ここがポイント!
■古代日本に多大な影響をもたらした文化を追う■
このプランは、ソウルに3泊します。
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支石墓:
紀元前1000年~紀元前100年頃に建造された、大きな石を組んで作られた
墓です。ヨーロッパでは、イギリスやアイルランド、イギリス領チャネル諸島の
ジャージー島、フランスのブルターニュ地方のカルナック周辺に見られますが、
日本でも福岡県の糸島半島の志登を中心に何か所か支石墓を見ることができます。
ブルトン語に由来しドルメンと呼ばれ、下記のふたつの様式に分けられています。
・北方式: 背の高い石柱の上に蓋石を載せた、テーブルのような様式の墓です。
・南方式: 背の低い土台の石の上に蓋石を載せた、碁盤のような様式の墓です。
朝鮮半島は世界的にみても、支石墓の数が多いことで知られています。世界中で
6万基あるといわれる支石墓のうち、約2万5千基ほどが朝鮮半島南部に点在し、
韓国は支石墓群集地として知られています。ハングルでは『ゴインドル』または
『コインドル』と呼ばれています。韓国に点在の2万5千基ほどの支石墓のうち、
『高敞、和順、江華の支石墓群』はユネスコの世界文化遺産に登録されています。
江華の支石墓群:
江華島(カンファド)は韓国の仁川広域市江華郡に属しています。江華島は韓国、
北朝鮮との国境や、インチョン(仁川)国際空港に近い島で、さまざまな時代の
史跡の宝庫として有名ですが、そのうち河岾面・内可面に支石墓群が見られます。
江華支石墓をはじめ、約120基が江華島に点在しています。今回は、江華島の
八か所の支石墓群の総めぐり。ソウルを基点とし、二回にわけて江華島を訪れて
一回はトレッキングで二か所を、もう一回は貸切車で六ヶ所を訪れる予定です。
標高436mの高麗山(コリョサン)の稜線沿いに点在する支石墓群は、下記の
通りです。八か所ある支石墓群にある支石墓の総数は、120基にものぼります。
2000年に「高敞、和順、江華の支石墓群」としてユネスコの世界文化遺産に
登録されました。
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江華古川里(コチョンリ)支石墓群(仁川市記念物第46号)
・・場所: 江華郡・内可面(ネガミョン)古川里山(コチョンリサン)96
・・交通: 江華市外バスターミナルより登山道の入口の積石寺(チョクソッサ)
まで車で約20分~30分。下車後、徒歩2時間
・・特徴: 高麗山の稜線に沿って海抜350メートルに位置する支石墓群です。
3つのグループがあり、合計で18基の支石墓を見ることができます。韓国の
支石墓分布の中で、最も高い位置にあるのが特徴です。支石墓の中には円形の
支石墓があります。これは、人為的に造られたものではなく、経年風化による
ものであると考えられています。支石墓の一基は完全に原型をとどめています。
古川里山支石墓群は、いずれも北方式で、韓国の支石墓のなかでも初期の形と
推定され、保存状態も比較的良好で、学術的保存価値が高いとされています。
尾根の上部にコインドルの石を砕石した跡がある石切り場が発見されました。
・・登山: つつじトレッキングで有名な高麗山ハイキングコースの途中にあります。
低い山と侮ることなかれ、結構、健脚向けです。春には名物のつつじが咲いて、
支石墓とつつじの両方が見られるので人気です。ゴインドル群は高麗山頂上の
西峰である落照峰の方にあります。
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江華三巨里(サムゴリ)支石墓群(仁川市記念物第45号)
・・場所: 江華郡・河岾面(ハジョンミョン)三巨里山(サムゴリサン)120一帯
・・交通: 江華市外バスターミナルより車で20分~30分。
下車後、徒歩20~30分
・・特徴: 北方式。高麗山の西の稜線に沿って9基が一列に分布しています。
殆ど斜めに倒れかけていますが、地上に出ている部分を見ると、四面を板石で
囲って玄室を造った後、天井部分に蓋石を載せた様式の原型を維持しています。
蓋石の上に直径5cm、深さ1.5cmほどの穴が、いくつか掘られています。
これは、性穴(ソンヒョル)と言われる穴で、天文を記した跡です。北朝鮮の
学者によると、この穴は星座との関連性があるとか。
また、周辺には採石場跡とみられる場所があります。今後の研究によっては、
支石墓の築造過程が明らかになる有力な手がかりになると期待されています。
・・登山: 三巨里支石墓という道標のある駐車場から山道を登ります。
途中に道標があるので道に迷う心配はありません。最後に階段を上りきると、
5基を同時に見ることができます。残りの4基はさらに山を登ります。
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鰲上里(オサンリ)コインドル群(仁川市記念物第16号)
・・場所: 江華郡(カンファグン)内可面(ネガミョン)鰲上里(オサンリ)
・・交通: 江華市外バスターミナルより車で約30分~40分
・・特徴: 高麗貯水池の北方、約1kmの地点に位置する鰲上里コインドル群は、
高麗山西側の落照峰(ナッチョボン)の端に、合計11基が確認されています。
殆どの支石墓は蓋石が落下し、支柱石も斜めに傾いています。2000年には
発掘調査が行われ、北方式の支石墓群であることが確認されました。その中で
最大のものは内可支石墓(ネガコインドル)と呼ばれ、蓋石は長さ3.7m、
幅3.35m、厚さ50cmで、仁川市記念物第16号に指定されています。
蓋石の上に見られる窪み、線は、天文を調べて記録した跡といわれています。
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江華歴史博物館:
ゴインドルのみならず、先史時代から近代までの江華島の歴史に関する展示が
みごたえがあります。
<江華島~遷都から元寇までの時代>
1232年(日本は寛喜4年~貞永元年。後堀河天皇~四条天皇の御代。鎌倉
幕府第四代将軍・藤原頼経と執権・北条泰時の治世)、元の猛攻に耐えかねた
高麗王朝は、首都・開城を放棄して、ここ江華島に遷都を余儀なくされました。
江華山城はその際に築城されました。1270年(文永7年。亀山天皇の御代。
鎌倉幕府第七代将軍・源維康=後の維康親王と執権・北条時宗の治世)に再び
開城に遷都となり江華島は歴史の表舞台から退きました。元の皇帝クビライに
臣従していた高麗は、元の日本遠征を強いられ、重税にあえいでいた時代です。
文永の役は、江華島から開城へ遷都された4年後、1274年のことでした。
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江華大山里(テサンリ)支石墓(仁川市記念物第31号)
・・場所: 江華郡・江華邑(カンファウッ)大山里1189
・・交通: 江華市外バスターミナルより車で約5分~10分。
農道のような細い道を抜けた、民家の裏側に位置しています。
道標がありますが、その道標の横の小道を上がるとすぐ見えます。
・・特徴: 北方式。東西を向いており、蓋石の長さ3.88m、幅2.6mです。
材質は、江華島で採掘される黒雲母片麻岩です。支石墓からは青銅剣、石鏃、
無文土器などが出土したことから、青銅器時代の墓であると推定されています。
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橋山里(キョサンリ)コインドル群(仁川市記念物第48号)
・・場所: 江華郡(カンファグン)両寺面(ヤンサミョン)橋山里(キョサンリ)
・・交通: 江華市外バスターミナルより車で約20分~30分。
下車後、徒歩約15分
・・特徴: 江華島にあるゴインドル群の中で一番北側に位置しています。
奉天山(標高291m)の尾根上、標高200m地点に位置し、全部で11基の
ゴインドルが、尾根に沿って点在しています。北方式で、地表に露出している
部分は、四面を板石で囲って玄室を造った後、天井部分に蓋石を載せた様式の
原型を維持しています。発見されたのが遅かったためか保存状態は良好です。
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富近里(プグンニ)チョムゴル支石墓群(仁川市記念物第32号)
・・場所: 江華郡(カンファグン)河岾面(ハチョンミョン)富近里(プグンニ)
・・交通: 江華市外バスターミナルから車で約15分~20分
・・特徴: 高麗山の北側から始まる尾根の端、海抜15m地点に位置しています。
蓋石が重いため、やや傾いています。富近里チョムゴル支石墓群は北方式です。
