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知られざるアフリカの国々シリーズ 
2017年09月16日(土)出発限定
西サハラ(モロッコ実効支配地域)と
モロッコ(シャウエン)
スペイン領北アフリカ(セウタ)
イギリス領ジブラルタル 9日間

エミレーツ航空+ロイヤル・モロッコ航空+イベリア航空

ここがポイント!


★ 西アフリカの知られざる国々シリーズ ★


 西サハラ (モロッコ実効支配地域)


西アフリカの国々。日本人にはなじみの薄い国々ですが、それでもマリ、ガーナ、 セネガルなど、日本人が旅行者として訪れる国々はいくつかあります。
その西アフリカの中で、一般の旅行者がなかなか行こうと思いつかない国々が あります。
そのうちスペインからアフリカに返還されてから、帰属の問題に揺れる西サハラのモロッコ実効支配地域を訪れます。
有名な観光地は少ないけれども、行く先々で人々の暮らしと歴史を垣間見ます。

≪西サハラ≫
アフリカ大陸の北部、日没するマグレブのそのまた西、さいはての地にある西サハラ。
かつてのカミオン(トラック)交易ルートであった、アルジェリア〜ニジェール/マリ〜西アフリカのルートが、部族による略奪などの危険性により、衰退。代わって、モロッコから西サハラを抜け、モーリタニアに入るルートが誕生しました。欧州からアフリカをめざす旅客が、一度は夢見たサハラ越え。いまでは、西サハラ地域を通るのがほぼ、一般的となっています。
かつてスペイン領であったこの地域は、現在は帰属のはっきりしない地域。実効支配をしているのは、モロッコです。
今回西サハラ地域の主都アイウンと、大西洋とサハラ砂漠の三か所を巡ります。


・・面積は266,000平方キロメートル
・・人口は270,000人


略史

1884年(日本では明治17年)11月15日より、翌年2月26日まで、ドイツ帝国の首都ベルリンで開催された、列強のアフリカ分割会議『ベルリン会議』により、スペインは現在の西サハラの地域を獲得し、現在のモロッコ最南端部に獲得したスペイン領とは別に、植民地化を進めました。 この地域は中世より続く部族社会が形成されており、スペインの植民地化に執拗な抵抗を見せました。
1904年には、スマラを中心にスペインに対する反乱がおこり、1910年には鎮圧されるものの、その後も断続的に反乱が続き、スペインは目標としていた1934年までの全土制圧は難しいと悟りました。
モロッコは1956年の独立に伴い、現在のモロッコの南部に位置するスペイン領モロッコの返還のみならず、スペインが領有していた現在の西サハラ地域をも返還対象との主張を続け、1957年にモロッコとスペインによる、スペイン領モロッコの領有を巡るイフニ戦争を経て、1969年にはイフニがモロッコに返還されました。 1975年、のちに『緑の行進』と呼ばれる、モロッコ、モーリタニアからの領土要求運動の高まりの中で、ついにスペインはこの地域から撤退しました。

以後、この地域はモーリタニア、モロッコによる分割統治の時代に入りますが、部族の執拗なモーリタニア攻撃により、ついにモーリタニアは領有権を放棄。
現在では、モロッコによる実行支配を受けています。
西サハラの独立を求めるポリサリオ戦線=サハラ・アラブ民主共和国の支配地域と、モロッコ実効支配地域は、『砂の壁』と呼ばれる政治的隔壁によって分断されています。
サハラ・アラブ民主共和国の支配地域は現状では入域が非常に困難で、旅行者が訪れることのできる地域はモロッコ実効支配地域に限られます。

複雑な歴史と部族社会をもったサハラの非独立地域『西サハラ』
今回は、主都ラアユンと、古都スマラ、そしてモーリタニアに近い南部の海岸都市ダフラを訪れ、激動の時代に翻弄されたこの地域の歴史や文化に触れます。

日本や欧米の殆どの国は、モロッコ王国との関係重視の立場から、サハラ・アラブ民主共和国を承認していません。現時点では、さしものパームツアーセンターも、サハラ・アラブ民主共和国の実効支配地域の」手配はできません。

この地域の帰属は、いまだに確定していません・・・

◆旅のスタイルは・・・

この地域を訪れる観光客は、モロッコからモーリタニアに陸路で通過する人々に限られると言われています。
今回は、西サハラ地域を旅の目的地として、この地域を旅したいけれども、情報がなく、旅行の仕方が見えてこない・・・という皆様のため、パームツアーセンター店長の同行するプランに加えました。
観光施設は限られており、ホテルは地方では民宿に近い宿など、地元密着型の旅です。

