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2018 FIFA W杯 対戦相手の国をみよう! ベルギー歴史探訪とオランダ幕府艦隊建造の歴史的景観9日間 ブリュッセル/アントワープ/オランダ幕府艦隊建造の歴史的景観 バールレ=ナッサウ&バールレ=ヘルトフ/ ゲント/ブルージュ 添乗員が同行します。 オランダでは、旧造船所/造船所跡は国家機密のため、特別な許可がなければ入れません。 日本とかかわりの深い船が建造された場所の歴史的景観をご覧いただきます。 榎本武揚が、澤太郎左衛門が、林研海が、赤松良則が、津田真道が、西周が見た風景がそこにあるかもしれません。 ベルギー王国は、西ヨーロッパに位置する連邦立憲君主国で、オランダ王国、 ルクセンブルク大公国、フランス共和国、ドイツ連邦共和国と、国境を接して います。オランダとルクセンブルクとあわせてベネルクス三国と呼ばれます。 面積は30,528平方キロメートルあり、首都はブリュッセルです。 ベルギー王国の成立(独立)は、1839年(日本は文政13年。仁孝天皇の 御代。江戸幕府第十一代将軍・徳川家斉の治世)に遡ります。 成立(独立)以前のベルギーは、ヨーロッパの戦略的要衝であったこともあり、 大国の領土の一部であったり、小国がひしめき合う群雄割拠の地域であったり しました。成立直前は『ネーデルラント連合王国』構成国の一部でありました。 大国に翻弄され、群雄割拠する戦国時代を体験したベルギーの公用語は オランダ語(ベルギー方言=フラマン語)、フランス語、ドイツ語で、独自の 言語を持っていません。北部のフランデレン地域はオランダ語が話されており、 南部のワロン地域ではフランス語が話されています。また首都ブリュッセルは オランダ語とフランス語が併用されています。地方によってドイツ語が話され、 この国の複雑な歴史や行政事情を伺い知ることができます。 今回は入門編。首都ブリュッセルと、古都ブルージュ、オランダとの国境線が 入り組む場所を訪れます。 ブリュッセルはベルギーの首都です。 オランダ語が公用語のフランデレン地域、フランス語が公用語のワロン地域、 そしてブリュッセル首都圏地域の三つの地方に分かれています。 ヨーロッパの長い歴史から見たら、比較的、新しい国家ですが、激動の時代を 体験した国であるため、史跡や古い建造物がたくさんあります。 今回の旅では、ブリュッセル、ブルージュに加え、もう一つの古都ゲントを訪問、 古都三都めぐりに、国境線と飛地の宝庫バールレ=ヘルトフを訪れます。 <観光のみどころ> ブリュッセル ベルギーの首都であると同時に、欧州連合理事会事務局が置かれているため、 『EUの首都』とも呼ばれています。NATO(北大西洋条約機構)の本部も ブリュッセルに置かれています。ヨーロッパ地方の国際機構が集まるためか、 あるいは様々な民族がこの地方の歴史の流れの中を通り過ぎて行ったためか、 ブリュッセル市は、世界でも有数の『グルメの町』としても知られています。 グラン=プラスの北に位置するイロ・サクレ地区に多くのレストランが集まり、 市内にベルギー・ワッフルやベルギー・チョコレートの老舗もあります。 まずは世界文化遺産に登録されたグラン=プラスを中心に歩いてみましょう。 グラン=プラス: グラン=プラスは、ブリュッセル市の中心部に位置する大広場で、ユネスコの 世界文化遺産に登録されています。町としての歴史は15世紀以前に始まって いますが、1695年(日本は元禄8年。東山天皇の御代。江戸幕府第五代将軍・ 徳川綱吉の治世)8月13日、フランス軍の砲撃により、グラン=プラスは、 かなり大きな被害を受けました。現在は修復され、観光地として有名です。 市庁舎: グラン=プラスの 7 と 8 の間に位置しています。 1402年(日本は応永9年。後小松天皇の御代。室町幕府第四代将軍・足利 義持の治世)から〜1455年(享徳4〜康正元年。御花園天皇の御代。室町 幕府第八代将軍・足利義政の治世)の間に建てられた、左右非対称の市庁舎。 前述のフランス軍の砲撃により、グラン=プラスの多くの建物が被害を受けた 中で、市庁舎の大部分は辛くも壊滅を免れました。ゴシック様式の塔は96m、 てっぺんに竜を退治するミシェル(ブリュッセル守護天使)が祀られています。 王の家(ブリュッセル市立博物館): グラン=プラスの欠番(29-33)に位置しています。 12世紀以降パン市場であった木造建築を、15世紀に石造にし、ブラバント 公行政庁が置かれました。