東西に位置し、東のものは長さ2.55m、厚さ0.4m、幅は計測不能です。
西側のものは長さ2.55m、幅1.55m、厚さ0.5mです。蓋石は長さ
4.28m、幅3.7m、厚さ0.65m。高さが1.85mとなっています。
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江華支石墓(史跡第137号)
・・場所: 江華郡・江華邑(カンファウッ)富近里(プグンリ)
・・交通: 江華市外バスターミナルより車で約10分~15分。
隣接する富近里支石墓、江華歴史博物館、ゴインドル公園とあわせ整備され、
オープンミュージアムのようになっています。
・・特徴: 北方式。高さ2.6m、長さ7.1m、幅5.5mで、蓋石の重さは
約80tという立派な支石墓です。蓋石を支柱石に載せるのに500人以上の
成人男性の労働力が必要であるとされ、墓の被葬者は少なくとも2500人~
3000人の民を束ねる首長クラスであったのでしょう。トイレ、案内所あり
富近里支石墓(仁川市記念物第44号)
・・場所: 江華郡・江華邑(カンファウッ)富近里(プグンリ)
・・交通: 江華市外バスターミナルより車で約10分~15分。
隣接する江華支石墓、江華歴史博物館、ゴインドル公園とあわせ整備され、
オープンミュージアムのようになっています。
・・特徴: 残念ながらこの支石墓は支柱石の部分しか残されていません。すでに
破壊されてしまったと推定されています。
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■古代日本に多大な影響をもたらした新羅足跡を追う■
このプランは、慶州に2泊します。l
慶州(キョンジュ)は、大韓民国の慶尚北動の都市です。
北は浦項市、西は永川市と清道郡に南は蔚山広域市に接し、東は日本海に面しています。
面積は1,323.87平方キロメートル、人口は約30万人です。
新羅王国の都『金城』の地として栄え、1995年には仏国寺と石窟庵がユネスコの世界文化遺産に登録されました。さらに、2000年には南山ベルト、月城ベルト、大陵苑に含まれる遺跡・史跡と芬皇寺等が慶州歴史地域として世界文化遺産に登録、そして2010年には、両班の伝統的民俗村として知られる良洞村が、安東河回村とともに世界文化遺産に登録されました。一つの市内に3つの世界遺産が同居するという珍しい現象が起きました。
新羅王国時代は金城と呼ばれており、慶州という名に改称されたのは、高麗太祖王建の時代です。
国立慶州博物館/クンニッキョンジュパンムルグァン/국립경주박물관:
慶州に残された数多の新羅時代のすぐれた文化遺産を保存する目的で設立された
博物館。10万点に及ぶ文化財を収蔵しており、そのうち約2500点を一般に
公開しています。『屋根のない博物館』と言われる慶州には、建築物や石造物や
古墳などが残されていますが、ここは文字通り、屋根のある博物館で、遺跡から
出土した貴重な文化財を見学できます。ちなみに遺跡にある遺物はレプリカです。
<考古館・本館>
○先史・原三国室: 青銅器や鉄器が展示されています。剣や鏃、武具、装飾品、
先史時代の造形美をご堪能下さい。拓本が展示されていますが、これは隣接する
蔚山広域市にある蔚山大谷里盤亀台の岩絵/線刻画の拓本です。
○古墳室: 路東洞古墳/路西洞古墳公園にある瑞鳳塚や、大陵苑の天馬塚から
出土したみごとな金冠の数々や、冠飾、腰帯が展示されています。また、後期の
古墳を装飾していた干支の十二神将の護石などもここで見ることができます。
○菊隠記念室: 故イ・ヤンソン博士が寄進した666点のコレクションのうち、
一部を公開しています。その中で最も美しいと言われているのが騎馬人物型土器、
鴨型土器で、慶州民俗工芸村では精巧なレプリカをおみやげで売っています。
<考古館・別館>
○美術館(仏教美術室): 寺院址から出土した仏像や文化財を展示しています。
○歴史資料室: 床がガラス張りになっており、遺跡発掘作業風景が見られます。
○彫刻室: 慶州の郊外にあった栢栗寺(ペンリュルサ)から出どした文化財が
展示されています。ひとつは統一新羅時代に造られた本尊・金銅薬師如来像です。
また、仏教公認に命をかけて殉教した僧侶・異次頓の殉教碑もあります。
○金属工芸室: 慶州の近郊の感恩寺址に残る、二基の三層石塔から発掘された
青銅製舎利装置があります。精巧な彫刻は一見の価値があります。
○皇龍寺室: 皇龍寺(ファンリョンサ)は、総面積2万坪を誇った東洋最大の
寺院で、553年着工/694年竣工。1238年までの600年間にわたって
新羅最高の国家寺院として栄えましたが、蒙古軍の侵攻によって、焼失しました。
木造九重塔を含む復元模型でその栄華をうかがい知ることができます。。
<野外展示>
○聖徳大王神鐘: 愛称"エミレの鐘”。新羅第35代国王・景徳王が、亡父・
聖徳王の供養のため、作り始めた鐘です。完成は、景徳王の息子である恵恭王の
治世下でした。
○高仙寺址: 高仙寺(コソンサ)は、新羅第31代の神文王の時代の創建です。
もともと暗谷洞にありましたが、ダム工事のために沈むことになって、博物館に
移設されました。三層石塔、金堂址、亀趺が残っています。
仏国寺/プルグッサ/불국사:
6つの国宝を有する慶州随一の名刹・仏国寺。ユネスコの世界文化遺産にも登録。
吐含(トハム)山中腹に位置する仏国寺は大韓仏教曹渓宗第11教区の本山です。
仏陀の世界の“仏国土”を、現世に再現するために建立されたと言われています。
創建年代は諸説ありますが、528(法興王15)年に法興王の母・迎帝夫人の
発願によって建立されたと『仏国寺古今創記』に記されています。文禄・慶長の
役で、伽藍を構成していた建物の大半が焼失してしまい、朝鮮時代の後期に再建、
さらには近年、1968年の発掘調査を踏まえて、1973年に復元されました。
一柱門: 二本の柱が一列になった山門で [寺國佛] の額が掛けられています。
天王門: 仏法の守護神である四天王像が安置された悪魔から寺を守る門です。
四天王は左手前が広目天、左奥が多門天、右手前が増長天、右奥が持国天です。
本堂: 【紫霞門】と【安養門】を【泛影楼】が繋ぎ、新羅の寺院建築様式の
集大成ともいえる、美しい姿を見せています。本堂の正面には、国宝の二つの
石段【青雲橋】と【白雲橋】が、本堂の左手には、同じく国宝の【蓮華橋】と
【七宝橋】がかかっています。正面の石段は二段に別れた上の16段が白雲橋、
下の18段が青雲橋です。左手にある石段は二段に分かれた上の8段が七宝橋、
下の10段が蓮華橋です。いずれも石段であるのに“橋”と呼ばれていますが、
其々の石段が、現世と“仏国土”とを繋ぐ、橋の役割を果たしているからです。
青雲橋・白雲橋の左手にある石垣から突き出た【水溝】や、安養門から見える
七宝橋の最上段に刻まれた【蓮の花の彫刻】もまた、新羅寺院建築の傑作です。
境内: 仏陀の住む世界を現す仏国寺の境内は3つのエリアに分かれています。
大雄殿のある釈迦如来の彼岸世界/極楽殿のある阿弥陀如来の極楽浄土の世界、
毘盧殿を中心とする毘盧遮那仏の蓮華蔵世界を現わす伽藍配置になっています。
大雄殿: 大雄殿のご本尊は釈迦牟尼像で、脇侍は文殊菩薩と、普賢菩薩です。
大小の塔が三基ありますが、左が【釈迦塔】で、右が【獅子像】一体が残った
【多宝塔】で、大雄殿すぐ手前に【灯篭】が創建当時の姿のまま残っています。
大雄殿を背に、紫霞門の左手にもご注目。美しい【木魚】と【鰐口】が掛って
います。反対側の泛影楼には、亀像の背に乗った【法鼓】が安置されています。
無説殿: 大雄殿の裏手にある横長の建物は無説殿です。この建物は仏国寺の
建物の中で、最も早く建てられたと言われ、華厳教の修業所であった建物です。
観音殿: 無説殿裏手の階段【洛伽橋】を登ると観音菩薩がご本尊である観音殿。
一段高いその場所は観音菩薩の浄土である、補陀洛迦山をイメージしています。
羅漢殿: 羅漢殿は、近年建てられた新しいお堂です。仏陀の悟りをひらいた
弟子である羅漢を祀っています。羅漢さまは16体、中心に釈迦牟尼像を置き、
脇侍には提和竭羅菩薩像と弥勒菩薩像が並んでいます。
毘盧殿: ご本尊は、国宝第26号に指定されている金銅毘盧遮那仏座像です。
毘盧遮那仏は華厳経の教主で、太陽や光明を象徴する仏様です。日本の奈良の
東大寺の大仏と同じ仏様です。建物は1973年の補修工事で復元されました。
思慮殿の近くに、覆屋に安置された【舎利塔】がありますが、高麗時代初期の
作と言われ、1905年に日本に持ちだされ、1933年に返還された塔です。
極楽殿: 極楽殿のご本尊は阿弥陀如来像で、建物の前に【灯篭】があります。
文禄・慶長の役で、石段部分以外は焼失し、1750年に修復されたものです。
現在みられる建物は1925年の再建です。基壇の【石垣】も美しいものです。