なんといっても、純粋な観光客など、殆ど来たことのない地域。

お土産屋さんすら、ないかもしれない、西サハラ。
この地域を二度も訪れた店長が、皆様を安全に、比較的ラクに、ご案内致します。

<観光の見どころ>
 スルタン統治の時代からスペイン領時代を経てサハラ・アラブ民主共和国が亡命政権
  として独立宣言をするに到る、各時代の面影をご覧頂くことになります。
 主都アイユンの市内に、大きな枯川があります。軍の屯所があるので、撮影注意!
 大西洋沿岸を走るドライブ。時折、海をご覧頂けます。


コラムは・・・ 沙織里と久美の西サハラの思い出 ・・・By本庄沙織里・久美



 シャウエン CHEFCHAOUEN
 リフ山脈の北麓、標高2050mのティスーカ山と、1616mのメッグ山の山懐にある
 小さな町です。シャウエンとはアラビア語で“角”を意味しますが、ティスーカ山と
 メッグ山が二本の角のように見えることから、町の名がシャウエンになったとか。
 正式名称はシェフシャウエン CHEFCHAOUEN です。
 この町の起源は15世紀に遡ります。1471年(日本は文明3年。後土御門天皇の御代。
 室町幕府第八代将軍・足利義政の治世/第五代古河公方・足利成氏は享徳20年を
 継続使用)にムーレイ・アリ・ベン・ムーサ・ベ・ラチェッド・エル・アラミが、北アフリカに
 侵略してきたポルトガルと戦うための要塞として建設したのが始まりとされます。
 1920年(大正9年)〜1956年(昭和31年)のモロッコ独立まで、シャウエンの町は、
 スペインに占領されていました。町の建物の白壁と、アクセント・カラーのブルーが
 この町を美しく彩ります。この町にしかない民芸品も人気があります。





◆ヘラクレスの柱“セウタ&ジブラルタル◆

ギリシャ神話の英雄ヘラクレス。
そのヘラクレスの十二の功業のうち、第十の功業のくだりに記されたヘラクレスの柱。
現在、その場所は、ひとつはジブラルタル海峡の北、イベリア半島に位置するイギリス領
ジブラルタル、いまひとつは北アフリカのセウタまたはモロッコに比定されています。
それは、古代から交通の要衝として、そして戦略的にも重要視され、“柱”の争奪戦が繰り広げられたことを意味するとも考えられます。
複雑な歴史に彩られたスペイン領北アフリカのセウタと、現在なおイギリス領である
ジブラルタルを訪れます。


★ヘラクレスの柱
ギリシャ神話、英雄ヘラクレスのくだりに登場する伝説の舞台です。
ヘラクレスに課せられた、過酷な“十二の功業”のひとつで出てきます。
大洋オーケアノスの西の果てに浮かぶ、エリュテイア島に住まう怪物ゲーリュオーンが
飼う紅い牛を、エウリュステウス王のもとに連れ帰る、ヘラクレスの十番目の功業の中に
それを見ることができます。
エリュテイアへ向かう途中に、アトラス山を越えねばなりませんでした。
ヘラクレスは近道をしようと考え、もともは巨人であったアトラス山を砕きました。
アトラス三は二つに割れて、ユーラシア大陸とアフリカ大陸が分かれ、大西洋と地中海が繋がりました。
以降、二つに分かれた山を総称し、“ヘラクレスの柱”と呼ぶようになりました。
柱のひとつは、ジブラルタル海峡に面したイギリス領ジブラルタルにある、ジブラルタルの岩。
もうひとつは、諸説ありますが、対岸アフリカのスペイン領セウタにある、アチョ山とも、
モロッコのヘベルムサ山とも言われています。
今回の旅では、イベリア半島にあるイギリス領ジブラルタルと、アフリカにあるスペイン領セウタも訪問します。