公がスペイン王になり、王の家と呼ばれました。 ブラバン公の館: グラン=プラスの 19 番の隣にある番外 金箔で飾られた豪華なファサードが印象的な豪壮な建築物です。この建物が、 ブラバント公の館跡です。内部に歴代のブラバント公の胸像を安置しています。 ギルド(職業組合)ハウス群: ギルドとは、中世に相互扶助を目的として組織された、職業別組合のことです。 グラン=プラスには中世さまざまなギルドがありました。ギルドが存在しない 現代でも、建物を飾る道具によって、そこが何のギルドだったか想像できます。 ・・1 スペイン王: パン職人のギルド跡 ・・2-3 猫車 La Broouette : 油精製職人のギルド跡/聖ジル像が飾られています。 ・・4 袋 Le Sac : 家具・樽職人のギルド跡 ・・5 雌狼 La Louve : 射手の役宅跡/狼に育てられたロームルスとレムルのレリーフあり ・・6 角笛: 船頭の家跡 ・・7 狐 Le Renard : 小間物屋のギルド跡/てっぺんに聖二コラの像を祀る ・・8 星 L'Etoile : 地方行政官の役宅跡/最古のギルドハウス/英雄セルクラース像 ・・9 白鳥 Le Cygne : 精肉店のギルド跡 ・・10 黄金の木 L'Arbre D'or : ビール醸造業のギルド跡/現ビール博物館 ・・11 バラ ・・12 タボール山 ・・13 ざりがに(または名声): ワインセラー/八百屋のギルド跡 ・・14 財産: 皮なめし職人のギルド跡 ・・15 運命: ・・16 風車: 製粉業のギルド跡 ・・17 錫の壺: 大工のギルド跡 ・・18 丘: ・・19 財布: 洋服商人のギルド跡 ・・20 牡鹿: ・・21 ジョセフ: ・・22 アンナ: 醸造業者のギルド跡 ・・23 天使 L'Ange : イタリア=フラマン様式の建物 ・・24-25 黄金の汽艇 La Chaloupe d'Or : 洋服商人・仕立屋のギルド ・・26-27 鳩 Le Pigeon : 塗装職人のギルド跡/フランスの文人ヴィクトル・ユーゴー寓居跡 ・・28 執政官: 執政官の役宅跡 ・・29-30-31-32-33 欠番 ・・34 兜: 果物商のギルド跡 ・・35 孔雀 La Paon : 18世紀に建てられた当時の特徴的な切妻が印象的 ・・36 小狐: ・・37 樫: 靴下編みのギルド跡 ・・38 聖バルバラとロバ: 小便小僧: 反政府軍がブリュッセルを爆破しようとした際に、導火線に放尿して鎮火した ジュリアン坊やを顕彰した銅像であるという伝説があります。 小便少女: 小便小僧に対抗するように制作されたと言われています。以前ご利益があると いう伝説で触る人が多かったため、やや噴水部分が疲弊しています。 王立モネ劇場: 1700年(日本は元禄13年。東山天皇の御代。江戸幕府第五代将軍・徳川 綱吉の治世)に創立のオペラ劇場。旧造幣局だったことが名前の由来です。 ギャルリー・サン=チュベール: 1847年(日本は弘化4年。孝明天皇の御代。江戸幕府第十二代将軍・徳川 家慶の治世)に竣工したヨーロッパ最古のショッピングアーケードのひとつ。 王宮: ベルギー王国の国王の住まわれる宮殿。王宮はフランス語でパレ・ロワイヤル Palais Royal と呼ばれています。 聖ミッシェル・エ・ギュデュル大聖堂: ベルギー王室の冠婚葬祭にも使用される、ベルギーの名刹中の名刹で、王家の 勅願寺院。13世紀から4世紀かけて建立されたゴシック様式の伽藍がみごと。 ベルギー漫画センター: アールヌーヴォーで有名な建築家ヴィクトル・オルタが建てた元ウォーケーズ 織物市場を改装した建物で、タンタンをはじめベルギー漫画の美術館です。 オルタの家(世界文化遺産): アールヌーヴォーで知られる建築家ヴィクトル・オルタの自宅兼アトリエです。 世界文化遺産『建築家ヴィクトル・オルタの主な都市邸宅群』のひとつです。 タッセルの家(世界文化遺産): 大学教授であったタッセルの家は、世界で初めてのアールヌーヴォー建築です。 世界文化遺産『建築家ヴィクトル・オルタの主な都市邸宅群』のひとつです。 ソルヴェイの家(世界文化遺産): 高価な建材を惜しげもなく使った大富豪ソルヴェイの家も、アールヌーヴォー。 世界文化遺産『建築家ヴィクトル・オルタの主な都市邸宅群』のひとつです。 ノートルダム・ド・ラ・シャペル教会: 1403年(日本は応永10年。後小松天皇の御代。