石窟庵/ソックラム/석굴암:
仏国寺と同じく、吐含(トハム)山の中腹に位置する石窟庵は、石窟型寺院です。
ユネスコの世界文化遺産に登録された美しい寺院です。駐車場左手に建つ建物は、
鐘楼の【大鐘閣】で、横の階段を登ると、細い柱で屋根を支える【山門】と扁額
の[庵窟石山含吐]の文字が見えます。ここから山道を15分~20分ほど歩くと、
東洋でいちばん美しいとも言われる石窟庵が姿を現します。切り出した石を磨き、
ドーム型に組んで作られた石窟寺院で、中心に巨大な仏像が座し、仏様の周囲に
金剛力士像、四天王像、菩薩像などを配置しています。石窟でありながら普通の
寺院の特徴を備えています。石窟庵の創建は751(景徳王10)年で、当時の
宰相であった金大城(キムデソン)の寄進により、建立されました。金大城とは
ニックネームで、頭が大きく平たかったので、お城のようだと言われ、いつしか
大城と呼ばれるようになりました。大城はたいへん信心深い人で、前世の両親の
ために仏国寺を建立し、現世の両親のために石窟庵を建立したといわれています。
石窟の内部は、手前の部屋(前室)が四角で、扉道を進んだ奥の部屋(主室)は
円形をしています。本尊を囲む主室の壁面や前室の壁面には十一面観世音菩薩像、
十大弟子像、菩薩像、天部像、四天王像、仁王像、八部神衆像が配されています。
わが国のあしき先人が盗掘し、知識の乏しい修復者が杜撰なコンクリートによる
修復を試みたため、室内の換気が悪くなってしまっていますが、もともと石窟は
千年以上の経年にも耐えうる建築で、新羅の建築文化の高度さがうかがわれます。