★セウタ
アフリカ大陸北部、三方をモロッコに囲まれ、一方が地中海に面したスペインの飛地領、
それがセウタです。
スペイン軍が駐屯するモンテ・アチョ、ヨーロッパとアフリカとを結ぶ航路が開けた港を
中心に町が広がっています。
沖合には、サンタカタリナ島が浮かび、サンタカタリナ島もまた、スペインの領土となっています。
同じ北アフリカの“メリリャ”とともに、“スペイン領北アフリカ”とも呼ばれていますが、
いわゆる植民地ではなく、本土と同じ扱いを受けています。
古代から、セウタは交通の要衝/軍事拠点として重視されてきました。
紀元前7世紀にはフェニキア人が定住。その後、ギリシャ人に占領されます。
紀元前319年、カルタゴがセウタを支配下に置きます。
紀元前201年、第二ポエニ戦争でカルタゴが降伏し、セウタはヌミディアに割譲されます。
紀元前47年には、マウレタニア領となります。
紀元後40年には、ローマの属州マウレタニア・ティンギタナの一都市となり、セプティムと呼ばれるようになります。
5世紀中葉、ヴァンダル人の支配下に置かれましたが、ユステイニアヌス1世の治世、ベリサリウス将軍が占領し、以降、東ローマ帝国領となります。
710年(日本は和銅3年。元明女帝の御代)、イスラム系ウマイヤ朝の侵攻が始まると、西ゴート王国のセウタ伯ユリアヌスはイスラム側に寝返ります。
そのため、セウタはイベリア半島への侵攻の拠点となります。
やがてユリアヌスの死後、セウタはイスラム勢力に支配されるようになります。
788年(日本は天応2年。桓武天皇の御代)、モロッコのイドリス朝がセウタを占領。
931年(日本は延長9年〜承平元年。朱雀天皇の御代)、後ウマイヤ朝のアブド・アッラフマーン3世がイベリア半島のカリフ領を制圧。
その後、グラナダ王国とフェズ王国の係争の舞台となり、さらにカスティーリャ王国とアラゴン王国がセウタ攻略に介入するようになります。
1415年(応永22年。称光天皇の御代。室町幕府第四代将軍・足利義持の治世)、エンリケ航海王子がセウタを奪取。ポルトガル領になりました。
ポルトガル領であった名残に、セウタの紋章がポルトガルの国章に酷似しています。
1580年(日本は天正8年。正親町天皇の御代。織田政権時代。室町幕府第十五代征夷大将軍・足利義昭は室町幕府滅亡後も将軍職に在職)、ポルトガル王朝滅亡に乗じ、ポルトガルはアブスブルゴ朝スペインのフェリペ2世によりスペイン領となり、同時にセウタもスペイン領となります。
18世紀、アメリカ独立戦争の局地戦ジブラルタル包囲戦を勝ち抜いたイギリス海軍が海から、モロッコのアラウイー朝が陸から、セウタを脅かすようになります。
1925年(大正14年)、スペインのカディス県から分離。
1936年(昭和11年)、スペイン内戦に乗じて軍が全権を掌握します。
1956年(昭和31年)、モロッコは独立しますが、セウタはスペインに留まり、今日に到ります。


★ジブラルタル
イベリア半島の南東端に突き出した半島部に位置しており、イギリスの海外領土です。
地名の由来は、ジブラルタル海峡を渡り、イベリア半島を征服したウマイヤ朝の将軍
ターリク・イブン・ズィヤードに
ちなみ、アラビア語で『ターリクの山=ジャバル・アル・ターリク』が訛ったものです。
ネアンデルタール人が居住していた痕跡があり、かなり古くから人が定住していたことが判明しています。
紀元前950年にはフェニキア人がジブラルタルに定住するようになりました。
その後、ローマ人やヴァンダル族、ゴート族などがジブラルタルに一時居住しますが、定住には到りませんでした。
フェニキア人が建国したカルタゴが第1次ポエニ戦争後にジブラルタルと南イベリア半島を勢力下としました。
第2次ポエニ戦争によってカルタゴが降伏し、ローマ帝国がジブラルタルとイベリア半島を属領としました。
400年代の初期から西ゴート族がイベリア半島に入植するようになり、西ローマ帝国滅亡後は西ゴート王国の支配下となりました。
710年(日本は和銅3年。元明女帝の御代)、イスラム系ウマイヤ朝の侵攻が始まり、翌年、西ゴート王国はウマイヤ朝の将軍ターリク・イブン・ズィヤードにより滅亡し、以降、ムーア人の支配下に置かれ、イスラム圏に入ります。
それ以降、ジブラルタルは歴史から姿を消します。
1309年(日本は延慶2年。花園天皇の御代。鎌倉幕府第9代将軍・守邦親王の治世。執権は十六代・北条守時)にナスル朝グラナダ王国の一部となります。
その後、カスティーリャ王国によって一時占領されます。
1333年(大覚寺統:元弘3年。後醍醐天皇の御代/持明院統:正慶2年。光厳天皇の御代)にマリーン朝がジブラルタルを奪還し、マリーン朝はグラナダ王国にジブラルタルを割譲しました。
1462年(日本は寛正3年。後花園天皇の御代。室町幕府第八代将軍・足利義政の治世)、スペインのカスティーリャ王国のメディナ・シドニア公がムーア人からジブラルタルを奪取ました。
フェルナンド2世がスペイン王国を建国した後の1501年(日本は明応10年〜文亀元年。後土御門天皇の御代。室町幕府第十一代将軍・足利義澄の治世)、ジブラルタルもスペイン王国に帰属します。同年にイサベル1世からジブラルタルの紋章が贈られました。
八十年戦争中の1607年(日本は慶長11年。後陽成天皇の御代。江戸幕府第二代将軍・徳川秀忠の治世)オランダ艦隊がスペイン艦隊を奇襲し、ジブラルタル沖が戦場となっるジブラルタルの海戦が勃発し、この海戦によってスペイン艦隊は大打撃を被ります。
1701年(日本は元禄14年。東山天皇の御代。江戸幕府第五代将軍・徳川綱吉の治世)、スペイン継承戦争が勃発。
王位継承者候補の一人であるカール大公(後の神聖ローマ皇帝カール6世)の即位を後押しするイギリス、オランダ、オーストリアがフランス王ルイ14世とスペイン王フェリペ5世に対し、宣戦布告、英蘭墺三国同盟艦隊は、しばしばスペイン南岸の港町を襲撃します。
1704年(日本は元禄17年〜宝永元年。東山天皇の御代。江戸幕府第五代将軍・徳川綱吉の治世)8月4日、ジョージ・ルーク提督率いる英蘭艦隊が支援する海兵隊がジブラルタルに上陸、交渉の末、住民は自主退去し、ジブラルタルは連合軍の指揮下に入ります。
1713年(日本は正徳3年。中御門天皇の御代。江戸幕府第七代将軍・徳川家継の治世)4月11日にユトレヒト条約の締結によって戦争が終結、以降、イギリス領となります。
アメリカ独立戦争が勃発すると、スペインは独立勢力支援に回り、1779年(日本は安永8年。後桃園天皇〜光格天皇の御代。江戸幕府第十代将軍・徳川家治の治世)よりジブラルタルへの厳重な封鎖(ジブラルタル包囲戦)を開始します。イギリスは3年近い包囲戦に耐え、浮砲台を撃破し、ジブラルタルを死守しました。
1985年には既に軍事拠点としての重要性も低下し、スペインとの国境が開放され、現在では観光地として旅行者を受け入れています。