室町幕府第四代将軍・足利 義持の治世)建立のブリュッセル最古の教会。ロマネスク様式の翼楼とゴシック 様式の内陣とが混在する珍しい建築様式で知られています。ブリュッセルの鉄道 駅のひとつ、ブリュッセル・シャペル駅の名は、この古刹の名に由来しています。 ノートルダム・デュ・サブロン教会: 15世紀に建立された古刹のひとつ。典型的なフランボワイヤン・ゴシック建築 様式で建てられています。大きく、美しいステンドグラスが印象的。 アル門: 14世紀にはブリュッセルは城壁に護られていました。アル門は城壁の内外を 隔てるブリュッセルの玄関口の役割を果たしていました。旧市街南端にあります。 ルネ・マグリット美術館: シュルレアリスムの第一人者のひとりであったルネ・マグリットの旧宅です。 ベルギーの生んだ偉人のひとりです。 アントワープ アントワープはブリュッセルからオランダとの国境に向かう街道上にある都市。 ベルギー第二の都市で、世界有数の良港を持つ港町でもあります。ダイヤモンド 研磨と取引の中心地として知られ、17世紀に活躍した画家ペーター・パウル・ ルーベンスの活躍の場であり、『フランダースの犬』の舞台でもあり、最近では ベルギー・ファッションの流行の最先端をゆく流行の発信地としても有名です。 ペーター・パウル・ルーベンス(1577〜1640)は、ドイツに生まれて、 アントワープで画家としての修行を積みました。23歳から8年間はイタリアで 宮廷画家として名を成しました。その後、アントワープに戻って、引き続き宮廷 画家として活躍しました。壮大な構図の中に、色彩を巧みに使って壮麗な絵画に 仕上げる画法を確立させました。多くの弟子たちはルーベンスの画法を会得し、 1500とも2000とも言われる作品群を世に送り出しました。ヨーロッパの 各地から注文が相次ぎ、ルーベンスの名声は欧州全土に広がりました。彼はまた、 外交官としても活躍しました。聖母大聖堂に『キリスト昇架』『キリスト降架』が 収められています。ルーベンスの住居兼アトリエや像等の関連史跡が残ります。 アントワープ中央駅: 1905年(日本は明治38年。日露戦争の時代)に着工し、10年もの歳月を かけ完成した駅舎は、その荘厳さから『鉄道大聖堂』という愛称を持っています。 聖ヤコブ教会: 1491年(日本は延徳3年。後土御門天皇の御代。室町幕府第十代将軍・足利 義材=後の義稙の治世)に着工〜1656年(日本は明暦2年。後西天皇の御代。 江戸幕府第四代将軍・徳川家綱の治世)に竣工という名刹。大祭壇の裏手には、 ルーベンスと一族の墓所があります。内装も必見で、なんと100種類以上もの 大理石が使用されています。 牛乳市場跡(『フランダースの犬』の舞台): 聖母大聖堂の北には、かつて牛乳市場がありました。現在は通りのプレートに 『MELKMARKT』=牛乳市場の文字があるのみで、痕跡は残っていません。 『フランダースの犬』では、少年ネロが愛犬パトラッシュと一緒に、毎日牛乳を 運ぶ場面があります。少年ネロは、向かいに建つ聖母大聖堂に奉納されている、 ルーベンスの絵に憧れを抱く描写があります。 聖母大聖堂: フランドル地方で最大のゴシック建築様式の大聖堂です。1352年(日本では 南北朝時代で、南朝は正平7年。後村上天皇の御代/北朝は観応3〜文和元年。 崇光天皇〜後光厳天皇の御代。室町幕府初代将軍・足利尊氏の治世)の着工から 169年の歳月をかけて建立された名刹です。その後も増築が重ねられ、現在の 姿になったのは1533年(日本では天文2年。後奈良天皇の御代。室町幕府第 十二代将軍・足利義晴の治世)ですが大火もあり、寄進が滞り、高さ123mの 北塔は完成しましたが、南塔は未完成に終わりました。内陣には、ルーベンスの 名作『聖母被昇天』『キリスト昇架』『キリスト降架』が奉納されています。 ネロとパトラッシュ記念碑(『フランダースの犬』の舞台): 名作『フランダースの犬』には、牛乳市場や、聖母大聖堂とルーベンスの絵画が 出てきます。そのため、聖母大聖堂の西にこの記念碑が置かれました。 精肉業者のギルドハウス: 一見、寺院建築のようもに見えますが、16世紀に建てられた精肉業者のギルド ハウスです。現在は古代からの楽器や音楽史料の資料館になっています。 マルクト広場: マルクト広場とは、市の立つ広場のことです。ここにある噴水にアントワープの 地名の由来が見られます。兵士ブラボーが、巨人アンチゴーヌの手 ant を切り 落とし、川に投げ捨て werpen 退治した伝説を表現した像のある噴水です。 