感恩寺址/カムンサジ/감은사지:
慶州の中心から東、海に向かって車を走らせると、左側に見えてくる二基の石塔。
その場所が感恩寺址で、新羅第30代国王の文武王が、倭兵の侵入を仏力により
守ろうと建立した寺で、文武王の没後、神文王が後を引き継ぎ、完成させました。
金堂(本堂)の下には空間が設けられていましたが、護国の龍となった文武王が
大鍾川に沿って感恩寺まで来られるように、との意味があったといわれています。
現在感恩寺址には【金堂址】と、国宝第112号に指定の【二基の三層石塔】が
残っています。石塔からは1959年の解体修理の際、精巧な青銅製舎利装置が
発見されました。石塔から出土した遺物は、国立慶州博物館に展示されています。

文武大王陵/ムンムテワンヌン/문무대왕릉:
感恩寺址を出て、さらに東に向かって走ると、海が見えてきます。海上に岩礁が
見えます。ここが新羅第30代国王である文武王の陵墓です。倭兵の侵入を防ぎ、
新羅を守ろうとした文武王は、死後、護国の龍になって新羅を守ると言い、海に
葬るよう遺言しました。世界でも類をみない、海中の陵・文武大王陵の誕生です。
文武大王陵がある浜辺は奉吉(ポンギル)海水浴場で、魚の干物を売っています。