<観光の見どころ>

360°ジブラルタルの岩一周
 ジブラルタルの岩は、英領ジブラルタルの象徴。高さ426mの一枚岩です。
 ジブラルタルの半島部分の殆どを占め、山頂付近は殆どが自然保護区に指定されて
 います。

100トンの大砲
 イギリス政府は19世紀末にロージア湾付近に45センチ砲を据え、砲台を築きました。
 ネイピア・オブ・マグダラ砲台がそれで、他にはヴィクトリア砲台にも同種の大砲が
 据えられました。

ヨーロッパ岬(エウローパ岬)
 ジブラルタル最南端に位置する岬。灯台が建っています。ほか、
 史跡としてハーディング砲台、イブラヒム・アル・イブラヒムのモスク、修道女の井戸、
 ローマ・カトリックの聖母マリア教会、ダドリー・ウォード隧道があります。

カタラン湾 CATALAN BAY
 ジブラルタル東海岸に位置する湾。行楽客用のホテルが建てられています。

ヘラクレスの柱
 ギリシャ神話の英雄ヘラクレスが、アトラス山を超えず、近道をしようと、鎚で山を
 砕いたところ、地中海と大西洋が繋がり、山はそれぞれザ・ロック、セウタの
 アチョ山(異説あり)とに分かれたという伝説があります。

聖マイケルの洞窟
 ジブラルタルの岩には、実に150もの鍾乳洞があると言われていますが、その最も
 有名なものが、西の斜面中腹に位置する『聖マイケルの鍾乳洞』。この鍾乳洞は、
 天然の地形に人の手を加え、コンサートホールになりました。

バーバリー・マカク(エイプス=サル山)
 約250匹のバーバリー・マカク(バーバリー・エイプ)が住んでいます。
 もともとはアルジェリア北部やモロッコに生息するサルで、ジブラルタルに、それらの
 土地から持ち込まれたと考えられています。

市街地
 ジブラルタルの中心には“ザ・ロック=ジブラルタルの岩”が聳えており、岩の麓から
 海にかけて、わずかな平地があります。その平地に市街地があり、空港滑走路や
 スペインとの国境へ続いています。

ジブラルタル包囲戦時の隧道 GREAT SIEGE TUNNEL /
地下道網=GALLERIES
 “ザ・ロック”の愛称で親しまれるジブラルタル・ロックには、地下道網が存在します。
 観光客が通常訪れるのは、第二次大戦時代に掘削された隧道。
 地下通路や弾薬庫、貯蔵庫なども備えた近代的な隧道で、現役軍事施設です。
 最古の隧道はジブラルタル包囲戦(1779年〜1783年)の際に掘られたものです。
 大包囲戦時代、守備隊を指揮していたエリオット将軍は、岩の北部の平地にいる
 スペイン軍の砲列に対し、側面から砲撃すべく戦略を練り、王立工兵の案を入れ、
 ウィリス砲台の上から、方工面の『ザ・ノッチ』なる岩山の天然の突起の部分に到る
 トンネルを掘削させました。この奇想天外な作戦により、イギリス側は3年余の
 大包囲戦に耐えることができたのです。