マルクト広場を囲む建物に注目してみましょう。豪華絢爛と言ってもよい装飾を 施した美しいギルドハウスが囲んでいます。 市庁舎: マルクト広場に建つ市庁舎は、このあたりでは珍しい、イタリア&フランドル・ ルネッサンス様式なのは、イタリアの建築家が建設に参加したからです。 王立美術館: 18世紀末に設立された王立美術館で、ルーベンスをはじめとする画家が描いた フランドル絵画の14世紀から20世紀の作品を収蔵しています。 モード・ミュージアム: ファッション関連のショップが並ぶ一角にあるモード・ミュージアム。16世紀 以降のファッション史の史料や、世界のデザイナーの作品を展示しています。 プランタン・モレトゥス印刷博物館: アントワープで16世紀に活躍した印刷業者クリストフェル・プランタン工房跡。 活字をはじめとする活版印刷の道具やプレス機、古文書等を展示しています。 ルーベンスの住居兼アトリエ: ルーベンスが1616年(日本は元和2年。後水尾天皇の御代。江戸幕府第二代 将軍・徳川秀忠の治世)から亡くなるまでの29年間を過ごした住居です。 ゲント ゲントは、ベルギーのフランデレン地域のうち、オースト=フランデレン州の 州都で、フラマン語でヘントと発音されます。ブリュッセル、アントワープに 次ぐベルギーの第三の都市であり、『花の都』という愛称がつけられています。 地名は、『川の合流地点』あるいは『街道の合流地点』を意味するケルト語に 由来するといわれています。9世紀から18世紀にかけてフランドル伯領で、 ゲントにはフランドル伯の居城があります。中世の末期には、織布業が発展し、 パリの比肩するほどの織布業の一大センターとして君臨した歴史があります。 美しい町並みは内外の観光客に人気で、ユネスコの世界文化遺産に登録されて いる建造物が複数存在しており、『ベルギーとフランスの鐘楼群』に含まれる ラーケンホール、鐘楼、MAMMELOKKER、そして『フランドル地方のベギン 会修道院群』に含まれる小修道院が該当します。運河での舟遊びも可能です。 聖バーフ大聖堂: 着工は12世紀で、竣工が16世紀という大聖堂は、ゲントのシンボルです。 600年以上前に描かれた、有名なファン・エイク兄弟の作による極彩色の 祭壇の絵『神秘の子羊』は、緻密な画法で描かれた、15世紀のフランドル 絵画の傑作とうたわれています。現在、『神秘の子羊』は修復に入っており、 一部のみ拝観できます。 聖ニコラス教会: 13世紀から15世紀に建立された、スヘルデ川流域特有のゴシック様式の 教会です。聖ニコラスは漁師の守護聖人のため、信者に漁師が多いそうです。 鐘楼(世界文化遺産): 世界文化遺産『ベルギーとフランスの鐘楼群』を構成する鐘楼のひとつです。 ギルドの繁栄はこの町に富をもたらし、その富を象徴する建物として鐘楼が 建立されました。この鐘楼にカリヨンが設置されたのは16世紀のことです。 現在は繊維ホールとして利用されており、ゲントの歴史に関する史料等が、 展示されています。また、鐘楼に上れば、ゲントの市街地が一望できます。 市庁舎: ゲントの街の中央広場であるマルクト広場(市場広場)に建てられています。 1576年(日本は天正4年。正親町天皇の御代。室町幕府第十五代将軍・ 足利義昭の時代。織田信長の治世)にゲントの講和条約が締結された史跡で、 ゴシック様式や、バロック様式等、複数の建築様式で建てられている珍しい 建物です。聖ニコラス教会や鐘楼も、マルクト広場の近くに位置しています。 民俗博物館: 別名は『アリンの家』。14世紀に建てられ、施療院や養生所、病院として 使われた建物で、現在は民俗博物館であり、カフェや人形劇場もあります。 フランドル伯の居城: 北海からヴァイキングが侵入するようになった9世紀に築城された城塞で、 後に裁判所や造幣局、牢獄等に転用され、現在は拷問器具の資料館です。 小ベギン会修道院(世界文化遺産): 世界文化遺産に登録されている、『フランドル地方のベギン会修道院群』を 構成しています。院内は教会堂を中心に、その周囲を17世紀〜18世紀の 住居群が囲む「伽藍配置」となっています。教会堂は、フラマン・バロック 建築様式の傑作のひとつで、内部拝観は不可ですが、外部拝観は可能です。 精肉市場(グロート・ヴリーズ・ハウス): レイエ河が二つにわかれる分岐の河岸に、巨大な精肉市場が見えてきます。 倉庫のような作りになっている珍しい建物で、中にはカフェがあります。 