掛陵/ケリュン/괘릉:
恐らく、韓国で最も完成された古墳が掛陵でしょう。紀元前57年から約千年に
わたり栄えた新羅王国。その間、古墳を造営する技術も向上し、完全とも言える
この古墳を世に送り出しました。参道の入口には外の世界と、古墳との境界線に
建てられる【華表石】と呼ばれる石碑が対になって並び、次に【二体の武人像】
(左)と【二体の文人像】(右)が向かい合います。その奥に【正面を向く獅子】、
【横を向く獅子】が左右に合計四体並んでいます。獅子の顔は、なんと笑顔です!
そして、参道のいちばん奥に陵墓があります。陵墓は【石柱と欄干】に囲われて、
正面に【眼象紋が彫刻された床石】が置かれ、古墳の周囲には干支をモチーフに
した十二支神像を刻んだ【護石】がみられます。これだけ揃った古墳は慶州でも
希少です。ちなみに被葬者は、新羅第38代国王である元聖だといわれています。
ただ、古墳の被葬者については諸説あり、現在のところまだ確定をみていません。

九政洞方形墳/クジョンドンパンヒョンブン/구정동방형분:
新羅の古墳は殆ど円墳で、ごく稀に双円墳が見られます。そのため新羅の古墳は
円いという先入観を持ってしまいそうです。そうした先入観を打ち砕くのがここ、
九政洞方形墳です。方形古墳の四隅に【柱石】を置き、その柱石と柱石との間に
切り出してきた【壁石】を三段に積み重ね、四角い古墳になるよう造られており、
三段の石の上には、もう一段、巨大な【蓋石】が置かれ、その上に土が盛られて
います。この古墳も周囲に干支をモチーフにした十二支神像を刻んだ【護石】で
装飾されています。この古墳の【石室】は公開されており、珍しく内部の様子を
見ることができます。盗掘を受けてしまった為、古墳の被葬者はいまだ不明です。

善徳女王陵/ソントッヨワンミョジ/선덕여왕묘지:
2009年、韓国ではあるドラマが爆発的な人気番組となりました。そのドラマ
『善徳女王』は新羅初の女王として善政を行った新羅第27代国王・善徳女王が
主人公の歴史ドラマで、日本でもCSで放映されたことがあります。駐車場から
500mほど、松林の丘を登った場所にあるこの陵は、善徳女王自ら生前、この
場所に埋葬して欲しいと希望したそうです。632~647年に新羅を統治した
善徳女王は、三国統一の悲願を、後進に託しました。この松林の丘は【狼山】と
呼ばれる聖地です。善徳女王陵は古墳の基壇に自然石を置いているのが特徴です。

瞻星台/チョムソンデ/첨성대:
瞻星台は、高さ9.108m/基部直径4.93m/上部直径が2.85mです。
一見、灯台のように見えますが、新羅時代の7世紀に造られた東洋最古の天文台。
この塔に使われた石は全部で361個半で、これは陰暦の一年を表わしています。
窓がありますが、窓の上枠から最上段まで12段、下枠から最下段までが12段、
これは1年の12カ月と24の節季を表します。件の窓は、出入口として使われ
ていました。善徳女王の行った事業の一つが瞻星台であったとも言われています。
今年は夜間、瞻星台は淡いバラ色にライトアップされていますのでお見逃しなく。

