■店長の旅のきっかけになった島々 店長が初めて海外デビューを飾った?のはナウル共和国。 ナウルは中部太平洋に浮かぶ絶海の孤島で、周囲20余キロの小さな島。 その島にはどんな産業があり、どんな歴史があり、どんな民間伝承があるか。 当時、販売されていたガイドブックにわずか数ページで紹介されていたナウルに、 ひきつけられるように出かけたのがそもそもの始まりです。 そして、その原点には、『島に対する興味』というのがあります。 高校時代、地歴クラブの合宿で、行った島々で体験したフィールドワークが、 島という隔絶された世界に対する興味を作り上げて行ったと思われます。 今回は合宿で二度目に行った周防大島。 周防大島の東和町の歴史について調べているうちに、青木周弼・研蔵兄妹の 史跡があることを知り、自由時間を利用して旅館から歩いてみに行きました。 青木兄弟の生家の井戸が残っていました。これを見つけた時の達成感は、 いまでも忘れられません。 つまり店長の旅の原点の通過点に、ご案内致しましょう。 ■徳川幕府に引導を渡した四境戦争・大島口の戦いの舞台を訪ねて 2010年のNHK大河ドラマ『龍馬伝』 2011年の民放ドラマ『仁~JIN』 2015年のNHK大河ドラマ『花燃ゆ』 2018年のNHK大河ドラマ『西郷どん』 最近、幕末を題材にした時代劇ドラマや映画をよく視ます。 久坂玄瑞、高杉晋作、桂小五郎(木戸孝允)など、長州の英雄がよく出てきますね。 長州(山口県)は、明治維新の原動力となった若者が育った土地です。 久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、品川彌次郎らを育てた吉田松陰。 藩政改革を指揮した周布政之助や、維新の功労者木戸孝允、広沢真臣。 幕末の長州は、鹿児島(薩摩)、高知(土佐)、佐賀(肥前佐賀)と並んで、多くの 人材を幕末の世に送り出し、維新の震源地となりました。 周防大島と阿月は、厳密に言えば長州=長門国ではなく、防州=周防国です。 長州藩とは、長門国と周防国の二か国で構成されていました。 そもそも『藩』という言葉は、江戸時代には殆ど使用されていませんでした。 私たちが現在、『長州藩』と呼んでいる場所は、『毛利大膳大夫家中』と呼ばれていました。 『首都』であった萩が長門国にあったため、後年、『長州』と呼ばれたのかもしれません。 幕末動乱の時代、新しい時代を引き寄せたのは長州の人たちだけではありません。 勤王僧・月性、阿月を治めた『長州藩』家老・浦靱負元襄といった教育者たちが、多くの 人材を育てました。浦の家臣で勤王の志士の間でリーダーシップをとった人々がいました。 ・・周防大島で生まれ、『長州藩』で医学の分野で活躍した青木周弼と青木研蔵の兄弟 ・・第二奇兵隊の暴発を止めようとして命を落とした楢崎剛十郎 ・・浦の家臣で、浦の管轄する地域で善政を敷いた秋良貞温 ・・浦の家臣で奇兵隊の軍監となり、後年は教育に力を注いだ周南の独眼竜・白井小介 ・・第二奇兵隊を率いて大島口の戦いで活躍、後に福島で暗殺された世良修蔵 ・・奇兵隊の三代総督で、幕府との戦いを彼なりに阻止しようと暗躍し、処刑された赤禰武人 ・・僧籍にありながら故郷(周防大島)防衛のため幕府と戦った大洲鉄念 ・・第二奇兵隊の書記として活躍し、後に教育者となった芥川義天 高杉晋作や久坂玄瑞、井上聞多(馨)、伊藤俊輔(博文)、山県狂介(有朋)等と尊皇攘夷運動を 行いながら、明治の顕官になった人はいません。 まさに吉田松陰のいう、草莽に近い人たちだったのかもしれません。 今回の旅では、そうした人々の史跡を探訪します。 ・・・周防国領内、瀬戸内海に浮かぶ島・周防大島・・・ 幕府が第二次長州征討令を発令し、『長州藩』の四境から攻め込んだ戦いを『四境戦争』と 呼びます。四境戦争が始まる前に、『長州藩』の兵学者・大村益次郎は、「大島をとられても せいぜい補給基地となるだけで、戦争の勝敗は左右しない。だから大島は棄てる」として、 周防大島には兵力を割かず、他の芸州口、石州口、小倉口に兵を集中させました。 幕府艦隊は大村の読み通り、周防大島を補給基地とするため艦砲射撃を加え、上陸しました。 島民が犠牲になるのを目の当たりにした周防大島の大洲鉄念等をリーダーとした民兵には 『故郷を守るのは自分たちしかいない』という気持ちが芽生えたのでしょう。大村の許しを得、 第二奇兵隊が逆襲を行い、遂に周防大島から幕府艦隊を撤退させました。 大島口の『勝利』は周防・長門の人々を勇気づけ、幕府最強と言われた軍勢が押し寄せた 芸州口の戦いでは、十分の一にも満たない兵力で善戦し、この戦線を膠着させることに成功。 石州口の戦いでは、大村益次郎率いる長州軍が、浜田藩領に攻め込み、勝利しました。 また、小倉口では高杉晋作の指揮のもと、激戦の末、小倉城を落城させました。 たしかに、芸州口には石川小五郎(河瀬真孝)、石州口には大村益次郎、小倉口には高杉晋作、 山県有朋、山田顕義等といった『名将』がいました。しかし、多くが民兵で組織された長州軍に とって、周防大島の民兵の戦いは、大いに刺激になったと考えられます。 そして長州一国に敗れた幕府は、勝海舟と長州の広沢真臣・井上馨の会談を経て講和、撤退を しました。 周防大島の小松の集落にある妙善寺の住職・三国貫嶺や、三蒲の徳誠寺の住職・田村探道、 そして久賀の覚法寺の大洲鉄念は”僧兵”となって幕府軍と戦いました。 故郷を自分たちの手で守る、彼らはその目的を見事に果たし、明治以降はふたたび自分たちの 【しごと】に戻ってゆくのでした。 ◇コロナ禍の出口の見えない今、お送りしたいオプション『岩国ミニ観光』 最終日の午前中、ご希望の方(必ず一週間前までにお申し込み下さい)は、 岩国のミニ観光にご案内致します。 ・錦帯橋: 岩国を代表する名橋。度重なる水害の度に蘇り、現在の形になった名橋 ・岩国城: 戦国末期、幕末と難しい時代を知恵と至誠で乗り切った吉川家の象徴(遠望) ・白蛇神社: 幸運を運ぶとされる白蛇。低迷する経済に一石を投じた『鬼滅の刃』の登場 人物『蛇柱・伊黒小芭内(いぐろ・おばない)』の親友『鏑丸』くんのモデル? パワースポットではないかもしれないけれど、岩国の風土に元気を貰えたらと思います。