グラスレイ(レイエ河岸): グラスレイはレイエ川の東岸に位置しており、『香草河岸』という意味です。 ブラバント・ゴシック様式や、バロック様式の建物が建ち並んでいて壮観。 これらの建物はいずれもギルドハウスとして建てられた建築物です。中世の ゲントの富を生み出した場所のひとつで、ユニークな形をした豪壮な建物が 印象的なエリアです。それぞれの建物のファサードが特徴的で、必見です。 コーレンレイ(レイエ河岸): コーレンレイはレイエ川の西岸に位置しており、『穀物河岸』という意味で、 建物の多くは20世紀に復元されたものですが、ギルドの繁栄は偲べます。 聖ミカエル橋: 聖ミカエル像を祀る美しい街灯が建つ場所にある名橋で、聖ハーブ大聖堂や 聖ニコラス教会、ギルドハウス、鐘楼などが一望できる絶景スポットです。 運河の舟遊び: ブルージュと同様に、このゲントでも運河の舟遊びを楽しむことができます。 ゲントの旧市街を水上から眺める人気コースで、違った印象を楽しめます。 ブルージュ 『天井のない美術館』と呼ばれる史跡の宝庫で、ウエスト=フランデレン州の 州都です。オランダ語のベルギー方言フラマン語ではブルッヘ、ブリュッヘ、 フランス語でブリュージュ、英語ではブルージュと、様々に呼ばれています。 地名の由来は『橋』。ブルージュは運河が“名物”ですが、その運河にかかる たくさんの橋こそが、ブルージュの街の象徴と言っても過言ではありません。 9世紀、初代のフランドル伯ボードゥアン一世が築城した城塞が、街の起源と 言われています。3代のアルヌルフ一世の治世に要塞の補強が行われました。 その際シント・ドナティアン教会、シント・サルヴァトール教会が建立され、 現在に残る史跡都市ブルージュ/ブルッヘの基礎ができたと考えられています。 12世紀、大津波が、海から10km以上も離れたブルージュを襲いました。 大津波は、街に巨大な溝を残しました。時の為政者フランドル伯フィリップ・ ダルザスの台命によって、北海の出口ズウィン湾とブルージュとを結ぶ運河が 整備され、街中には、溝を利用した運河を建造して、水運に適した街に生まれ 変わりました。海から10kmも離れたブルージュが、中世を代表する港湾 都市になれたのは、このような経緯があったからです。ブルージュはイギリス、 北欧などとの交易により発展し、13世紀にはハンザ同盟の在外商館が置かれ、 1277年(日本は二度の元寇のはざまである健治3年。後宇多天皇の御代。 鎌倉幕府第七代将軍・源惟康=のちの惟康親王/第八代執権・北条時宗の治世) には、それまでは主に地中海を活躍の場としていたジェノヴァの商人も訪れる ようになり、ブルージュは交易・金融の拠点として発展しました。ブルージュ 市民はこれにより裕福となり、自分たちの成功のモニュメントとして、中心に 巨大な鐘楼を建立しました。為政者や教会の背景がなく、市民が鐘楼を寄進、 それは当時の世相では、まったく異例のことでした。その時代のブルージュは、 資本主義社会の最初の拠点であると考えられています。日本の戦国時代、泉州・ 堺の街がそうであったように、市民の執政権が認められていたと考えられます。 しかし、15世紀になり、輸送船の大型化が進むと、ブルージュの運河は利用 価値が激減、徐々に衰退してゆきます。いつしか歴史の表舞台から姿を消して しまいましたが、19世紀、運河が再整備され、古都としてよみがえりました。 ブルージュを有名にしているのは、三種類の世界遺産登録物件がひとつの街に 存在することで、ひとつは『ブルッヘ歴史地区』、もうひとつは『フランドル 地方のベギン会修道院群に含まれるベギン会修道院』、そして、『ベルギーと フランスの鐘楼群に含まれる鐘楼』です。ブルージュではぜひ運河の舟遊びを 楽しみたいものです。ブルージュの街の歴史は運河の歴史と言っても過言では ありません。 ブルッヘ(ブルージュ)歴史地区: ブルージュ歴史地区にあるもの全てが貴重な史跡であり、文化遺産と言えます。 まるで浸水しているかのようにも見える、運河沿いの建物、古色蒼然とした橋、 ブルージュ市民の誇りの象徴でもある鐘楼、そして市街に建つ教会の尖塔の数々、 名物のレースの専門店、水上から歴史的建造物を眺める運河クルーズ、この町の たのしみは尽きません。 聖救世主教会: 正式名称は聖サルバトーレ大聖堂。13世紀に建立されたブルージュ最古の教会。 荘厳なゴシック様式の大聖堂ですが、もともとは10世紀創建とのことです。 