東宮と月池(臨海殿址)/アナプチ/안압지:
この聞きなれない名称を聞いて、新名所?と思う方もおられるのでは?かつては
【雁鴨池】と呼ばれ、親しまれていたため、いまでも旧称が幅をきかせています。
念願の新羅による三国統一を記念して、674年に文武王が造成を命じた人工池。
貴族たちは月池に舟を浮かべ、池に映る月を愛でたそうです。長年、親しまれた
雁鴨池という名称は、実は新羅滅亡で荒廃した月池に雁や鴨が棲みついたという
ネガティブな意味を持つ名称だったのです。現在3つの建物が復元されています。

芬皇寺/プナンサ/분황사:
芬皇寺の創建は634年。新羅第27代国王であった善徳女王の時代です。当時、
名刹として有名で、慈蔵や元暁といった高僧たちも訪れたことで知られています。
芬皇寺の象徴は、巨大な【三層石塔(模伝石塔)】 です。新羅で初めて造られた
この塔は国宝第30号に指定されています。石塔はもともと七層あるいは九層で、
文禄・長慶の役で破壊され、現在の姿になったとのことです。一層目の壁面には
龕があり、龕の両脇を金剛力士が護っています。石塔の四隅に注目してください。
二体は獅子、もう二体は?じつはこれはオットセイなのです。獅子は陸から来る
敵と対峙し、オットセイは海を渡って来る敵と対峙しています。三層石塔の裏に
八角形の井戸【三龍変魚井】があります。言い伝えによるとこの井戸には護国の
龍が三匹住んでいたそうです。元聖王の時代、唐の国から来た使節が井戸の中の
龍たちを魚に変えて持ち帰ってしまったそうです。龍の妻は驚き、元聖王に対し、
夫を連れ戻してほしいと嘆願したそうです。元聖王はただちに使節の下に使いを
送り、龍を取り戻したそうです。他にこの寺に泊まった高僧・元曉を奉った碑の
台座の【和諍国師碑趺】や、金色に輝く薬師如来像を安置している【普光殿】や、
梵鐘や木魚のある【鐘楼】や、鐘をかける竿を支えた柱【幢竿支柱】があります。
幢竿支柱の根元にご注目ください。かわいい平べったい亀の像が挟まっています。

昔脱解王陵/ソッタルヘワンヌン/석탈해왕릉:
昔脱解王は新羅の草創期の伝説に登場する優秀な国王です。在位は西暦57年~
80年。新羅の第四代国王となった昔脱解王は、もともとの王族ではありません。
第二代国王の南海王にその優秀さを買われ、王女・阿考の婿養子として入ります。
舅の南海王はもちろん、義兄の第三代・儒理王にもかわいがられました。義兄の
儒理王は、第四代国王に昔脱解王を指名。それにより彼は62歳で即位しました。
<誕生>
その昔、竜城国(三国史記によると多婆那国)の国王が、積女国の王女を娶って
王妃としました。長い間、後継ぎに恵まれなかったので、王は毎日、神に祈りを
ささげ、やがて七年目に王妃は大きな卵を産みました。王は不吉なものを感じて
卵を捨てるように命じましたが、王妃は絹の布で卵をくるみ、宝物とともに箱に
納め、海に浮かべて逃がしました。やがて辰韓の阿珍浦の海岸で、海辺に住んで
いた老婆がこの箱を拾い、開けてみるとひとりの少年が出てきました。箱の脇で
鵲(かささぎ)が箱を護っていました。老婆は鵲から鳥の字を外した“昔”を姓、
箱を開いて少年を開放したことから“脱解”を名としました。昔脱解の誕生です。
<青雲>
昔脱解は成人すると学問や地理を極めます。そんなある日、昔脱解は南山の麓に
三日月の形をした縁起のよい場所を発見します。昔脱解は、なんとしてもそこに
住みたいと思いましたが、新羅の王臣である瓠公が暮らしていました。昔脱解は
鍛冶屋の道具などを瓠公の屋敷の回りに埋め、瓠公に向かって、こう言いました。
「この土地は私の先祖の土地なので、返して下さい。先祖はここで鍛冶屋を営み、
暮らしていました。もし、ここを掘れば、その証拠が出てくることでしょう」と。
果たして瓠公が土地を掘ると、昔脱解が埋めた鍛冶屋の道具などが出てきました。
<王位継承>
頓知で土地を手に入れた昔脱解の話は、南海王の耳に入ります。南海王は、彼を
手元に置きたくなりました。娘の阿考の婿として王家に迎えます。昔脱解は義父
南海王、義兄で後に三代国王になる南海王の嫡男・儒理王にかわいがられました。
儒理王は、崩御の前に、第四代国王に昔脱解を指名し、彼は62歳で即位します。
<王位>
昔脱解王は例の南山の麓の三日月の形をした縁起の良い場所に住んでいましたが、
そこを王宮と定めました。現在の半月城のことです。彼が即位し、9年目のこと、
瓠公が半月城の近くを歩いていると、始林という土地が光り輝いているのを発見。
紫雲が天から始林に伸び、そこを見ると金色の櫃が、木に引っ掛かっていました。
その木の下では鶏が時をつくっていました。瓠公はすぐ、昔脱解王にそのことを
報告し、王は始林に行って手ずから櫃を開けてみました。すると中から美少年が!
吉兆と断じた王は、男の子に金色の櫃にちなんで“金”の姓、閼智という名前を
与えました。この男の子は新羅に続く慶州金氏の祖となりました。このめでたい
場所は、時をつくった鶏にちなんで、後に“鶏林=ケリム”と名付けられました。
<崩御>
昔脱解王の治世は24年続き、彼は王位を義兄・儒理王の第二子・婆娑に継承し、
崩御しました。昔脱解王は神のお告げにより東岳に埋葬されることとなりました。
ちなみに王族出身ではない昔脱解王以外の五代までの王は、五陵に葬られました。

