ピトケアン島への船旅 <左: MVクレイモアII世号/右: ピトケアン島が見えてきた!> 船でしか行けない国・地域シリーズ第三弾 仏領ポリネシアのガンビエ諸島(マンガレヴァ島)から船で約32時間。 見渡す限りの大海原に3つの島が存在します。 英国の海外領土のピトケアン諸島。 ピトケアン諸島は、ピトケアン島、ヘンダーソン島、デュシーおよびオエノ諸島という3つのグループで構成されています。 主島であるピトケアン島にも空港がありませんので、訪問手段は、船ということになります。 ガンビエ諸島のマンガレヴァ島リキテア埠頭からMVクレイモア号に乗って、ピトケアン島を目指します。 いままではチャーター・ヨットや、年に数回の貨客船でしか、行かれなかったピトケアン島に、定期航路が就航しました。 青い船体が、のんびりと青い海と青い空との間を、ゆっくりと波を立てて走る、それがピトケアンの旅です。 ◎◎◎ ピトケアン豆知識 ◎◎◎ 南太平洋に浮かぶ英国の海外領土『ピトケアン諸島』 ピトケアン諸島は、3つのグループ『ピトケアン島』と『ヘンダーソン島』そして『デュシーおよびオエノ諸島』で構成されています。 1767年(日本では明和4年/10代将軍徳川家治の治世)、のちにアメリカ独立戦争のバンカーヒルの戦いで壮絶な戦死をとげた英国海軍士官候補生(当時)ロバート・ピトケアンによって、発見されました。 この島は映画にもなった『バウンティ号の反乱』の舞台となりました。 面積は5?。世界の独立国・非独立地域をあわせた『くに』で、バチカン、モナコについで3番目に小さい地域です。 人口は2011年4月現在48人と言われており、世界で最も人口が少ない国・地域です。 ある事件を境に『開国』し、現在では仏領ポリネシアのマンガレヴァ島との間に航路が開かれています。 また、テレビ・ラジオ普及率0パーセントに対し、インターネット普及率100%という、非常に珍しい地域です。 通貨はニュージーランド・ドル、島の総督は英国からニュージーランドに派遣された高等弁務官が兼ねています。 島の産業は漁業と農業の物々交換、対外的にはドメイン貸出、蜂蜜、切手などがあります。 島にはホテル・旅館・民宿はなく、ホームステイとなります。 タクシーはバギー、大きな船は接岸できないのでロングボートで貨客船と港の間を送迎します。 ☆☆☆バウンティ号の反乱☆☆☆ <バウンティ号とは・・・> バウンティ号は、もともと貨物船であったものを、西インド諸島の労働者の食糧にするためのパンノキを、タヒチ島から西インド諸島に輸送する目的で一時的に軍艦に仕立て上げた船でした。 バウンティ号は1787年(日本では天明7年/11代将軍徳川家斉の治世)12月23日、艦長ウィリアム・ブライ、フレッチャー・クリスチャン以下航海士3人、准士官11人、士官候補生6人、下士官14人、水兵11人の総勢46人を乗せて英国のポーツマスを出発しました。 当初は南米経由でタヒチに向かう予定でしたが、荒天のため進路を変え、喜望峰、タスマニア沖、ニュージーランド南島沖を経て1788年10月26日にタヒチ島に到着しました。 その後、パンノキその他を搭載するために同地に滞在し、クリスチャンは現地の女性と恋に落ち、他の船員も楽園のような南の島でののんびりした生活を楽しみました。 <反乱> 1789年4月4日、タヒチを出航したバウンティ号は、喜望峰を経由して西インド諸島(カリブ海諸島)をめざして航行していましたが、4月28日にフレンドリー諸島(現在のトンガ)で反乱が勃発。途中で死亡した2人を除き、乗船していた44人のうち、航海長並のクリスチャン以下12人が反乱を起こし、ブライ以下19人を救命ボートに乗せて追放しました。 非反乱者13人は船に残され、反乱者12人との総勢25人は、ツブアイ諸島に3カ月ほど滞在したのち、タヒチ島に戻りました。 16人がタヒチに残り、クリスチャンを筆頭に8人の反乱者は男性6人/女性11人/乳児1人の計16人のタヒチ人を船に乗せ、フィジー、クック諸島を経由し、1790年1月15日に無人島ピトケアン島に到着しました。彼らはバウンティ号を解体し、その資材を活用して生活を始めました。 パンノキの過剰搭載で船員の生活空間が確保できなかったことや、ブライに人望がなかったこと、タヒチでの楽園の生活から劣悪な状況での過酷な航海に耐えられなくなったこと、さまざまな要因が重なったうえ、航海士フレッチャー・クリスチャンに人望が集まっていたことで、反乱が起きやすい状況ができていたのかもしれません。 <沈静> 一方、追放されたブライ以下は西に向かい、41日かけ、トーレス海峡を通り、チモールに到着しました。 1790年3月15日に英国に帰着したブライは反乱を報告。 