アン王女砲台: /
オハラ砲台
 “ザ・ロック”の山頂部や山腹には、いくつもの砲台が築かれました。軍事遺跡として
 残されているのはネイピア・オブ・マグダラ砲台、プリンセス・キャロライン砲台、
 バースンズ・ロッジ砲台、そしてアン王女砲台、オハラ砲台があります。

ムーア人のお城
 711年(日本は和銅4年。元明女帝の御代)から1462年(日本は寛正3年。後花園天皇の
 御代。室町幕府第八代将軍・足利義政の治世)にかけてジブラルタルを支配した
 ムーア人が拠点とした城です。煉瓦とTAIPAと言われる固いコンクリートでできた
 ハミッジの塔や、ムーア人の居住地区、浴場などがあります。

ショッピング地区
 スペインに囲まれたようなジブラルタルですが、ショッピング地区には英語看板が
 目立ちます。
 イギリスの商品や、ジブラルタルのおみやげも売られています。
 フィッシュ&チップスのお店もあり、イギリスが感じられます。

ジブラルタル空港滑走路
  スペインとの国境付近に半島と垂直に築かれた滑走路があります。
  ここには、イギリス本土などからの飛行機が離着陸します。




モデルプラン(手配旅行です)


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<01日目>09月16日(土)
■行程: 羽田空港⇒ドバイ⇒カサブランカ⇒アイウン→ベドウィン・キャンプ
・・手続: 搭乗手続〜安全検査/出国
※移動: エミレーツ航空で空路、ドバイへ。
 EK−313 羽田空港    00:30⇒ドバイ     06:15
・・手続: 安全検査
※移動: エミレーツ航空で空路、モロッコのカサブランカへ。
 EK−751 ドバイ     07:25⇒カサブランカ  12:45
・・手続: 入国〜受託荷物引取〜通関〜次便搭乗手続〜安全検査
※移動: ロイヤル・モロッコで空路、西サハラ(モロッコ実効支配地域)のアイウンへ。
 AT−485 カサブランカ  17:00⇒アイウン    18:45
*出迎: 現地のキャンプ職員が空港にてお出迎え致します。
*送迎: 混載の送迎車で空港からベドゥイン・キャンプにご案内致します。
*夕食: ベドゥイン・キャンプ
*宿泊: ベドウイン・キャンプ(ル・カンプ・ベドウィン) テント式旅館
【 朝食: (機内食)||昼食: (機内食)||夕食: ベドウィン・キャンプ
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<02日目>09月17日(日)
■行程: ベドウィン・キャンプ
*朝食: ベドウィン・キャンプ
★体験: 
砂漠体験ツアー(終日)
♪観光: このツアーのハイライトは下記の通りです。砂漠に慣れ親しみましょう!
 ○
砂と上手に付き合う方法を体感
 ○
砂に埋もれる体験
 ○
砂の中でパンを焼く
・・・解説: ベドゥインの人々が共有する砂とともに生きる知恵を学びます。
*昼食: ベドウィン式ピクニック
*夕食: ベドゥイン・キャンプ
*宿泊: ベドウイン・キャンプ(ル・カンプ・ベドウィン) テント式旅館
【 朝食: ベドウィン・キャンプ||昼食: ピクニック||夕食: ベドウィン・キャンプ
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<03日目>09月18日(月)
■行程: ベドウィン・キャンプ
*朝食: ベドウィン・キャンプ
*行楽: 
オウム・ドゥバ湖ツアー The SEBKHA of OUM DBA (半日)
♪観光: このツアーのハイライトは下記の通りです。
 ○
砂漠の窪地をドライブ
 ○
砂漠での塩づくり見学
 ○
砂漠の通路(轍)プチ追跡
・・・解説: ベドゥインの人々が生活の場として生きるサハラ砂漠の様々な表情を見学
*昼食: 野菜タジンの昼食
*行楽: タァ湖ツアー The SEBKHA of TAH (半日)
♪観光: このツアーのハイライトは下記の通りです。
 ○風光明美なタァ湖の湖畔をドライブ
 ○
タァ湖の景観を満喫
 ○サハラ砂漠の窪地へ降下ドライビング
・・・解説: ベドゥインの人々が生活の場として生きるサハラ砂漠の様々な表情を見学
*夕食: ベドゥイン・キャンプ
*宿泊: ベドウイン・キャンプ(ル・カンプ・ベドウィン) テント式旅館
【 朝食: ベドウィン・キャンプ||昼食: ベドウィン・キャンプ||夕食: ベドウィン・キャンプ
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<04日目>09月19日(火)
■行程: ベドウィン・キャンプ
*朝食: ベドウィン・キャンプ
*行楽: 
サハラ砂漠と大西洋の邂逅ツアー (終日)
♪観光: このツアーのハイライトは下記の通りです。
 ○
サハラ砂漠の砂丘をドライブし、サハラ砂漠と大西洋とが合流する地点へ
 ○
素朴な漁村を訪問
 ○
砂漠でのバーベキュー
・・・解説: ベドゥインの人々が暮らすサハラ砂漠と、漁民が暮らす大西洋岸とを見学
*昼食: バーベキュー・ランチ

