ここがポイント!
★西アフリカの知られざる国々シリーズ★
シエラレオネ 9日間の旅
ティワイ島自然探訪つき
西アフリカの国々。日本人にはなじみの薄い国々ですが、それでもマリ、ガーナ、
セネガル等、日本人が旅行者として訪れる国々はいくつかあります。
その西アフリカの中で、一般の旅行者がなかなか行こうと思いつかない国々があります。
今回はそうした国々の中で、シエラレオネを訪れます。
有名な観光地は少ないけれども、行く先々で人々の暮らしと歴史を垣間見ます。
また、コビトカバの生息地として知られるティワイ島で野生の王国を満喫します。
シエラレオネ
1462年(日本は寛正3年。後花園天皇の御代。室町幕府第八代将軍・足利義政の治世)に
ポルトガルの航海士のペドロ・ダ・シントラにより『ライオンの山』と命名されたフリータウン
半島はやがて英国の支配下に置かれました。
1579年(日本は天正7年。正親町天皇の御代。征夷大将軍は足利義昭。織田信長の時代)に
英国の奴隷商人ドレイクの来訪から、1772年(日本は明和9年〜安永元年。後桃園天皇の御代。
江戸幕府第十代将軍・徳川家治の治世)に奴隷制度が廃止されるまでは、バンス島を拠点と
した奴隷貿易が行われました。
1787年(日本は天明7年。光格天皇の御代。江戸幕府第十一代将軍・徳川家斉の治世))に
奴隷貿易廃止運動の志士グランビル・シャープ率いる第一次シエラレオネ入植を皮切りに、
ノバスコシアからの解放奴隷船団や、ジャマイカからの元逃亡奴隷を乗せた船が次々と
シエラレオネに来訪して、いまのシエラレオネ国の基礎が作られました。
1808年(日本は文化5年。光格天皇の御代。江戸幕府第十一代将軍・徳川家斉の治世)〜
1960年(昭和35年)の英国植民地時代を経て、1961年(昭和36年)に独立。
その後不幸な内乱で、国土は疲弊し、経済も低迷しましたが、2002年(平成14年)には
内戦が終結します。その後、エボラ出血熱騒動により一時観光不可能な状態が続きましたが、
現在は観光を産業のひとつと位置付け、リゾートや観光地の整備もすすんできています。
動乱時には訪問が困難だった地域にも観光客向けのホテル等が建設中です。
タクガマ・チンパンジー保護区:
タクガマ・チンパンジー保護区は、内戦時代に棲み家を失ったチンパンジーたちを、
保護しています。
バンス島の奴隷貿易時代の史跡:
1663年(日本は寛文2〜3年。後西天皇〜霊元天皇の御代。江戸幕府第四代将軍・
徳川家綱の治世)にイギリスが貿易の中継地としてバンス島に目を付け、要塞を築き、
入植を開始しました。1670年(寛文10年)にはイギリスの西アフリカ穀倉海岸における
最大の貿易拠点となりました。1702年(日本は元禄15年。東山天皇の御代。江戸幕府
第五代将軍・徳川綱吉の治世。赤穂浪士の討入の起った年)にはフランスにより、島の
要塞が落城。その後、要塞は再建されますが、オランダやポルトガルに占領され、また
イギリスが奪還するという、攻防の歴史が残されています。
1719年(享保4年。中御門天皇の御代。江戸幕府第八代将軍・徳川吉宗の治世)には、
フランス軍に、活動拠点であるヨーク島を攻撃されていたイギリス王立アフリカ会社が
バンス島に活動拠点を移転します。しかし1728年(享保13年)に今度はポルトガルが
バンス島の要塞を攻撃し破壊、王立アフリカ会社は撤退を余儀なくされます。
1750年(寛延3年。桃園天皇の御代。江戸幕府第九代将軍・徳川家重の治世)になると
王立アフリカ会社が利用した要塞は、グランド・サージェント・オズワルド社が引き継ぎ、
直ちに奴隷貿易の主要積出港として機能し始めます。内陸部や、西アフリカ各地から
運ばれてき奴隷たちは、主にアメリカ合衆国や、カリブ海の西インド諸島の小アンティル
諸島へと送られてゆきました。アメリカ合衆国のサウスカロライナ州に住む、ガラ人を
ルーツとするアフリカ系住民は、このバンス島から送られてきたと考えています。
バナナ諸島:
フリータウン半島の南東の沖合いに浮かぶ島々、それがバナナ諸島です。ダブリン島、
リケット島という二つの主島と、その他の島々からなる諸島です。ダブリン島の北の
はずれにはダブリン村があり、1881年(日本は明治14年)に建立された教会の遺構が
ありますが、かつては奴隷収容所として機能していました。ダブリン周辺にはイギリス
植民地時代の大砲、奴隷貿易関連史跡があり、村はずれにはビーチもあります。

<フリータウン市内写真: (左)コットン・ツリー/(右)マルーン教会>

<左: フリータウン半島のビーチ/右: フリータウン俯瞰>

<フリータウン郊外写真: (左)解放奴隷の屋敷/(右)タクガマのチンパンジー>

<フリータウン半島写真: (左)バンス島/(右)バナナ島の民家>

<(左)ある日の食事/(右)路上のバー>
ティワイ島:

1800年代の後期、未亡人であったバリの女王ニャロが、モア川の対岸、ティワイ島の背後に
居住していたコヤの首長に恋をして、ニャロ女王は、コヤの首長と結婚することになりました。
ニャロ女王は、引出物としてティワイ島の半分をコヤの首長に譲渡しました。
以来、バリとコヤの首長による分割統治下に置かれるようになったと伝えられています。
アッパー・ギニア=コンゴ熱帯雨林の一部をなすティワイ島は、生態学的に非常に重要な
野生生物の保護区です。
1979年(日本では昭和54年)に霊長類研究の第一人者であったジョン・オーツがティワイ島に
研究所を設立しました。
現在ではエコツーリズムの可能性を秘めた場所として注目されています。
わずか12平方キロメートルのティワイ島は野生生物の宝庫であり、11種の霊長類、135種以上の
鳥類、多種多様な蝶、627種以上の植物が確認されています。その中でも特筆すべき動物は、
コビトカバです。コビトカバは20世紀にその存在が確認されるまでは、単なるカバの奇形種と
信じられていたと言われています。
竹藪が目につきますが、竹藪の周辺はかつての居住地の遺跡です。竹は昔は住居の建材として
重宝されていました。
川の船着場からキャンプ場を通り、調査棟まで続く遊歩道があり、探勝を楽しむことができます。
ティワイ島には手入れの行き届いたキャンプ場があります。
ビジターセンターは住民や訪問者に開放されており、住民、島の管理人、研究者、旅行者等らと
情報交換をすることもできます。
設備には、マットレスと清潔なシーツを備えた天蓋つきのテント、共同宿泊棟、共同バスルームと
シャワー設備が供えられています。
また、食堂、冷たい飲み物が販売されているバーと厨房があり、軽食、ドライフード、ドリンクを販売
しています。
訪問者は自分の生鮮食品を持参する必要があります。
おみやげも販売され、地元で生産された工芸品、主に織物が名物です。その収益は地域経済を
支えています。
エコツーリズムモデルに従って、島の管理は主に、八つの自治会の長と、環境NGOの間で共同で 行われてます。
観光産業は、島の生命線となっています。
復路のアクラ、アジスアベバでは離団が可能です。お問い合わせ下さい!
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