同年11月にはバウンティ号捜索と反乱の鎮圧のため、パンドラ号が英国を出発。 1791年3月にタヒチ島で14人のバウンティ号の元乗組員を逮捕し、囚人として同乗させ、更にバウンティ号を捜索しましたが、パンドラ号は同年8月にグレート・バリア・リーフ近海で座礁・沈没、31人の乗組員と4人の囚人が命を落としました。結局、海図に載っていないピトケアン島を発見することはできませんでした。 英国に戻った囚人10人のうち3人が死刑、4人が無罪、2人が有罪になるも恩赦で釈放、1人が法的に立件できずに釈放。ブライは艦長職にとどまりますが、のちに豪州で『ラム酒の乱』を招き、その名声は地に落ちます。 ピトケアン島に辿りついた反乱者は、その後歴史から姿を消します。 <ピトケアン島では・・・> 1808年(日本では文化5年/11代将軍徳川家斉の治世)1月、アメリカ船トパーズ号がピトケアン島に上陸。 バウンティ号の水夫であったジョン・アダムスのみが存命で、あとは反乱者と反乱者が募集あるいは拉致してきたタヒチ人との子孫が生活をしていました。ジョン・アダムス以外の反乱者は、病気や事故、自殺、他殺などで既に死亡していました。フレッチャー・クリスチャンも1793年9月20日に殺害されていました。 1825年(日本では文政8年/家斉の治世)にジョン・アダムスは恩赦となり、1838年(日本では天保9年/12代将軍徳川家慶の治世)にピトケアン島と周辺の島々は、英国の海外領土となりました。 1856年と1937年には、バウンティ号の反乱者の子孫たちが、ニュージーランドや、オーストラリア領のノーフォーク島に移住しています。現在は50名足らずの島民がピトケアン島で生活しています。 <伝説> フレッチャー・クリスチャンには、英国の捕鯨船で島を脱出し、英国に戻ったなどという伝説が残っています。義経伝説や、西郷星伝説のように、悲劇の武将としてのイメージがあったのかもしれません。 また、ピトケアン島の、水平線を望める岩場にある洞窟は、フレッチャー・クリスチャンがいつも海を見に来ていた場所と言われ、『クリスチャン洞窟』と呼ばれています。 <最後の生存者ジョン・アダムス> ジョン・アダムスは変名アレキサンダー・スミス。 英国により1825年に恩赦を受けたジョン・アダムスは、英国のテムーズ川上流地域の出身者と言われています。 バウンティ号の反乱から4年、アダムズを含む4人を残して反乱者は死に絶え、間もなく残り3人も自殺、粛清、病気で倒れ、ポリネシア人や反乱者とポリネシア人女性との間に生まれた子供たちの首長になります。 聖書を教科書に子供たちに読み書きを教え、信心深い生活を送っていました。1825年に恩赦を受け、その4年後に世を去りますが、島の集落(首府)には彼の名を冠しアダムスタウンという名前がつきました。 ★注意★ 日本出発前にピトケアン政庁に事前連絡と査証申請が必要となります。 ご出発可能日の3〜2か月前にお申し込み下さい。 現地14日以上の延泊を希望される方は長期滞在査証が必要となります。 ピトケアン入国予定日+6カ月+2週間以上、残存のある旅券が必要です。 船にはキャビンがありますが、時として切符が売り切れる場合があります。 デッキクラスになる場合は、寝袋、タオルケットが必要となります。 <観光の見どころ> MVクレイモアII世号: 貨客船。12名収容のツインキャビンがあります。 室内: ベッド二台、ワードローブ、机と椅子、洗面台、扇風機、コンセント。 船内: 映画室、ラウンジなど 南太平洋クルーズ: マンガレヴァ⇔ピトケアン間は片道32時間です。 ピトケアン島: 上陸します。バギーで島探検に行きましょう。 アダムスタウン: 滞在します。ご希望の方には村の散策にご案内致します。 マンガレヴァ島: ピトケアンから戻った日に1泊します。散策にご案内致します。 タヒチ島: フランス領ポリネシアの主島。街の散策にご案内致します。 ル・ロット 滞在中、一回含まれています。 活気のある総合屋台村で、パペーテ(仏領ポリネシアの首府)の名物です。 <左: ピトケアン島上陸ポイント/右: 高台から望む太平洋> <左: 島の周囲は奇岩怪石の宝庫/右: 首府アダムスタウン遠望> <左: バウンティ号の大砲の/右: バウンティ号の碇の> <左: バウンティ湾遠望/右: クリスチャン洞窟> <左: ジョン・アダムスのお墓/右: アダムスタウンの教会> <左: 島の伝統家屋とクリスチャン洞窟のある山/右: 線刻画(ペトログリフス)> 仏領ポリネシア <左: マンガレヴァ島リキテアの教会/右: リキテアの要塞史跡> <マンガレヴァ島からサンゴ礁のラグーンを望む(ガンビエ諸島観光課ご寄贈)>