鮑石亭/ポソッチョン/포석정:
南山の西の山麓にある遺構は、鮑石亭と呼ばれています。歴代の新羅王の離宮が
あった場所で、建物は一切、残っていません。ただひとつ、アワビのような形の
水溝が残っています。歴代の新羅王はこの場所で宴会を開いたと言われています。
この水溝に水を流し、杯を浮かべ、その浮かべた杯が自分の前を通り過ぎる迄に
詩を詠じるという遊びが行われました。日本でいう“曲水の宴”です。奈良県の
明日香村には、酒船石、亀型石造物という、水を流したと見られる溝が彫られた
石造物が残っています。新羅から来た文化・風習なのでしょうか?興味深いです。

三陵/サンヌン/삼릉:
石仏で有名な南山の西麓から、石仏めぐりのトレッキング・ルートが始まります。
林の中をしばらく歩いてゆくと、三つの古墳が並んでいる場所“三陵”に出ます。
柵に囲まれた3基の古墳が一直線に並んでいます。入口から見て手前にあるのが
新羅第8代国王の阿達羅王陵、中央が第53代国王の神徳王陵墓、いちばん奥が
第54代国王の景明王陵です。時代が大きく異なりますが、神徳王は阿達羅王の
子孫にあたり、景明王は神徳王の嫡男になるので一族の陵墓が並んでいるのです。

五陵/オルン/오릉:
南山の北、市内の南に大きな敷地に五つの王陵がまとまって造られた場所があり、
“五陵”とよばれています。紀元前57年に建国された新羅国の黎明期を支えた
五人の王が眠っています。初期の古墳であるため、まだ華美な装飾はありません。
被葬者と言われる五人の人物は、新羅初代国王の赫居世王、赫居世王の后である
閼英王妃、第2代国王の南海王、第3代国王の儒理王、第5代国王の婆娑王です。
第4代国王の昔脱解王を除いた、新羅建国初期の王がこの五陵に葬られています。
五陵の被葬者は朴氏ですが、昔脱解王は昔氏で、一族が異なります。昔脱解王は
南海王の婿養子として迎えられ、義父の南海王や義兄の儒理王にかわいがられて
後継者にまで選ばれましたが、朴一族ではないために、ここに御陵はありません。
五陵の広大な敷地の南東部に【崇徳殿】があります。初代王・赫居世王の祭祀の
ために1429年に建てられましたが、文禄・慶長の役で焼失してしまいました。
現在の建物は、1694年に修復されており、赫居世王と崇徳殿の碑があります。

金庾信将軍墓/キムユシンチャングンミョ/김유신장군묘:
金庾信将軍は慶州金氏の一族で、武将として新羅の三国統一に活躍した英雄です。
新羅が半島統一を成し遂げた7世紀頃の人物で、唐と連合して、百済を滅ぼした
時期に宰相であった人物で、後に新羅の第29代国王となる金春秋(武烈王)を
バックアップし、王族ではなかった金春秋を王位に推挙した人物でもありました。
墓所の入口にある【興武門】をくぐり、進むと欄干に囲まれた、金庾信将軍墓が
あります。両脇には【朝鮮時代の碑石】が二つあり、中央には【復元された床石】、
墓の基部には干支の動物の頭と人間の体を持つ【十二神将像】が刻まれています。
完成された美しさを持つ王陵のような金庾信将軍墓は掛陵と並び人気があります。

太宗武烈王陵/テジョンムヨルワンヌン/태종무열왕릉:
新羅の三国統一の英雄・金庾信将軍が王族ではない金春秋を強力にバックアップ、
金春秋は即位して第29代国王として即位しますが、彼が陵墓の主、武烈王です。
武烈王は、両親が王族ではない初めての新羅王となると、金庾信将軍の妹を娶り、
唐や日本などを相手に外交手段を駆使し、新羅の独立を守り、やがて新羅による
三国統一を決定的なものにした人物です。水中陵で有名な文武王は彼の嫡男です。
陵墓の敷地に入ると、覆屋の下、亀の台座を持つ【太宗武烈王陵碑】があります。
その奥に太宗武烈王陵があります。正面からみると、古墳はひとつに見えますが、
斜め方向から見ると5つの陵墓が一直線に並んでいるのが見えます。武烈王陵の
後ろの4基の古墳【西岳洞古墳群】の被葬者は不明ですが、武烈王陵よりも高い
位置に築かれているために、武烈王の先祖のお墓ではないかと考えられています。
道路を挟んだ向かいには、武烈王の二番目の息子【金仁問の墓】が残っています。