*夕食: ベドゥイン・キャンプ
*宿泊: ベドウイン・キャンプ(ル・カンプ・ベドウィン) テント式旅館
【 朝食: ベドウィン・キャンプ||昼食: バーベキュー||夕食: ベドウィン・キャンプ
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<05日目>09月20日(水)
■行程: ベドウィン・キャンプ→アイウン⇒カサブランカ
*朝食: ベドウィン・キャンプ
*送迎: 混載の送迎車でホテルからアイウン空港にお送り致します。
・・手続: 搭乗手続〜安全検査
※移動: ロイヤル・モロッコ航空で空路、カサブランカへ。
 AT−486 アイウン    10:35⇒カサブランカ  12:10
・・手続: 受託荷物を引取を済ませ、出口へ。
*送迎: 専用車で空港からシャウエンへ。
*昼食: モロッコ式スナックのお店
*夕食: ローカル・レストラン または ホテル
*宿泊: ホテル・パラドール(スタンダード部屋)または同等
【 朝食: ベドウィン・キャンプ || 昼食: スナック || 夕食: ローカル・レストラン
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<06日目>09月21日(木)
■行程: シャウエン→<国境>→セウタ
*朝食: ホテル
*観光: 午前、徒歩でシャウエンのミニ観光をします。
 ○
アイン門 BAB EL AIN:
  迷路のような旧市街=メディナを囲む城壁の城門で、西側に位置しています。
  この門を入ると、シャウエンの町の商店街が狭い坂道の両側に並んでいます。
 ○
カスバ KASBAH:
  メディナの南の一画に位置するカスバは、要塞として利用されていた建物で、
  17世紀にムーレイ・イスマイルによって築城されました。現在は殆ど廃墟です。
 ○
民芸品店 ARTISANAL:
  シャウエンの民芸品は、モロッコのほかの場所では殆ど見られないといいます。
  このおみやげを求めて、ヨーロッパから観光客がやってきます。値段交渉必至!
*昼食: ローカル・レストラン
*移動: 専用車でモロッコとスペイン領北アフリカの国境地帯へ。
・・手続: モロッコ出国→スペイン入国
*移動: 専用車でスペイン領北アフリカ側の国境からセウタのホテルへ。
*観光: 午前、セウタのウオーキング・ツアーにご案内致します。
 ○アスンシオン・デ・セウタ聖堂: 
  アラブ占領下に建てられたモスクを後年、ポルトガルが教会に変えました。
 ○城壁とサン・フェリペ濠
  ポルトガル時代に建設。海上からの攻撃から街を守るための防衛設備
 ○アフリカ聖母教会
  エンリケ航海王子が寄進した名刹
 ○市庁舎
  1926年に建てられた重厚な建築物
 ○ローマ時代後期の教会
  現在は博物館となっています。
 ○アチョ山
  ヘラクレスの柱と目される伝説地のひとつ。
*夕食: ローカル・レストラン(スペイン料理)
*宿泊: ホテル・セウタ・プエルタ・デ・アフリカ(スタンダード部屋)または同等
【 朝食: ホテル || 昼食: スナック || 夕食: ローカル・レストラン
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<07日目>09月22日(金)
■行程: セウタ〜アルヘシラス→ラ・リネア(⇔ジブラルタル)→マラガ
*朝食: ホテル
*送迎: 専用車でホテルから埠頭へ。
*移動: FRSフェリーでセウタからイベリア半島のアルヘシラスへ。
 FRSフェリー セウタ     09:00〜アルヘシラス  10:00
*移動: 専用車でアルヘシラス埠頭からラ・リネア国境へ。
*移動: 徒歩でイギリス領ジブラルタルへ。
*観光: 半日、ジブラルタル観光(約6時間/プライベートツアー)
 ●
360°ジブラルタルの岩一周
 ○
100トンの大砲
 ○
ヨーロッパ岬(エウローパ岬)
 ○
カタラン湾 CATALAN BAY:
 ○
ヘラクレスの柱
 ◎
聖マイケルの洞窟
 ○
バーバリー・マカク(エイプス=サル山)
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市街地
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ジブラルタル包囲戦時の隧道 GREAT SIEGE TUNNEL: 
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地下道網=GALLERIES
 ◎
アン王女砲台
 ◎
オハラ砲台
 ◎
ムーア人のお城
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ショッピング地区
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ジブラルタル空港滑走路
*昼食: ローカル・レストラン
*移動: 徒歩でスペイン側ラ・リネアへ。
*移動: 専用車でマラガへ。
*夕食: ローカル・レストラン
*宿泊: バルセロ・マラガ(スタンダード部屋)または同等
【 朝食: ホテル || 昼食: スナック || 夕食: ローカル・レストラン
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<08日目>09月23日(土)
■行程: マラガ⇒マドリッド⇒ドバイ⇒
*朝食: ホテル
*移動: 鉄道でマラガ駅(ホテルに隣接)からマラガ空港駅へ。
・・手続: 搭乗手続〜安全検査/出国
※移動: エミレーツ航空で空路、ドバイへ。
 EK−142 マドリッド   15:20⇒ドバイ     00:45 翌日
・・宿泊: 機内泊
【 朝食: ホテル || 昼食: (機内食) || 夕食: (機内食)
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<09日目>09月24日(日)
■行程: ⇒成田空港
・・手続: 安全検査
※移動: エミレーツ航空で空路、成田空港へ。
 EK−318 ドバイ     02:40⇒成田空港    17:35
・・帰国
【 朝食: (機内食) || 昼食: (機内食) || 夕食: X 】
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※内容は予告なく変更になる場合もあります。
※この旅行は手配旅行となります。
 