聖血礼拝堂: ロマネスク期に建立され、後にゴシック様式に改修されたバシリカ式の教会堂。 第一回十字軍の際、フランドル伯が持ち帰ったキリストの血(聖血)に由来する 名刹です。教会堂内部には、極彩色で描かれたキリストと天使たちの絵があり、 荘厳な雰囲気に包まれています。尚、宗教的年中行事には、聖血のお練りがあり、 多くの信者がお練りを一目見ようと集まります。 聖母大聖堂: 最後のブルゴーニュ公のシャルル突進公と息女マリーの棺が安置されています。 また、ここにはミケランジェロ作の聖母子像が保管されています。 グルニング美術館: 地方領主の屋敷であった建物を改装した美術館で、ファン・エイク、メムリンク、 ブリューゲルといった芸術家の作品が収められています。 聖ヨハネ施療院; 12世紀に活動を開始した聖ヨハネ施療院は、ヨーロッパで最も古い病院の一つ。 ここでは傷病人だけではなく、巡礼者の診察、老人医療なども行われていました。 裕福な市民によって寄進されたことで知られ、16世紀以降は正規の医療施設に なり、20世紀までは病院として機能していました。内部のメムリンク美術館に 『聖ウルスラの聖遺物匣』はベルギー七大秘宝の一つ。薬局資料館もあります。 愛の池公園: 愛する女性の死を悼んで、戦士が湖を作って供養したという伝説のある場所です。 実際はレイエ川の水路の水を調整するために作られた貯水湖で遊歩道があります。 ウェスト=フランデレン市庁舎: ブルージュはウェスト=フランデレン州の州都であり、同州の市庁舎があります。 巨大な豪壮建築で、ブルッヘ行政区ほか8つの行政区画の行政を管轄しています。 十字の門: 中世、ブルージュの旧市街は堅固な城壁に守られていました。現在、城壁は殆ど 原型をとどめていませんが、十字の門をはじめ、四つの城門は残されています。 フランドル地方のベギン会修道院群/ブルッヘ(世界文化遺産): ベギン会修道院群と呼ばれていますが、実態は信仰を基盤とした互助会のような 組織で、半僧半俗のいわば在家の尼僧という存在の人たちが、共同生活を行って いたベギンホフ(フラマン語)に由来しています。修道院とよばれているのは、 現在、ベギンホフ跡地が修道院として再利用されているためです。ベギンホフは 施療院や礼拝堂、住宅が揃った、外界とは隔絶された隠れ里のようなものでした。 鐘楼/ベルギーとフランスの鐘楼群(世界文化遺産): ブルージュの歴史地区でもひときわ目立つ、荘厳な高い塔、それがブルージュの 鐘楼です。北海とブルージュを結ぶ運河により、交易や金融で裕福になった市民、 その市民が寄進したのがこの鐘楼です。為政者(王侯貴族)や宗教的権威という 背景を一切持たない、市民のための鐘楼です。目の前の広場はマルクト広場です。 ブルッヘ・ゼーブルッヘ港: ブルージュ発展のきっかけとなったのは、ゼーブルッヘ港のある海岸を襲った、 中世の大津波でした。この津波が海岸から10kmも離れたブルージュをえぐり、 その時できた溝が、後に北海とブルージュを結ぶ運河になったという、まさしく 怪我の功名でした。現在は何の変哲もない海港かもしれませんが、この港こそが ブルージュを中世の交易・金融センターに押し上げたのは紛れもない史実です。 運河: ブルージュを訪れたらぜひ体験したいのが運河での舟遊び。舟に乗って水上から 古都ブルージュを眺めることができます。30分ほどの舟遊びですが、名物の橋、 古色蒼然とした建築物等、みどころ満載です。ダイフェル運河には5つの乗場が あって、どこからでも乗れ、どこでも降りることができるようになっています。 町おこしの一環で始まったそうですが、現在は観光のめだまの一つです。 ・・ブルージュでいちばん低い橋 ・・愛の湖に続く水門 ・・旧税関(脱税防止のため、船が簡単にすり抜けられないよう、川幅を狭めてあります) ・・聖母教会の撮影スポット ・・ブルージュ最古の橋『メー橋』 ・・ブルージュ出身の文人『ギドー・ゲゼル』の家 ・・ギルドハウス群 ・・商工会議所の塔の遠望 ・・古い家並み(まるで冠水しているように見えます) バールレ=ナッサウとバールレ=ヘルトフ バールレ=ナッサウ/バールレ=ヘルトフ: ベルギーから国境を越えてオランダに入り、5kmほど北上した場所にあります。 一見、なんの変哲もない街ですが、実はベルギーとオランダの国境が入り組んだ 不思議な場所です。オランダの街バールレ=ナッサウの中に、ベルギーの飛地が 実に21か所存在します。それらのベルギー領をまとめてバールレ=ヘルトフと 呼んでいます。