大陵苑(天馬塚)/テヌンウォン(チョンマチョン)/대릉원(천마총):
“屋根のない博物館”と呼ばれている大陵苑は、125,400坪という広大な
土地に23基の古墳がひしめく公園です。古墳群の規模としては慶州でいちばん。
大陵苑の古墳の中で名のある古墳はわずか3基で、天馬図が発掘された【天馬塚】、
瓢箪型(日本では双円墳)の夫婦墓である【皇南大塚】と、大陵苑という名前の
由来となった味鄒王が葬られた【味鄒王陵】です。ほか20基は被葬者が不明で、
古墳には“○○号古墳”といった具合に古墳番号が付けられ、管理されています。
味鄒王陵:
味鄒王は新羅の第13代国王。1145年に書かれた書物である『三国史記』に
「在位27年で亡くなり、大陵に葬られた」とあり、大陵苑の由来となりました。
皇南大塚:
皇南大塚は慶州市内で最大規模の古墳です。この古墳は変わっていて、ふたつの
円墳がくっつき、瓢箪型をしています。日本では双円墳に分類される墳丘ですが、
北側の古墳から「夫人帯」と書かれた銀製の帯金具が発見され、被葬者が女性と
わかりました。被葬者は夫婦だとわかりましたが、彼らの名は伝わっていません。
天馬塚:
この古墳からは天馬図が発見されました。現在、内部を見学することができます。
装飾品や身の回り品などの出土品も展示されています。撮影は禁止されています。

半月城/パヌゥオルソン/반월성:
西暦101年=新羅では婆娑王22年、昔脱解王の館のあった場所に築城された
“半月城”は別名を“月城”あるいは“在城”といい、土と石を混ぜて造られた
城砦です。現在、半月城址のエリアでは発掘調査が行われています。見学は可能。

石氷庫/ソッピンゴ/석빙고:
日本では“氷室”と呼ばれる天然の冷蔵庫/冷凍庫。まだ氷が貴重だった時代に
冬の間に氷を造り、一年間保管していた場所です。石氷庫自体は、新羅時代から
あったと記録に残っていますが、現在の石氷庫は、18世紀に造られたものです。
天井部分に換気窓が3つ、内部は傾斜をつけて不要な水を外に出す工夫がされて
います。切石をアーチ型に幾層も積みあげた美しい建造物をして知られています。

鶏林/ケリム/계림:
昔脱解王の治世9年目の西暦65年、瓠公という人が半月城の側を歩いていると、
始林というところがキラキラと光っているのを発見しました。天上からは紫色の
雲が伸びており、その雲の先にある木には、金色の櫃がかかっていました。また、
その場所で櫃を守るように鶏が時をつくっていました。瓠公はすぐに昔脱解王に
報告すると、吉兆と信じた昔脱解王がこの地を訪れ、櫃を開けてみたら、美しい
男の子が出てきました。喜んだ脱解王は男の子に「金」の姓と「閼智=アルチ」
の名を授けました。彼が慶州の金氏の始祖となりました。鶏が時をつくって櫃を
守っていたことにちなみ、始林の場所は、鶏林という、金氏の聖地になりました。

奈勿王陵/ネムルワンヌン/내물왕릉::
鶏林の奥に位置する王陵で、新羅第17代国王・奈勿王が葬られています。彼は
47年の治世下に、新羅の国家体系を整え、凶作の年には税金を免除した名君と
して知られていますが、すぐれた戦略家としても記録が残っています。364年、
倭寇が攻めてきた際には、吐含山の麓に数千体のカカシを立たせ、ゲリラ戦法で
倭寇を翻弄、遂に撃退しました。現地で有名な『奈勿王ののカカシ大作戦』です。

料理もたのしみ!
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サムパップ |
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宮廷料理/両班料理 |
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釜山:
今回は復路、釜山に立ち寄ります。釜山では、三か所の絶景スポットを訪れます。
シネマ通り、“韓国のマチュピチュ”なる愛称の甘川洞文化村、168段階段に
歴史が刻まれている草梁イバグキルの景観をお楽しみ下さい。また、夕刻以降は
チャガルチ市場に行きます。下の鮮魚コーナーで魚介を選び、二階レストランへ。
活きのよいヒラメの刺身、名物のアワビ、サザエ貝焼きなどをお楽しみ頂きます。
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