  2017年09月16日(土)出発決定!
 添乗員が同行し、お世話致します。

  ・・・ 次回は2017年11月を予定しています。




<最少催行人数 :
1名から催行。添乗付きのみ>


人数 現地滞在費用  航空券代金  合計
1名様 お問い合わせ下さい お問い合わせ下さい お問い合わせ下さい
2名様 お問い合わせ下さい お問い合わせ下さい お問い合わせ下さい
3名様 お問い合わせ下さい お問い合わせ下さい お問い合わせ下さい
4名様 お問い合わせ下さい お問い合わせ下さい お問い合わせ下さい
5名様 お問い合わせ下さい お問い合わせ下さい お問い合わせ下さい
6名様 お問い合わせ下さい お問い合わせ下さい お問い合わせ下さい
7名様 お問い合わせ下さい お問い合わせ下さい お問い合わせ下さい
8名様 お問い合わせ下さい お問い合わせ下さい お問い合わせ下さい
9名様 お問い合わせ下さい お問い合わせ下さい お問い合わせ下さい
10名様 お問い合わせ下さい お問い合わせ下さい お問い合わせ下さい
一人部屋
追加料金
 お問い合わせ下さい 


●お申込期間:出発2か月前まで



●ご旅行代金には下記のものが含まれます
 *宿泊: 下記のホテル または同等クラスのスタンダード部屋
  ・・西サハラ: ザ・ベドウィン・キャンプ (テント式旅館)
  ・・シャウエン: ホテル・パラドール(スタンダード部屋)または同等
  ・・セウタ: ホテル・セウタ・プエルタ・デ・アフリカ(スタンダード部屋)または同等
  ・・マラガ: バルセロ・マラガ(スタンダード部屋)または同等
 *食事: 朝食7回/昼食6回/夕食7回
 *交通: 下記の車両/船舶を利用します。
   ・・モロッコ: 専用車
   ・・スペイン領北アフリカ: 専用車
   ・・アルヘシラス→ラ・リネア→マラガ: 専用車
   ・・ジブラルタル観光: 専用車
 *航空: 日本⇒アイウン⇒カサブランカ/マラガ⇒日本 航空券(税・燃油代込)
 *案内: モロッコ、スペイン領北アフリカ、スペイン いずれも英語ガイド兼運転手
 *観光: 入場箇所の入場料/拝観料
 *税金: 宿泊税/観光税
 *添乗: 添乗員の交通費/宿泊費/食費/観光同道経費/査証代/現地での通信費

●ご旅行代金に含まれないもの
 x 通信費: 現地でご利用になる通信費(電話/FAX/ネット)利用費用
 x 飲食代: 明記されない食事代/飲物代/お部屋のミニバーやルーム・サービス
 x 個人費: 洗濯代/ホテルや観光施設の有料サービス・施設使用料
 x 観光費: オプショナル・ツアー
 x 経由地: 経由地での諸経費
 x チップ: ガイドや運転手へのチップ/ホテルの枕銭
 x 渡航費: 旅券(パスポート)申請/更新/査証欄増補などの費用
 x 査証代: ベナン査証代金/トーゴ査証代金/ガーナ査証代金/エチオピア査証代金