オランダ側の人口は約6千人、ベルギー川の人口は約2千人です。 もともとはローマ帝国の植民都市として、紀元前1世紀に造られた街が、ここの 起源と言われています。この場所が史書に登場するのは、992年(日本は正暦 3年。一条天皇の御代。関白・藤原道隆の時代)で、その時代はまだ荒野でした。 12世紀末、この地でブラバント公爵と、オランダ領のブレダの領主との間で、 係争が起こりました。その係争の結果、ブラバント公爵は、ブレダの領主に対し ブレダ南部の領地を封建領地として与えました。その際、ブラバント公爵は自分の 領地であるバールレ=ヘルトフを残しました。やがて、ブレダ領主ナッサウ家が 自分の領地に街を造った際、ブラバント公爵領が中に取り込まれたことにより、 現在の不思議な国境線が入り組む場所が出来上がったのでした。さらにベルギー 領の中に、オランダ領の飛地があるという場所も、存在します。一軒の家の中を 国境線が走っている場合、その家の玄関がどちらの国に向いているかで、国籍が 決まる古都になっています。 ※個人旅行者がバールレ=ヘルトフに行く場合、ブリュッセルから鉄道でブレダまで行き、ブレダからバスに乗ってアクセスします。 ★オランダは江戸時代において唯一の欧州の貿易国として、江戸幕府が貿易を独占し ていました。黒船来航も、オランダにより幕府に伝えられていました。幕府の 弱腰が不平等条約の締結、強制的な開国につながったというのは、幕府を倒して 新政権を樹立した薩長土肥の理屈であって、日本が、列強の属国にされることを 回避できたことはもっと評価されるべきなのかもしれません。江戸幕府は海軍力 増強のため、オランダに軍艦を発注し、海軍士官の育成も要請しました。黒船の 来航が1853年(嘉永6年)で、その10年後には、久坂玄瑞率いる長州藩が 黒船を砲撃し、その前年には薩摩藩がイギリス海軍と交戦し、肥前佐賀藩は 産業革命の途上にありました。黒船が幕府/藩幕府勢力を問わず、日本の技術的 発展をもたらしたことは確かなようです。今回の旅では、オランダで建造された 日本でよく知られた『あの軍艦』のふるさとを速足で訪れます。咸臨丸をはじめ 朝陽丸、開陽丸の運命や日本の近代化の黎明期の話をを交えて、開設致します。 ロッテルダム 肥前佐賀藩の近代化に貢献した電流丸のふるさと ロッテルダムは13世紀の建設で、1328年(日本は嘉暦3年。後醍醐天皇の 御代。鎌倉幕府第九代将軍・守邦親王/第十六代執権・北条(赤橋)守時の治世) 都市権を取得しました。港が発達したのは16世紀ごろで、有力港湾都市として 大西洋交易時代の一端を担いました。ライン川、マース川、スヘルデ川が北海へ 注ぐデルタ地帯の、マース川の河口部分に位置しているため、交易の拠点として、 発展し、後に首都のアムステルダムに次ぐ都市に成長しました。 ★日本とのかかわり 黒船来航に揺らぐ江戸幕府は、江戸時代を通しての交易相手であったオランダに 軍艦を発注し、海軍設置のため伝習を依頼します。それにより長崎海軍伝習所が 設置され、練習艦としてオランダから軍艦が到着しました。最初に到着したのが フリシンゲンで建造された『観光丸』、そしてキンデルダイクで建造された二艘 『咸臨丸』と『朝陽丸』、さらにここ、ロッテルダムで建造された『電流丸』と 続きます。『電流丸』は、肥前佐賀藩に10万ドルで購入され、佐賀藩の三重津 海軍所で運用されました。肥前佐賀藩は、幕末の諸藩の中でいち早く産業革命に めざめ、最終的に肥前佐賀藩が新政府軍に加わったことで、維新は達成されたと 言う見方もあります。そのきっかけの一つが『電流丸』だったのかもしれません。 キンデルダイク 太平洋を横断した咸臨丸、幕末動乱を見た朝陽丸のふるさと キンデルダイクはロッテルダムの南東13kmに位置するレク川とノールト川に 挟まれた地区です。アルブラセルワールト干拓地の排水を行うために、19基の 風車が建造されました。これが現在、ユネスコの世界文化遺産に登録された物件 『キンデルダイク=エルスハウトの風車網』です。風車群は1740年代に建造、 19基の風車は、オランダ国内でも最大規模のものです。現在は観光名所として 有名ですが、オランダの歴史は地盤沈下と排水という、水との戦いの日々でした。 ★日本とのかかわり 江戸幕府がオランダに発注し、二度目に送られてきたのは下記の二艘の軍艦です。 ・・咸臨丸: 日本人にとって咸臨丸は特別な船という印象があります。万延遣米 施設に随行する意味で、勝海舟や福沢諭吉が乗り込んで渡米したあの船です。 