した一行に榎本武揚や澤太郎左衛門が
     いた。彼等は、ナポレオン・ボナパルトが流されたセントヘレナ島に立ち寄ったという記録が残る。
     

   ↓
  (徒歩)
   ↓

   ★
渋沢栄一墓
     渋沢栄一:  天保11年(1840年3月16日)〜昭和6年(1931年)11月11日。
     渋沢栄一は、武州・血洗島の藍玉製造販売と養蚕を営む豪農の家に生まれた。そして・・・

     

   ↓
  (徒歩)
   ↓

※ゴール地点: 東京メトロ千代田線・西日暮里駅(解散) 

※谷根千ぶらり歩きをご希望の方は、解散後、実費にてご案内します。
 なつかしグッズのショップ、美術ギャラリーや、カフェなど、昭和情緒を満喫できます。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 <
次回の予定
  西ヶ原〜巣鴨〜染井霊園を中心としたエリアを散策します。

================================================


■企画者〜本庄沙織里・久美より

 私の両親は大の大河ドラマのフアンで、特に幕末維新ものが大好きです。
 同時に、幕末維新を描いた映画やドラマスペシャルなども視聴しています。
 今回は谷中霊園とその周辺を散策します。
 今回訪れるお墓に眠る方々は、ドラマや映画であまり取り上げられない人物が多いです。
 渋沢栄一は、1980年のNHK大河ドラマ『獅子の時代』等で重要人物として登場しています。
 高松凌雲も、『獅子の時代』や日本テレビの年末時代劇『五稜郭』で重要人物として登場しました。
 とくに『五稜郭』では、高松凌雲と古屋佐久左衛門が兄弟であることが描かれ、古屋佐久左衛門の傍には
 いつも今井信郎がいたといいます(私も視聴せねば・・・)
 渋沢栄一も含め、明治維新では狭義の゛勝ち組゛に入れなかった人々ですが、幕府という枠の中で、
 日本の近代化に命を懸けた先人たちが、今回訪れる場所で、静かに眠っておられます。

 
================================================================================================

※内容は予告なく変更になる場合もあります。
※この旅行は手配旅行となります。
 
============================================================================

 2020年11月15日(日)
 
●旅行代金には下記のものが含まれます*
 *入場料の必要な個所での入場・拝観料
 *ガイド/添乗員費用
  
●旅行代金に含まれないもの
 ・・新大塚駅駅に来られるまで/本駒込駅で解散以降の交通機関
 ・・前日までに到着される方、解散後の旅行の、交通費・宿泊費・観光費用
 ・・その他、個人的な支払い(電話、FAX、ネット通信費/明記されていないお食事/
   お飲み物)とそれに関わる税金、サービス料






電話でのお問合せは・・・・080−5028−6007 まで
▲TOPへ