●旅券(パスポート)/査証(ビザ):
 ・・旅券(パスポート):
   ・帰国日の翌日から起算して6カ月以上の残存有効期間があることが望ましい
   ・未使用の査証欄が4頁以上あることが望ましい。

 ・・査証(ビザ): 日本国籍のお客様は今回の旅に査証は不要です。
        日本以外の国籍をお持ちのお客様はご相談下さい。






電話でのお問合せは・・・・080−5028−6007 まで

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・・・沙織里と久美の西サハラの思い出・・・

2003年の12月3日。モロッコ屈指の大西洋のリゾート地アガディールをバスで出発しました。陸路、南下して西サハラを目指します。車窓からはサトウキビ畑やナツメヤシの群生、ときにはヤギの大群が見えました。ティズニットという街を通過。ここは1882年にムーレイ・ハッサンが築いた城壁の街で、フランス保護領化に最後まで抵抗したレジスタンスの拠点だったそうです。こんな深い南部にも外国人観光客の姿がちらほら・・・
ティズニットを過ぎるとグーリミンまでは荒涼とした風景が続きます。1970年代は、西サハラ紛争が激化しており、モロッコ側で南下できるのはグーリミンが限界、その南へ行く公共交通機関はなかったそうです。
夕刻、タンタンという街に到着。この日はタンタンにある、カスバのようなホテルにて宿泊。バスを降りてタクシーに乗ると、さかんに運転手が家に遊びに来るように言います。知らない場所で知らない男の人に声をかけられても行ってはいけない・・・ 両親から聞いていた私たち姉妹は、そのままホテルまで送ってもらいました。お茶だけでも、というので、ホテルの前でお茶を入れているサハラの民?のお盆と七輪とお茶道具だけの露店で、三杯のミントティーをごちそうになります。私たちの警戒がわかっていたようで、ティズニットから南はモロッコじゃない。ベルベル人は、モロッコ人とは違う。本当に自分たちの文化や伝統を知ってもらいたいんだ・・・たどたどしい英語ながら彼らの誇りを語ります。翌日はバスがありません。午前、運転手のおうちに遊びに行きました。しかし、実際に私たち姉妹をもてなしてくれたのは、彼の奥さん、娘さんたち、そしてお母さん。メラハフと呼ばれる伝統衣装の下は、Tシャツにジーンズ。抑圧を受けているようなイメージを持っていたイスラム教徒の女性も、家の女性の部屋では、おしゃれな格好をしていることを知りました。その日は、お昼にクスクス、夜にタジンまでごちそうになり、最後はホテルまで送ってもらいました。ベルベルの人たちが大切にしている伝統に触れた一日でした。
その翌日、バスに乗って南下。タンタン・プラージュ保養地を過ぎると時折、右の車窓に大西洋が見えます。お昼過ぎ、タルフィヤに到着。モロッコと西サハラを地理的・行政的に分ける、いわば国境の町。ここは西サハラや地中海沿岸のメリリャ、セウタとともに、スペイン領北アフリカに属していた街で、大西洋に浮かぶスペイン領カナリア諸島のフエルテベントゥーラ島にもっとも近いアフリカ大陸の街。
タルフィヤを過ぎると、再びバスは内陸を走り、夕刻、西サハラの北の玄関ラアユーン(アイウン)に到着しました。
西サハラ〜サハラウィの亡命政権は有名ですが、実情は、ラアユーンを含め、西サハラの殆どはモロッコが実効支配しています。街のホテルに旅装を解き、散策をすることにしました。
ラアユーンの街自体は、箱庭のようなイメージで、殺風景な社会主義的なビルが並ぶ、なんの変哲もない街ながら、街の中心に巨大な枯川(ワジ)があるのが特徴。但し、ワジの反対側はモロッコ軍の駐屯地となっていて、写真は撮れません。この日の夕食は、室料に含まれており、外国では珍しく、部屋まで食事を運んでくれました。銀色のトレーには、ローストチキン、サラダ、アラビア風のパン、豆の入ったショルバ、クスクス・・・ 異郷の中でさらに異郷を感じました。モロッコに実効支配されながら、どことなくヨーロッパを感じさせる不思議な街。しかしながら近年の建設ラッシュで、少しずつ街の人口密度が高くなってきているとか・・・
砂漠に行くと、先住民族であるベルベルの生活をイメージさせるツーリストキャンプがあります。ツーリストの殆どは、ラアユーンに空路で訪れ、こうしたキャンプに宿泊します。サハラ砂漠の最果て、大西洋と出会う場所に四輪駆動車でサファリに行ったり、満天の星の下でバーベキューをしたり、いま、西サハラは動乱の地というイメージを払しょくし、観光地として生まれ変わろうとしています。10年後、もし行くことがあったら、もっとツーリストに便利な土地になっているかもしれません。
(文: 本庄沙織里)


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