戊辰戦争時、海軍副総裁・榎本和泉守武揚が、東北諸藩支援のため、という名目で 開陽丸、回天丸、蟠竜丸、千代田形、神速丸、美香保丸、長鯨丸と共に品川沖を 脱出。咸臨丸は暴風雨で脱落、清水港で官軍に攻撃され、副長・春山辨蔵以下、 賊軍として虐殺されました。官軍をはばからず、清水次郎長が犠牲者を埋葬した のはこの時のことです。官軍に摂取され、修復された咸臨丸ですが、1871年 (明治4年)に片倉氏の旧臣401名を北海道に移住させる目的で出航しました。 しかし、暴風雨のため北海道木古内沖、サラキ岬で沈没し、寿命を終えました。 ・・朝陽丸: キンデルダイクで建造されたもうひとつの軍艦が『朝陽丸』でした。 朝陽丸は、知名度こそ咸臨丸に譲りますが、波乱の歴史は勝るとも劣りません。 1861年(文久元年)に起きた、水戸浪士によるイギリス公使館・東禅寺襲撃 事件の際、矢田堀鴻を艦長として長崎に連絡航海しました。1863年(文久3年) 長州藩が馬関(下関)で外国船を砲撃した際には、詰問使・中根市之丞を乗せて 長州に派遣されるも、長州諸隊に占拠された上に中根は暗殺されてしまいました。 1864年(元治元年)には水戸天狗党の乱の鎮圧のため那珂湊に出陣しました。 1868年(慶応4年)に江戸幕府が瓦解すると、陸軍総裁・勝海舟は朝陽丸を 官軍に引き渡します。官軍の佐賀藩士・中牟田倉之助が艦長となり、榎本武揚の 脱走艦隊を追撃し蝦夷地に向かいました。1869年(明治2年)の函館戦争に おいて朝陽丸は松前城を砲撃し、回天丸の40斤砲を沈黙させる等活躍しました。 しかし、5月11日、幕府艦隊側の旧・僚艦の蟠竜丸による砲撃を受け、大破、 艦長・中牟田倉之助に重傷を負わせ、86名の官軍の命とともに海に沈みました。 皮肉なことに、咸臨丸と朝陽丸の姉妹艦は、江戸幕府の海軍力増強のために渡来、 最後は敵・味方に分かれて矛を交え、ともに、北の海に沈んでしまったのです。 ドルトレヒト 最後の将軍・徳川慶喜や土方歳三を乗せた幕府艦隊の旗艦・開陽丸のふるさと キンデルダイクの南に位置する都市で、旧マース川などの河川に囲まれた中洲に 発展しました。王制に囲まれながら共和制を敷いたり、洪水に悩まされたりと、 歴史の荒波に揉まれた土地のひとつです。戦略的にも重要な拠点であったため、 常に動乱の震源地となる危機にさらされました。18世紀になると戦略・交易上 重要な拠点はロッテルダムに移り、ドルトレヒトは衰退へ向かうことになります。 ★日本とのかかわり 江戸幕府の力が衰えてきた1962年(文久2年)、それまで所有していた中古 船では心もとないと考えた江戸幕府は、オランダに最新式の軍艦を発注しました。 翌1963年(文久3年)には設計が完成し、建造に入りました。江戸幕府は、 新軍艦引取役を兼ねて15名の留学生をオランダに派遣しました。その中には: 後の江戸幕府海軍副総裁そして明治政府で閣僚を歴任した榎本武揚、海軍教官の 澤太郎左衛門、日本造船の父とうたわれた赤松則良、後の陸軍軍医総監・林研海、 啓蒙学者として名をはせた津田真道、そして、教育家となった西周がいました。 彼らが引き取った軍艦こそ、榎本武揚の幕府脱走艦隊の旗艦となった開陽丸です。 開陽丸は、戊辰戦争では阿波沖海戦で薩摩藩の軍艦と戦い、函館戦争前哨戦では 松前藩攻略を行っていた土方歳三等を支援する等、活躍をしましたが、松前沖に 出航した際、時化に遭い、沈没しました。新撰組による甲鉄艦奪取作戦は、実に 失った開陽丸に代わる旗艦を摂取するための作戦で、宮古湾海戦として知られて います。ちなみに、開陽丸が建造されたのは、ドルトレヒトのヒップス・エン・ ゾーネン造船所でした。制海権を失った旧幕府軍は、激戦の末に、敗れました。 開陽丸は、鳥羽伏見の戦いで敗北した最後の将軍・徳川慶喜が、夜陰に紛れて 乗船、江戸に帰還しました。その際、艦長の榎本武揚は、京都の戦況を確認の ため大阪城に出かけており不在でした。お供の一人、老中・板倉勝静は、副長・ 澤太郎左衛門に艦長代理を命じて、開陽丸を出航させました。その後開陽丸は 大鳥圭介が率いる伝習隊、土方歳三が率いる新撰組、奧医師・高松凌雲、旗本・ 永井尚志や松平太郎、坂本龍馬や中岡慎太郎を斬ったとされる今井信郎たちを 乗せ、蝦夷地に向かいました。松前藩との戦いの際、時化に遭って沈没します。 それは、旧・江戸幕府勢力の行く末を暗示していました。乗組員の中には・・・ 榎本武揚や大鳥圭介だけでなく、後に外務大臣として名を成す林董もいました。